FC2ブログ
畿内説、九州説、百花乱立の邪馬壹國の比定地 過去の考古学、民俗学の定説に囚われ過ぎているのか プロの歴史学者も、アマチュアの歴史愛好家も 迷宮を彷徨う 魏志倭人伝の呪縛の29文字 南至投馬國 水行二十曰 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 もし、二十日 十日 一月の記述が無かったならどうだろう 2015年、今、邪馬壹國の比定をGoogle Mapsから試みた


53.距離の基準 1里=53.3m (その3)

前回の記事について、未万劫哉さんより丁寧なコメントをいただきました。ありがとうございます。
返事が長くなりますので、今回をこの返事を記事にすることにします。
コメントの全文は以下をご覧ください。

http://katsi.blog.fc2.com/blog-entry-58.html#cm

コメントの中の2件のご質問に対する回答と、いくつかのご見解の中で6件を取り上げ、賛同できるところと、そうでないところ合わせて記述します。

1.
私の記事
日の出の時、太陽の上面が地上線に接して姿を出し、完全に地上線に現れる迄の時間は、
現在の時間の単位で2分であることを理解していた。


→ 私も原典は知りません。

織田一郎2017)『時計の科学』、ブルーバックス講談社出版
に記述されていますので、著者がご存知かもしれません。
太陽が地平線に顔を出してから、姿を完全に現すまでの時間が約
で検索するといくつかのサイトに辿り着けますが、
原典を紹介されている記事は見つかりませんでした。

2.
ご見解 
メソポタミヤの水平線から出た太陽の直径を二分(にぶ)=二度とし、
一日=360度と設定して


→ 賛同しません。

太陽の直径分が移動する時間は、分ではないのです。
10秒とか、30秒です。
太陽の直径が移動する時間を1日の基準としたら、
1日=330度とか288度と設定しなければなりません。
まず、ある基準を元にしたの単位が、先にあったと推測しています。
ご見解の通り、太陽の直径の話はの単位が確立した後、
かなり経過してから、お伽噺として作られたと考えています。


3.
ご見解
 突然、南へ水行十日陸行一月と日程にした編者陳寿の意図や、その理由も考えず、


→ 賛同しません。

仮説1.
 意図や理由があった

仮説2.
 1月は1日の誤り
 提唱者 白鳥 庫吉 東京帝国大学文科大学史学科教授1904年 - 1925年)

仮説3.
 南は東の誤り
 提唱者 内藤 湖南 京都帝国大学文科大学史学科教授1909年 - 1926年)

(教授在任期間)

この三つの仮説を比較します。
仮説2も仮説3も立ち位置は、仮説1と同じです。
「水行十日、陸行一月」を解読することはどうしても出来ない。
何故なら編者の意図や理由があったから。
この前提の上で、仮説が立てられているのです。
編者による事実の改竄が行われた。記述は誤りである。と前提し、仮説は立てられたのです。
二人とも明確には改竄とは言わず、誤りと言っていますが。

このように仮説を立てることは、学問的に正しい手法です。
「1月は1日」、あるいは「南は東」の仮説を、実証もしくは反証することが論点となります。
誤りがあったかどうかは論点ではないので、議論しても意義がないのです。

白鳥教授の「1月は1日の誤りである」との仮設は、
意外と反証が難しいのです。さすが、東京帝国大学教授の面目躍如といったところでしょうか。

一方、内藤教授の仮説は、矛盾が顕著ですので、反証の余地が多いのです。

 南を東と2回も誤ったのか。
 北の一大率も誤りなのか。

内藤教授の胸の内を察するに、
当時の史学界の第一人者である白鳥教授ともあろうものが、記述は誤りであると仮設するのは、遺憾である。
原文の解読から目を逸らしてしまえば、それはもはや文献学でなくなることを憂慮したのでは、と推測します。
仮説が反証されなければ、それは学説となります。
白鳥教授の仮説が議論されるのであれば、「南は東の誤りである」とする仮説も議論されるべきである。
と敢えて矛盾の多い仮説を提唱して、白鳥教授の仮説が学説となることを必死に阻止したのでは、と勝手に憶測します。

