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畿内説、九州説、百花乱立の邪馬壹國の比定地 過去の考古学、民俗学の定説に囚われ過ぎているのか プロの歴史学者も、アマチュアの歴史愛好家も 迷宮を彷徨う 魏志倭人伝の呪縛の29文字 南至投馬國 水行二十曰 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 もし、二十日 十日 一月の記述が無かったならどうだろう 2015年、今、邪馬壹國の比定をGoogle Mapsから試みた


56.東西5月 南北3月(その3)

以前の 53.距離の基準 1里=53.3m (その3)の記事について
未万劫哉さんからコメントをいただいています。
コメントは以下をご覧ください

http://katsi.blog.fc2.com/blog-entry-59.html#comment42

いつもコメントありがとうございます。コメントがだいぶ増えたので、今回は、いただいたコメントとご意見に対する回答とそれに関連する考察を記事にしたいと思います。

1.國々はどのように成立したのか

農耕が発達して、人々は定住するようになります。農耕が発達すると、収穫量は耕作者の人数の消費を大きく上回るようになります。余剰人員が発生します。余剰人員は手工業など他の作業に従事することになります。
やがて集落が形成されそれが邑、國へと発展していきます。
地形の良いところに國が繁栄したと思います。
*農耕に適した平野が広がっている。
*生活に必要な水が豊富にある。
地形の条件の良いところに発展した國がいくつか誕生します。やがてその國々には市が誕生します。
そして國の人々は別の國の市場に農作物、水産物、鉱物、手工芸品などを売買するために出かけるようになります。
それぞれの國々の間は多くの人が行き来し、交流が生まれ、共存共栄していきます。
倭人の國々もこのように存在していたと推測します。
市のことは魏志倭人伝に記述がありますので、後ほど考察します。

2.末廬國から伊都國への経路

あらためて末廬國の比定地をを今津湾とした見解の経緯を解説します。
末廬國の比定地を考察する際に、主点としたのは地形です。
壱岐島から九州北部に上陸します。そして東南に陸行します。
壱岐島から九州北部沿岸に上陸したところが末廬國です。

末廬國の比定地を考察する際に、主点としたのは地形は以下の2点です。
 1)帆船を繋留するのに適していたか
 2)上陸後、直線的に東南に陸行できる経路があるか

これを元に以下の5ヶ所を候補地としました。

平戸松浦唐津糸島福岡県西区

この5ヶ所は、帆船を繋留するに適した入り江があります。
また直線的に東南に陸行する陸地もあります。
この5ヶ所を地形を考察した結果、最終的に福岡県西区末廬國と比定したのは、続く伊都國への経路です。
福岡県西区から東南へ進む経路が最も平坦で険しくないからです。
また経路は末廬國ー伊都國ー奴國ー不彌國ー投馬國ー邪馬壹國へと続きます。
福岡県西区からは、福岡平野筑後平野へと広がる平野は大部分が標高50m以下なのです。
倭人の國々(女王國の支配の及んだ國々)は、この福岡平野筑後平野にあったと憶測したことも理由です。
ご興味があれば以前の記事をご参照ください。

11.末廬國
http://katsi.blog.fc2.com/blog-entry-12.html

このときは、末廬國JR周船駅付近と比定しました。
このあたりより東は長垂山も当時は海であった誤解していたからです。
その後、Flood Mapsで海抜を考察した結果、長垂山が標高100mくらいあることを知り、今は末廬國の比定地の見解をJR今宿駅付近と変更しています。この地のほうが、壱岐島へ行くにはより近いからです。

未万劫哉さんからのご質問

当時、博多湾岸の地形が、どの様な状態だったかを認識していますか。

ご指摘の通り当時の博多湾の海岸線は、現在とは異なっていたと思います。

明治時代、新橋横浜間に鉄道が敷かれた時、横浜駅は海であったといわれています。
現在横浜駅の標高は10mくらいです。このことから標高10m以下の地点は、当時は海であった可能性を考慮する必要があります。
末廬國の比定地をJR今宿駅伊都國の比定地を春日市役所と憶測しました。この2点の経路を、Flood Mapsで海抜を上昇させて確認してみます。


海面上昇0mが以下の図です。現在の海岸線です。
JR今宿駅春日市役所を結ぶ直線は陸上です。

Flood Maps1

では当時の海岸線であった可能性のある海抜10m以下を見てみます。
Flood Mapsには+10mの設定がなく、+9m+13mですので、海面上昇+13mにして見てみます。

Flood Maps2

これが当時の博多湾の海岸線であった可能性があります。JR今宿駅は水没してしまいます。
また、JR今宿駅春日市役所を結ぶ直線も大部分が水没してしまいます。
このような海岸線で汽水域を避けて陸行したとすると、上の赤線の経路を辿ったのではと憶測します。
博多湾内部の汽水域は、大潮の満潮時は上の図のようにあったと推測しますが、大潮の干潮時には、海面上昇+0mの図の海岸線であったかもしれません。この汽水域は浅瀬の広大な砂州で、
ここを帆船が航海するのは困難であったと推測します。
一方、今津湾は海岸から長垂山が聳えていて、大きな河川が流れ込んでいないため広大な砂州もなく、長垂山の麓は、水深も深く良港であったのではと推測します。ここは、帆船を停泊するのに適していたのではと推測します。

未万劫哉さんのご見解

奥まった入江は迂回するか、沿岸航海の船を用いて渡るか、多くの河川も渡らざるを得ないと推測されます。

末廬國から伊都國への経路に関するご見解、その通りだと思います。
現在の福岡平野の水域を見てみましょう。

福岡平野の河川

多くの河川が福岡平野には流れ込んでいます。
入り江や河川を避ける経路は下図に示した赤い線ですが、それでも室見川桶井川那珂川およびその支流の梶原川を渡る必要があります。

Flood Maps2

川を渡るには、大きな石を川底に置き、そこに丸太を通して橋にしたのだと憶測します。沈下橋(潜水橋)といわれる増水すると水没するような橋です。

沈下橋

早瀬の一本橋 
津野町観光ネットのウエブサイトから画像を拝借しました。
https://town.kochi-tsuno.lg.jp/tsunodatu-no/iyasu/iyasu6.html

人々の行き来の多いところには、このような橋が架かっていたと憶測します。

未万劫哉さんからのご質問

多くの人が往来していた直線の道路は、現在、何故、無いのでしょうか。

今宿駅末廬國)と春日市役所伊都國)を結ぶ経路が現在その跡形を残していないのは、末廬國伊都國を行き来する人がいなくなったからだと推測します。
1607年には福岡城が築城されます。この頃には城下に博多港が整備されています。
外洋への玄関口であった末廬國も、一大率の治所であった伊都國も、この頃にはその機能は、福岡城博多港に移転していて、末廬國伊都國は跡形もなかったと推測します。
憶測ですが、人々が行き来しないこの経路はやがて消滅してしまったのだと考えます。

再びFlood Maps博多湾を見てみましょう。海面上昇を+30mにします。

Flood Maps3

JR今宿駅から春日市役所を結ぶ直線は、完全に水面下となります。
もし当時の海岸線が上図であったとして、汽水域を避けて陸行したとすると、上図の赤い線を辿ることになります。
当時の海面がここまで上昇していたとは思いませんが、豪雨の時は、この海抜30m以下の地域は、深刻な水害を受けたのではと憶測します。
春日市役所も水没してしましますが、その周辺は水没していない場所があります。
伊都國は、大きな水害でも浸水しない高台にあったと憶測しています。
伊都國の比定地を春日市役所あたりと憶測したのは、福岡平野の地形を考慮したうえでの見解です。

3.人々の往来

末廬國から邪馬壹國への経路は、多くの人が往来していた経路であり幹線経路として確立していたと推測します。
帯方郡の官吏が邪馬壹國を訪問するので慌てて整備した経路ではないと思います。

記事のこの記述に対して、未万劫哉さんから以下の質問をいただきました。

最も恣意的で主観的な見解ですね。可能だからそれが行われた事にはならないと思います。
推測するのは文献学的に恣意的ではないのですか。当に問うに落ちず、語るに落ちる状態ですね。それとも裏付けとなる記述や資料を提示できるのでしょうか。