白鳥教授の仮説は、その後の思わぬ援護射撃によって守られてしまいます。
白鳥教授の門下生である、榎一雄 東京帝国大学文学部東洋史学科教授(教授在位期間1955年-1974年)が、戦争後の混乱の中、1947年に「放射説」の仮説を提唱し、
学会の争点の転換が計られてしまうのです。
白鳥教授の仮説は、学会で実証も反証もされなくなります。
反証されないことは、学説として定着したことを意味します。
あと100年も経てば、白鳥教授の仮説は学会の定説となるかもしれません。

さて、白鳥教授内藤教授らの仮説に対抗するには、
仮説が正しくないとする事実を提唱して反証するか、新たな確からしい仮説を立てることとなります。

「編者の意図や考えがあった」との前提の上で、仮説を立ててもよいし、
「意図や考えはなかった」との前提で仮説を立ててもよいのです。

編者の意図や考えがあった。そして事実の改竄が行われた。あるいは故意に誤って記述した。
この前提に基づく仮説は脆弱です。改竄を前提とするのは、無理筋だと思われるからです。

二十日、十日、一月には、編者の意図や考えがあった。
二十日、十日、一月は、距離を示すものでも、所要した日数を示すものでもない。
二十日、十日、一月は解読出来ない。

この仮説は、白鳥教授、内藤教授の仮説に対抗出来るものでは、と考えています。
改竄を前提としていないので、無理がないと私は考えます。

この仮説の場合、二十日、十日、一月の記述を無視して、
方向の南だけに焦点を絞り、魏志倭人伝を考察すれば良いことになるのです。
いわゆる呪縛から、開放されるのです。

文献学者は万能ではないのです。
この一文は解読出来ないと、潔くよく解読を放棄するのは、専門家として立派な見解と考えます。
古代文字の解読をするときは、解読放棄は普通に行われていることなのですが。
こと、魏志倭人伝において、改竄説、放射説などが出てくるのは、
文献学者は万能であるべきだ、
解読放棄をしては権威に係わる、
そのような発想は学会の慣習に沿わない、
などの強迫観念に囚われてしまっているのでしょう。
このような固執は、学問の発展を妨げてしまうのですが。
 
さて本筋に戻ります。
意図や理由があったとするのは仮説ではなく、仮説を立てるための前提です。
意図や理由があった。だから解読できない。これもまだ前提です。
記述の一月、あるいは南は誤りであるとか、記述は解読できないとか、ここまで進めないと仮設とはなりません。

誰々の見解に賛同するのはそれでいいのです。それを前提とした自説は、あくまでも自身の仮説です。
何を前提とした仮説なのかを説明し、他者にその信憑性、確度の議論を求めるのが学問の手法です。
提唱した仮説は、議論されます。その際、何を前提としているのかが追及されます。
前提が例えば、松本清張が言っている、では議論とならないのです。
誰々が言っていることを、あなたは自身で十分検証しましたか、と大学のゼミでは指導者に問われることでしょう。
誰々の見解が自然科学の定理、法則なら、それに従って見解したでよいのですが。
文献学の分野では、誰々の見解を鵜呑みにせずに十分に消化して、誰々がこう言っているなどと引用することなく、自身の見解、仮説として提唱することが専門家には求められます。

当たり前ですが、白鳥教授、内藤教授は、正しい手順を踏まえているのです。

何故、「意図や理由があった」とするのが仮説とならないのか。

私も、意図や理由があったと考えます。
それは、編者が文の調律(リズム)を大切にしたからと考えています。
帯方郡から邪馬壹國への距離の記述は、
7000、1000、1000、1000、
500、100、100、
20、10、1
と実に美しいのです。
切のよい数字が並び、目的地に近づくに従い逓減し、そして最後は1で目的地に達するのです。
これが編者の意図と考えています。

つまり、論点のずれが生じて、議論が噛み合わないのです。
 

4.
ご見解 
古代人より現代人の方が知識も豊富で優れている
と云った思い込みに拠るものだと思います


→ 賛同します。
本文でも記述した通りで、
「無知だから距離を計測するすべを知らない」
とするのは間違った意訳だと思います。

5.
ご見解 
三つの航路を3日で渡りきるとすれば、その日程を最長10日としても納得できます。


→ 賛同します。
狗邪韓國對馬國一大國末廬國
日の行程だったと思います。
私は、航海の時速は4-6kmと考えていますが、いかがでしょうか。
航海は昼間が基本ですが、夜間も行われたと憶測します。
そうでないと、狗邪韓國對馬國80-100kmの航海は、昼間の12時間では到達困難ではと思うからです。

6.
ご見解 
航海に於ける1日の最長航行距離と同様、
何れも千餘里として認識したと考えます。


→ 賛同しません。
それは「古代人より現代人の方が知識も豊富で優れている」という
先入観による見解と私は思います。
この時代すでに、現代人と同じ技術である、天体観測、あるいは三角点計測により、二地点間の距離は計測されたと考えます。
航海距離ではないと思います。

7.
ご見解 
郡衙から狗邪韓国迄の沿岸航海七千餘里の実質7日間も
潮待ちや風待ち、休息日や予備日等を含めて最長25日程度の日程と考えます。


→ 概ね賛同します。

ただ、帯方郡から狗邪韓國の航路の考察で、
狗邪韓國から末廬國への海域の条件をそのまま用いて推論してよいのか、疑問を感じます。
この帯方郡から狗邪韓國の航路の水深は、極めて浅いのです。
また内海です。対馬海峡と比べると、潮流、風は穏やかなのです。
私は、帯方郡から狗邪韓國までの所要日数は日と考えています。
これは行程中どこにも寄港せず、終日終夜24時間航海したことを前提としています。また、航海の時速は4-6kmを前提としています。

8.
ご質問 
シュメール人や古代エジプト人が肱から指先迄の長さと云う単位「キュビット」を創り、
使った理由、その必然性は何でしょうか。


→ 何故なのでしょう。私には分かりません。
キュービットは実際に存在していた単位ですので、何らかの仮説が必要でしょう。

9.
ご質問 
そうした不思議な単位が、倭人達の使う距離の単位に用いられた理由は何でしょうか。


→ これは次回以降に記述したいと考えています。
フィートの距離の単位の存在には、
違和感をもたれていないようなので安心しました。
その関連も含めて記述させていただきたいと思います。


つづく

不定期、週末更新予定




スポンサーサイト

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

非公開コメント

No title

KATS.I様へ

(2) >太陽の直径分が移動する時間は、2分ではないのです。2分10秒とか、2分30秒です。太陽の直径が移動する時間を基準としたなら、1日=330度とか288度と設定しなければなりません。

>まず、ある基準を元にした「分」の単位が、先にあったと推測しています。と云う様に、当時、現在と同単位の時は無かったでしょう。後代の学者や訳者の云う太陽の直径が移動する二分(にふん)ではなく、「分=刀で切り別ける」と云う語義から原文の「分」を、より小さいもの(minute)と云う原義のラテン語とし、「より小さな単位=分(ぶ)→度」としました。
詰まり、当時、太陽の直径を二分(ニブ)とし、半径360分を一日と設定したのでしょう。「広辞苑」に拠ると、「度」=角度の単位。円周を360に等分し、その1単位の円周の中心角を1度という。経度・緯度の単位。地球の円周の360分の1とあり、円の角度=360度に繋がると考えます。
尚、日本語の「秒」に対する英語[second(二番目)]には時計の秒針・時計等の語義もありますので、分(ふん)に続く二番目に小さな単位「秒」の成立が、時計として認識されているようです。