良い質問です。

末廬國伊都國邪馬壹國にどれくらい人々が行き来していたかを考察します。

後漢書東夷列伝に以下の記述があります。

建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 
倭國之極南界也 光武賜以印綬


57年倭奴の國が朝廷を訪問し、貢物を奉げささげ、光武帝の改元のお祝いを述べた。
使いの者は自ら大夫と称した。
倭奴の國は、倭國の南部の端にある。光武帝は印綬を与えた。

倭奴の國は倭國の南の端にあったと記述されています。
倭奴の國の位置の記述は、魏志倭人伝に記述されている邪馬壹國の位置と似ています。
魏志倭人伝の記述は以下です。

自女王國以北 其戶數道里可得略載 
其餘旁國遠絕 不可得詳


女王國邪馬壹國)から北は、その家の戸数、道筋の概略を記載することができる。
その他の國々は遠くへだたっている。詳細を記述することはできない。

邪馬壹國から南の國々は遠く隔たっていたと記述されています。倭奴の國と邪馬壹國はどちらも倭國の南の端にあったと記述されています。
このことより、この二國は比較的近い位置にあったと推測します。

57年倭奴國の使節団一行が、邪馬壹國の近くの倭奴國から半島へ渡航しています。これが史書に記述されている最初の渡航です。

2回目の渡航は、後漢書東夷伝に記述されている以下です。

安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見

107年倭國の國王、帥升一行が生口(慰安のための未婚の女性および男性)160人を献上し謁見を願い出た。

この時の倭國の王はどこにいたのでしょうか。
同じ後漢書東夷伝に以下の記述があります。

國皆稱王 世世傳統 其大倭王居邪馬臺國

各國々には王と称するものがいた。何代も王は伝承されている。
そのの大王は邪馬壹國に居宅があった。

倭國の王は邪馬壹國にいたと記述されています。
107年に使節団一行が邪馬壹國から大陸へ渡航しています。これが2回目です。

続いて、魏志倭人伝に以下の記述があります。

景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻

238年6月倭女王の使者、難升米長官一行が帯方郡を参詣し、
朝廷を参詣して貢物を献上したいと申しいれた。

難升米は女王卑弥呼の使者ですから、邪馬壹國にいたと推測されます。
238年に使節団一行が邪馬壹國から半島へ渡航しています。
これが3回目です。

帯方郡の官吏が倭國を訪問したのは240年です。
魏志倭人伝に以下の記述があります。

正始元年 太守弓遵遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國

240年 帯方郡太守の弓遵は、建中校尉の梯儁ら一行を派遣し倭國を参詣して、詔書、印綬を奉納させた。

これが史書に記述されている、の官吏の最初倭國訪問です。

240年帯方郡の官吏梯儁倭國を参詣する以前に、57年107年238年3回邪馬壹國あるいは、その近くの倭奴國から半島、大陸へ渡航した記述があります。
記述されているのはこの3回ですが、それ以外に人々の行き来はなかったのでしょうか。

末廬國から伊都國への経路、および伊都國から邪馬壹國への経路がどのような機能を持っていたかを考察します。
その前に、邪馬壹國伊都國がいつから存在していて、伊都國がいつから女王國邪馬壹國の支配する國々)の統治下となったかを考察します。

後漢の時代(25-220年)を記述した後漢書東夷伝に以下の記述があります。

國皆稱王 世世傳統 其大倭王居邪馬臺國

各國々には王と称するものがいた。何代も王は伝承されている。
その倭の大王は邪馬臺(壹)國に居宅があった。

後漢の時代に邪馬壹國が存在していたと記述されています。
また後漢書東夷伝には以下の記述があります。

桓靈閒 倭國大亂 更相攻伐 歷年無主 
有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑眾 
於是共立為王


桓帝(在位146-168年)、靈帝(在位168-189年)の時代、倭國は戦乱で乱れていた。
その上、相互に敵の討伐が行われ長年主君がいなかった。
卑彌呼という名の女性がいた。長年未婚で仕事は祭祀と祈祓を行うことであった。
そこで卑彌呼を共同して王にした。

靈帝の時代に卑彌呼が王として即位するのです。卑彌呼が即位した時期は分かりませんが、早くても168年梁書の記述の考察からすると180年頃ではと推測します。
卑彌呼が王に即位したときに邪馬壹國が誕生したのか、邪馬壹國卑彌呼が即位する前から存在していたのかは分かりません。
しかし卑彌呼が即位した180年頃には邪馬壹國は存在していたと考えられます。

の時代(220-265年)を記述したのが魏志倭人伝です。
魏志倭人伝伊都國に関する記述は以下です。

世有王 皆統屬女王國

伊都國には代々王がいて、その王は全て女王國邪馬壹國の支配する國々)の統治下にあった。

代々王がいたという記述は後漢書

國皆稱王 世世傳統

の記述と一致します。
伊都國は、卑弥呼が即位した180年頃には、女王國(邪馬壹國の支配する國々)の統治下であったと推測します。
つまり、邪馬壹國伊都國180年頃には存在していたと推測します。これは帯方郡の官吏梯儁らが倭國を訪問する60年前です。
末廬國から伊都國への経路、および伊都國から邪馬壹國への経路がどのような機能を持っていたかを考察していきます。

魏志倭人伝の以下の記述を考察します。

收租賦 有邸閣國 國有市 交易有無 使大倭監之

租税を徴収していてた。國々には高閣の屋敷があった。それぞれの國には市場があり、あるものとないものを交易していた。大倭(官職名?)にこれらの監視をさせた。

國々には市場があったと記述されています。この市場にはその國の人だけが集まり、他の國の人々は出かけなかったのでしょうか。

魏志倭人伝對馬國の記述に以下の一文があります。

無良田食海物自活 乗船南北市糴

良田は無く、海産物を食べて自活しており、船に乗って南や北に行き市場で食料を買っていた。

島である対馬の人々は、当時船で50-100kmも航海して、狗邪韓國一大國などの他の國の市場に出かけていたのです。
陸続きでそれほど距離の離れていない末廬國伊都國邪馬壹國およびその周辺の國々の人々は、自國の市だけでなく、他の國の市場に年に数回は出かけ、交易をしていたと考えるのが自然と推測します。
交易を目的として、諸國間を人々は行き来したと推測します。

次に伊都國の機能を考察します。

自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之
常治伊都國 於國中有如刺史


女王國より北には特別に、一大率(官職名)を設置し検察をさせた。諸国はこれを畏れ憚った。
常に治所(政務を行うところ)は伊都國であった。
倭國に於けるものは、中國における刺史のようであった。

一大率の設置が何時から始ったかは分かりません。卑弥呼が即位する前からなのか、卑弥呼が即位したときに設置したのか。
もし後者であったとすると、卑弥呼が即位した180年からそれほど遅くないときには、既に設置されていたのではと思います。梯儁らが倭國を訪問する240年よりはだいぶ以前であっと推測します。

一大率は必要なときに諸國を検察していたと記述されています。そして一大率伊都國に常駐していた可能性が記述されています。
伊都國と各國は一大率の一行が行き来していたのです。
何時いつに一大率の検察があると知らされると、諸國の大官達は、丸太が流されて壊れている橋があれば補修したり、草木が生い茂っていれば刈り取ったりしたと憶測します。

各國の道路は定期的に手入れされていたと考えるのが自然です。
また一大率は、邪馬壹國の管理下にありました。諸國の検察の結果ともう一つの役割の結果の報告のために、一大率は定期的に邪馬壹國に報告に行ったと推測します。
伊都國邪馬壹國の経路も、一大率が頻繁に行き来したと推測します。

以上後漢書東夷伝魏志倭人伝に記述されているの3回邪馬壹國(もしくは倭奴國)からの渡航、諸國間の人々の市場での交易に関する記述、および伊都國一大率の役目に関する記述から、末廬國から邪馬壹國への経路は多くの人が往来していて、帯方郡の官吏が倭國を訪問した240年より以前に、幹線経路として確立していたと推測した次第です。

4.一大率のもう一つの役割

一大率には諸國の検察の他に重要な役目がありました。魏志倭人伝の以下の記述です。

王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津搜露
傳送文書賜遺之物 詣女王 不得差錯


王が使者を遣わして中國の都、帯方郡、諸韓國を参詣する際、およびの使者が倭國を参詣する際には、皆港に出向いて伝達文書、賜り物を露呈して検査を受け、間違いがないことの確認を受けて、女王國を参詣した。