(3) >編者が文の調律(リズム)を大切にしたからと考えています。帯方郡から邪馬壹國への距離の記述は、7000、1000、1000、1000、500、100、100、20、10、1、と実に美しいのです(中略)。つまり、論点のずれが生じて議論が噛み合わないのです。

論点が外れているのではありません。編者の陳寿は、邪馬壹国への道程で、郡衙から不彌国迄は里程で、七千餘里、千餘里、千餘里、千餘里、五百里、百里、百里とした後、唐突に筆法を変えて、南至投馬國水行二十日~、南至邪馬壹国水行十日陸行一月~。と日程で20日、10日、1月とします。
これを伊都国か、不彌国の何れかを基点とした放射式にしようが、南は東の間違い、一月は1日の間違い等と論っても、陳寿が、投馬国と邪馬壹国だけ、里程(距離数)ではなく日程(日数)に変える意図や理由にはなりえないと考えます。

>意図や理由があったとするのは仮説ではなく、仮説を立てるための前提です。とされる様に、陳寿は、上記「南至~」の基点を何処に設定したのか、文章を読み解くための前提、いや基本とも云える文脈をどう理解するのかと云う本質的な事を置き去りにし、殆どの研究者は「南至~」の基点を文章の流れに任せ、伊都国や不彌国した挙げ句、南へ向かうと、距離数や日程が合わないからと、仮説と称した正誤論に陥りました。
況んや伊都国を福岡県糸島付近、奴国を博多湾沿岸部、不彌国を糟屋郡宇美町付近に比定する研究者に至っては、沿岸部の水行に拠れば、楽に早く行ける事に対する説明もないまま、弥生期の遺跡が多いと云う理由と、国名の語呂合せに拠り、見まごうかな伊都国への東南は東北の間違いとか、東南は道標等と称して、敢えて道無き道を陸行させます。

>白鳥教授の「1月は1日の誤りである」との仮説は、意外と反証が難しいのです。にしても、そもそも基点を不彌国にしたため、水行十日、陸行一月も南に向かえば、九州を出てしまうと云う曖昧な前提の下で出された仮説ですから、その前提が崩れるとすれば、成立しません。尚、その前提となる基点を帯方郡衙にする説があります。

>二十日、十日、一月は、距離を示すものでも、所要した日数を示すものではないとの仮説を立てるのが、私は無理がないと考えるのですが。この仮説の場合、二十日、十日、一月の記述を無視して、魏志倭人伝を考察すれば良いことになります。呪縛から開放されるのです。

文章の形式論として、文章の調律を大切にしたため、意味を持たない日程(日数)に変えたと云う意図や理由と云うのであれば、何も言うつもりはありません。呪縛にから解き放たれて、思い通りの目的地に向かって下さい。
ただ、KATS.I様が指摘された「夷人不知里數 但計以日」と同様か、いや、それ以上に重要な事と考えます。

(5) >航海の時速は4-6㎞と考えていますが、いかがでしょうか。航海は昼間が基本ですが、夜間も行われたと憶測します。そうでないと、狗邪韓國→對馬國の100㎞の航海は、昼間の12時間では到達困難ではと思うからです。

手持ちの資料が正しければ、主として櫓を用いた船の最大速度は10knot程度で、実船相当で4~6knot位とあります。1knot=一海里(毎時約1852m)として、毎時7.5~11㎞、最長12時間として、略100㎞/日が目安でしょうか。追い風に帆を掛けた複数の漕ぎ手に拠る櫂の船とすれば、もっと速かったかも知れません。
上記から離岸流や、午前中の干潮等を利用して出港し、午後の満潮で寄港すると考えて、一日(午前中の12時間)で進む最長距離を約100㎞と設定しました。

(6) >それは「古代人より現代人の方が知識も豊富で優れている」という先入観による見解と私は思います。この時代すでに、現代人と同じ技術である、天体観測、あるいは三角点計測により、二地点間の距離は計測されたと考えます。航海距離ではないと思います。