倭人が渡航する際、またの使者が倭國を参詣する際には、一大率は港(末廬國)まで出向き捜露したのです。

何故、皆が港まで出向いて一大率の検察を受けたのでしょうか。
以下は憶測です。誰もこのような仮説を提案している人はいないです。

それは朱印を捺印してもらうためであったと憶測します。
貢物には目録が付いていたと思います。横領したり転売することなく、正しく運搬したかどうか、一大率の検察を受けたのだと思います。確認した一大率は、その目録に朱印を捺印したのだと思います。

邪馬壹國の使者が中國の都を参詣する際は、半島への渡航の最後の港である末廬國で、検察を受け、目録に朱印が押され、貢物は封印されたのだと思います。そして渡航します。
大陸、半島の目的地に到着した際は、朱印が押された目録と封印された貢物を届けます。相手側がそれが正しいか目録と実物で確認したと思います。朱印が無ければ、目録を偽装し、貢物を横領することが可能となります。
一方、大陸、半島からの使者が貢物を持ってきた場合は、玄関港である末廬國で検察を受け、目録に朱印が押されたのだと思います。時には使者は、貢物を一大率に委託して、捺印された目録を持って帰国したこともあったのではと思います。半島の使者は、朱印が押された目録を持って帰れば、無地貢物を届けた証拠となります。

また交易で半島へ渡航する際も、朱印状が必要であったと思います。中華の郡の管轄地に立ち入る際、朱印状が査証として機能したのではと思います。

では朱印には何が使われたのでしょうか。
これも憶測です。

238年明皇帝から卑弥呼に授与された金印、同じ238年明皇帝から難升米牛利に授与された銀印などが使われたのではと憶測します。
また57年後漢光武帝から倭奴國に授与されたも、それ以前には使われたのではと憶測します。


5.南水行20日、南水行10日、陸行1月

魏志倭人伝には、不彌國から邪馬壹國への途中に投馬國を経由したと記述されています。不彌國から投馬國へは、水行20日です。しかし、投馬國から邪馬壹國へは水行10日、陸行1月です。この記述は以前から不自然だと思っていました。それは、投馬國から南に水行10日した地点(地点A)を経由して、その地点Aから陸行を1月して邪馬壹國に至るのです。水行から陸行に変わる地点Aが何故記述されていないのかが疑問でした。
不彌國→投馬國→地点A→邪馬壹國の経路で方角は全てです。これらはほぼ一直線上であったと考えられます。
距離は、水行20日→水行10日→陸行1月なのです。
不彌國、投馬國、地点A、邪馬壹國の4か所を記述するのが普通です。地点Aが省略されていて、投馬國が記載されていることが不自然で疑問でした。投馬國よりも地点Aの方が、方位的には重要と思っていたからです。
投馬國を省略して地点Aを記述した場合の記述は以下です。

不彌國から南へ水行30日地点Aに至る。
地点Aから南へ陸行1月邪馬壹國に至る。

このほうがすっきりしていて分かりやすいのです。
しかし、魏志倭人伝では不彌國から投馬國への水行と、投馬國から地点Aの水行を同じへの水行でありながら、分けて記述しているのです。
これがずっと疑問でした。しかし今回九州の地形を再確認してみて、この疑問が晴れました。これは同じ水行では無かったのです。
では、不彌國から邪馬壹國への経路をあらためて考察します。

この考察には以下を前提としています。
不彌國の比定地は、筑紫野市荒船神社とした
への水行は、宝満川を船で川下りした
20日、10日、1月は時間の単位ではなく、倭人が使っていた日を基準とする長さの単位であった。

荒船神社から宝満川を下るとその川沿いに投馬國があり、さらに下ると筑後川に合流します。筑後川は東西に流れる川なので南に水行することは出来ません。宝満川筑後川の合流地点(地点A)で下船して、そこからに陸行した地点に邪馬壹國があった。
3つの前提を元にして考察するとこのようになります。

荒船神社から地点Aまでの距離はどれだけだったのでしょうか。
最初の倭人の認識は以下であったかもしれません。
荒船神社から地点Aへは川下りなので、朝方出発すると昼過ぎには地点Aに到着する。
地点Aから荒船神社へは、川の遡上なので朝方出発すると夕方に荒船神社に到着する。