>航海距離ではないと思います。にも関連しますが、二地点間の距離が計測できないからではなく、陸上とは違い水上に浮かんだ状態の航海では、エンジンを備えた船でも海流や潮汐、風向き等に大きく影響を受け、その距離感や所要時間が変わるので、当時、帆掛けの手漕ぎ船に拠ったのならば、猶の事と考えます。
最長の距離や最長の日程等の記述は、当時の人々なりの合理性に拠るもので、計測された距離自体、その目安でしかなかった。詰まり、狗邪韓国~對海国~一大国~末盧国、三つの航路の何れもが、千餘里(1日進む最長の距離)と云う距離であって実際に航海した距離ではないとして良いでしょう。

 そうした事を考え併せると、(2)>太陽の直径分が移動する時間は2分ではないのです。2分10秒とか、2分30秒です。としますが、これも現在の時間の二分(にふん)ではなく、二分(ニブ)と云う単位に彼等なりの必然性があったでしょう。
同様に、KATS.I様が、倭人の距離(日程?)の単位とする「キュビット」にも、その必然性があったと考えます。

(7) >この帯方郡から狗邪韓國の航路の水深は極めて浅いのです。また、内海です。対馬海峡と比べると、潮流、風は穏やかなのです~云々。

例えば、熟田津尓(にきたつに) 船乗世武登(ふなのりせむと) 月待者(つきまてば) 潮毛可奈比沼(しほもかなひぬ) 今者許藝乞菜(いまはこぎでな)、万葉集の額田王の歌、「月待てば」を、通説では、月が出るのを待って月夜に出港するとしますが、月(つき)=潮汐(こよみ)で、安全に航行できる大潮の日を待ったと考えます。
水深が浅ければ、座礁を避けるため、大潮を持ったり、沖へ出ました。詰まり、現在の朝鮮半島沿岸航路に近かったかも知れません。また、長期の外洋航海以外、目視で航海したため、夜の航海はなるべく避けたと思います。
魏使は、初めての外洋航海に対して、従事する倭人等に問うたのか、外洋船と云う違い以外、沿岸航海で1日に進む最長の距離「千餘里(約100㎞)」に近かったため三つの外洋航海にも採用、渡海十日ではなく水行十日にされたと考えます。

陳寿は、「南至~」の基点を倭の北岸狗邪韓国からの東でも西でもない南側とし、文脈を「水行十日陸行一月」に繋いで、その基点から女王国領内を移動して邪馬壹国の中枢へ至る五千餘里の内訳「渡海の三千餘里に要する最長十日(実質3日)」と「陸行の二千里に要する最長一月」として提示したのではないでしょうか。
同様に投馬国への「南至投馬国水行二十日」は、三つの外洋航海に要する最長の日程が邪馬壹国への水行十日(実質3日)と同様、水行二十日中、「始めの十日(実質3日)」で、末盧国の港と東松浦半島を挟んだ西側の港(官と副官が居たか?)に至り、沿岸航海用の船に乗り換え、「残りの最長十日(実質3日)」で九州西北隅の平戸付近を廻り、西海岸と大村湾内を南下したと考えます。
 尚、「私説」一里=105mとして、たかが、210㎞程(陸行二千里)に一月も要すのかと云う疑問を持つでしょうが、当時、温暖化が進んでいたと云うデータがあり、海進しており、河川が縦横に走っていたと推測されます。
大使や副使と、下賜の品々を平底の川船に乗せ、従者が道無き道の河岸から曳き河川を遡上したり、河川の無い峠道では、大使や副使を輿に乗せ、下賜の品々を担いだりと、通常ならば、毎時4㎞程ですが、魏使の渡来は、夏の暑い時期とありますから、半分の毎時2㎞として、二日に一度か、一日毎の休息日や、梅雨の長雨に因る河川の増水に対する予備日等を設けた最長一月で、実質15日、多くて20日程度を要したと考えます。以上です。 

 未万劫也

陸行210km

未万劫也さん

 コメントありがとうございます。また興味深いご見解拝読いたしました。
 今回は少し気になった点に対してコメントさせていただきます。

一里=105mとして、たかが、210km程(陸行二千里)に

日本列島で海岸から100kmも離れた内陸地は限られています。
西日本では、海岸線から60km以上離れた内陸地は存在しないのです。
210kmを陸行したとする仮説には疑問を感じます。
210kmも陸行しなければ、到達できないような辺鄙なところに、
都を置くべきではないと、当時の倭人は考えたと推測します。

◇内陸部へ210㎞

 
説明が足らなかった様です。何度も云ってきたと思いますが、この時代の距離(一里)は、あくまで最大の基準値です。15日か、20日を歩いた最長距離が210㎞になります。直線で、実質、210㎞を南下した内陸部とは限りません。
例えば、夏の明け方、薄明るい5時頃に出発、次の宿泊地迄、毎時2㎞で、一度か、二度の休憩を取ったとして、昼前に、次の宿泊地に着いたとすれば、実質5時間で10㎞/日、急流を遡ったり、急な上り坂での進行速度は、もっと遅くなるので、長い時間を歩いたかも知れません。そうした基準に則した距離感で宿泊地を設けたと考えます。

水行十日(実質3日)後、上陸した末盧国の佐賀県唐津市の半田川沿い鏡山の南麓、鏡(八坂神社)・宇木(宮地嶽神社)付近から松浦川に沿って遡上、同市(旧東松浦郡)相知(おうち)町伊岐佐(いきさ)の伊岐佐川沿岸部、三光神社付近で一泊した後、伊岐佐川を下り、同町久保付近で、天山の尾根南西部、東から流れてくる厳木川に分岐して遡上、同市(旧東松浦郡)厳木町牧瀬付近で下船して一泊、笹原峠を徒歩で踏破、伊都国の比定地とした佐賀県多久市北多久町多久原(宮地嶽神社)・仁位所付近で一泊した後、再度、平底船で付近の牛津川を下り、鏡山の南麓、同市東多久町納所・柳瀬付近、下船して一泊した後、徒歩で不彌国の比定地とした同郡三日月町土生(はぶ)方面へ向かったと考えます。

ここ迄の道程と、「魏志烏丸鮮卑東夷伝」の記述素直に読めば、東南方面の陸行を東向きに変えて不彌国へ向かった後、東でも西でもない南側に邪馬壹国はある。詰まり、有明海を迂回して筑後川を渡ったとする以外には考えられせん。
ただ、当時、筑後川河口は、現在よりも奥まっており、福岡県朝倉市(旧朝倉郡)杷木町付近だったとも云われます。更に云えば、末盧国から遡上した松浦川や厳木川と違い英彦山等の山系を背負う大河の筑後川は、梅雨の長雨や集中豪雨に因って増水しており、流れも速かったので、有明海の広い汽水域沿岸部を水行して流れを横切るのは難しかったため、筑後川沿岸部を徒歩で上流部の流れの緩やかな所に設けた大きな石の上を飛び移り、歩いて渡ったと考えます。
増水の程度で沿岸部の地形は変わり、広い汽水域沿岸部の泥濘を避けて進むコースの設定に拠っても不彌国以降、邪馬壹国へ向かう全距離(1400里)の計測値は変わり、曖昧な距離数になります。何れにしても1日で歩く距離が増減するだけで、末盧国からの日程とした陸行一月(実質15~20日)に変動は無かったと考えます。

魏使一行が筑後川を渡った地点の特定できませんので推測になりますが、私見で選んだ道程に拠る目測「150~170㎞位」になります。確かに提示した最大値の210㎞にはなりませんが、今では考えられない程の長い距離を歩かざるを得なかったのは略間違いないでしょう。
尚、当時のコース取りや、何日の休息日を設けたのか。悪天候や川の減水を待った予備日が何日あったのか等の詳細は判りませんが、当時の雨量や気温等、天候のシミュレーションデータでもあれば、もう少し詳細な検証ができるかも知れません。以上です。 