やがて倭人の間には、日を長さの単位とした距離の計測方法が浸透してきたと憶測します。荒船神社から地点Aの距離の計測が行われることになります。
どのように計測が行われたのでしょうか。船にはオドメーター(積算計)が付いていないので、船の移動距離を計測することは出来ません。川沿いを歩いて歩測したのか、あるいは長さ1日の紐を作って計測したのかもしれません。その計測値が30日であったと推測します。同様に、荒船神社から投馬國の距離、地点Aから邪馬壹國への距離も計測されたと思います。それらの計測値は10日1月30日)であったと推測します。

未万劫哉さんから以下の質問をいただいております。

倭人が計測していたと書いてあるのですか。

隋書倭國伝の記述にあるように、中華の人々は、日を長さの単位として距離を測ることを知らないのです。彼らが使用していた長さの単位は里です。もし、帯方郡の官吏がこの距離を測定したのであれば、X里、Y里、Z里で表示されたものが実測値であったはずなのです。
しかし魏志倭人伝には、この距離は20日、10日、1月日を長さの単位とした数値で記述されています。これは倭人でしか計測できなかったと推測します。

この距離を倭人がいつ計測したのかは分かりません。
農耕が発達してくると、単位面積あたりどれくらい種をまけばよいか、苗を植えればよいか。これらは死活問題です。ある基準を元にした長さの単位が、農耕の発展にともなって確立します。この長さの単位が確立した時期は、農耕が普及し始めた時期からそれほど遅くないと憶測します。
最初は田畑などの比較的短い距離が計測されたでしょう。しかし各地に國々が誕生し、市場での交易など人々が國々を行き来するようになると、各國々の間の距離も次第に計測されるようになったと推測します。諸國間の距離が計測されだした時期は、國々が交易を始めた時期からそれほど遅くないと憶測します。

ふたたびFlood Maps北部九州の地形を見てみます。
以下を前提としています。

投馬國の比定地は、小郡市媛社神社
邪馬壹國の比定地は、八女市役所

下図が現在の地形です。

海抜13m0

宝満川から筑後川に合流する水行20日も水行10日も、同じ宝満川の川下りで同じように見えます。
では、当時の海岸線と考えられる水面を+13mに上昇させます。

海抜13m

有明海だけでなく筑後川下流も水没します。これらの地域は汽水域で広大な砂州が広がっていたと考えられます。そして注目すべきは投馬國の比定地の媛社神社が、ちょうど宝満川と汽水域の砂州との境い目に位置していることです。

不彌國(荒船神社)から投馬國(媛社神社)までの水行20日は、宝満川の川下りです。しかし、投馬國(媛社神社)から地点Aまでの水行10日は、広大な砂州の中を、宝満川によって出来た深瀬を通る水行10日であったと推測されます。
つまり水行20日と水行10日は異なる水行であったと考えられるのです。
これが魏志倭人伝に水行20日と水行10日を分けて記述されている理由であると憶測するに至りました。

ただし何故地点Aの國を記述しなかったかは、これまでの私考察では見解が出ていません。



(つづく)
不定期、週末更新予定






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KATS.I 様
コメントへの回答ありがとうございます。

>外洋への玄関口であった末廬國も、一大率の治所であった伊都國も、この頃にはその機能は、福岡城、博多港に移転していて、末廬國、伊都國は跡形もなかったと推測します。憶測ですが人々が行き来しないこの経路はやがて消滅したのだと考えます。

弥生後期~古墳時代に架けて九州の人口が激減したと云う学者も居ますが、住民の全てが居なくなったのではないでしょう。末盧国の重要性が失われたとしても、往来する人々が全く居なくはならないと思います。
例えば、遷都した後の藤原京や平城京等、利用する為政者や遣使等の居なくなった朱雀大路の如く、生活道路として使用できないので廃れて埋もれるのとは違い、ショートカット的で便利ですから生活道路としても使われたと思います。

>良い質問です。末廬國~伊都國~邪馬壹國にどれくらい人々が行き来していたかを考察します。

丁寧に答えて頂いて有り難いのですが、往来が多いとする直線道路に就いての質問と云う流れに順って応えて下さい。漢籍に於ける倭国との往来に関連する記述を提示しても、KAT.I様が設定した経路、末盧国~伊都国への直線道路を往来したとは限らず、これは、あくまで大陸と倭国との往来です。
そもそも提示された記述では直線道路があったかどうかは証明できないでしょう。土木工事の多い都市部にも拘わらず、現在、その道路の痕跡すら発見されていません。失われたのではなく存在しなかったのでしょう。
現在の地図を見ても福岡県春日市付近に溜め池が多く、縄文海進や邪馬壹国頃の温暖化の影響で、彼方此方に泥濘や沼地等が拡がっていたと思います。無論、提示された地図で青色部分の全てが海中とは云いませんが、満潮時、湾外沿いを沿岸航海用船や河川用平底船で航行せずに陸行した理由も解りません。

>未万劫哉さん、先ほどのコメントの補足です。

前回、福岡県の今津湾付近から同県春日市に向けて直線道路があったと云うKATS.I様の説に対して、博多湾岸の地形を認識していますか。と問いました。これに対して当時の博多湾岸沿いに向かったとでもすれば、問題なかったのです。
また、末盧国から伊都国へ向かう直線道路は往来が多く、古くから整備されていた。と云われるので、その道路が、古くから整備されて、往来が多かったとする資料でもあるのですか。と問いました。
これに対して漢籍を持ち出して説明されますが、それは大陸からの遣使が倭国へ渡来した事、当時、倭国でも物々交換的な商取引があり、幹線道路等の往来が多かったであろうとする補足説明にはなり得ますが、KATS.I様の云う往来の多い直線道路が存在した事を証明する資料にはなり得ないと思います。
発掘資料、及び、そうした記述のある文献資料でもなければ、恣意的で主観的な仮説と云わざるを得ません。前にも申しましたが、そうした推測や憶測を前提とするための資料を積み重ねる事で、仮説になると思います。

 >隋書倭國伝の記述にあるように、中華の人々は、日を長さの単位として距離を測ることを知らないのです。

「夷人不知里數但計以日、~云々」と云う記述から知り得る事は、隋等、中華の人々は里数で距離を測り知るが、倭人は距離の単位を里数ではなく日で以て計るとしていると云う事実だけです。この場合、隋の人々が日数を距離の単位の代用とする方法を知っているのか否かは判断できません。
私見では、海上航行で風向と海流や潮流の影響を受けるのと同様、大陸の黄河や長江を遡上する場合でも、下りでも水流の影響を受けるため、行きと還りでは要する日数に違いが生じます。詰まり、実測値には意味がありませんので、往復に要する日数で換算する人々がいると思います。
また、北方の騎馬民族も、馬が一日で走る通常の距離と実測値から日程を用いたかも知れません。おそらく、帯方郡衙から狗邪韓国迄、朝鮮半島沿岸部も実測値ではなく日程から一日で進む最長の距離からの換算値と考えます。何故なら、距離数よりも最長の日程が計画的で実用に向いているからです。

>これが魏志倭人伝に水行20日と水行10日を投馬國とが分けて記述されている理由であると憶測するに至りました。

南北直列に位置すると比定された投馬国と邪馬壹国、二国の関係ですね。倭人が里数で距離を測る術を知らないとすれば、郡使や魏使が計測したと思しき里数で記述される国々の帯方郡衙~狗邪韓国~不彌国、日程に拠る投馬国と邪馬壹国とを書き分けた理由は何ですか。と云う質問の回答ではないですね。
私見では、倭人の領海「瀚海」を渡る十日(実質三日=三千余里)の後、末盧国(おそらく、KATS.I様の云うA地点)で下船、投馬国へは沿岸航海用船に乗り換え、水行二十日中、邪馬壹国と共有する水行十日を除く、残り十日で九州西沿岸部を大村湾付け根へ向かう。邪馬壹国へは同地から南へ松浦川、途中、東向きの厳木川に分岐して遡上して陸行一月で至る。
おそらく、投馬国と邪馬壹国の位置関係は南北に直列ではなく、倭の北岸とされた狗邪韓国から見て、四分法では東や西ではない南側にあり、二国は東西に並んでいると考えます。

倭人が里数で距離を測る術を知らないと仮定すると、魏使や郡使は、自国の一里を用いずに、態々、一大国(壱岐?)の大きさを測定し、一里を「53.3m」と設定した理由も分かりませんが、投馬国~邪馬壹国だけ、倭人しか知らないと云う日程として記述した理由は全く解りません。以上です。 


未万劫也

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