未万劫也

朝倉市杷木町

未万劫也さん

いつもコメントありがとうございます。

福岡県朝倉市(旧朝倉郡)杷木町付近

その仮説であるなら、水行10日、陸行1月の日数に拘り過ぎているように感じます。
日数を無視したらいかがでしょうか。

博多湾に上陸し、国道3号線沿いに筑紫野市まで行き、
そこから国道386号線で)杷木町に行けば、
ほぼ平坦な行程で、距離は20kmあまり。1日の行程です。
これが最短経路です。

大使や副使を輿に乗せ、下賜の品々を担いだりと

海から邪馬壹國までの経路は、倭人が管理していて、治安は保障されていたと推測します。

公認経路を通らないと、盗賊に合う可能性があったのではと推測します。


私の不彌國の比定地は、筑紫野市荒船神社です。
南水行20+10は宝満川の川下りです。
投馬國を経由して筑後川に辿り着きます。
ここから南に陸行。距離は20+10と同じ30です。

私の仮説は、邪馬壹國は八女市です。








距離を間違えていました。

未万劫也さん

大変失礼しました。距離を間違えていましたので訂正します。

福岡県朝倉市(旧朝倉郡)杷木町付近

その仮説であるなら、水行10日、陸行1月の日数に拘り過ぎているように感じます。
日数を無視したらいかがでしょうか。

博多湾に上陸し、国道3号線沿いに筑紫野市まで行き、
そこから国道386号線で)杷木町に行けば、
ほぼ平坦な行程で、距離は50kmあまり。
2日の行程でしょうか。
これが最短経路です。

大使や副使を輿に乗せ、下賜の品々を担いだりと

海から邪馬壹國までの経路は、倭人が管理していて、治安は保障されていたと推測します。

公認経路を通らないと、盗賊に合う可能性があったのではと推測します。


私の不彌國の比定地は、筑紫野市荒船神社です。
南水行20+10は宝満川の川下りです。
投馬國を経由して筑後川に辿り着きます。
ここから南に陸行。距離は20+10と同じ30です。

私の仮説は、邪馬壹國は八女市です。

◇キュビットと尺

この「キュビット」が日数の単位として「魏志烏丸鮮卑東夷伝」の1里(=53.3m)として、倭人系の海民にだけ使われたとすれば、朝鮮半島の沿岸航海の距離数と倭国領内や倭地に使われる距離数の単位に違いが生じますので、倭人だけではなく大陸東南岸や朝鮮半島沿岸部の海民達に使われたと考えられます。それが故、「夷人不知里數 但計以日」と倭人ではなく、夷人とされるのかも知れません。
ただ、通説では東アジアにキュビットやフートを起源とする単位は見えないと云われます。以下は手持ちの資料に拠る歴代の長さの単位です。*スパン(大凡20㎝)=3パルム(握り拳=四指の幅×3)

周=1尺(約19.9cm)・1歩=6尺(119.4cm)・1里=300歩(358.2m)
秦~前漢=1尺(約27.7cm)・1歩=5尺(138.5cm)・1里=360歩(498.6m)
新~後漢=1尺(約23.0cm)・1歩=5尺(115.0cm)・1里=360歩(414.0m)
魏~西晋=1尺(約24.1cm)・1歩=5尺(120.5cm)・1里=360歩(433.8m)
  北魏=1尺(約27.9cm)・1歩=5尺(139.5cm)・1里=360歩(502.2m)
 隋~唐=1尺(約29.5cm)・1歩=5尺(147.5cm)・1里=360歩(531.0m)
唐~五代=1尺(約31.1cm)・1歩=5尺(155.5cm)・1里=360歩(559.8m)

上記、周=19.9㎝、漢=23㎝、魏~西晋=約24.1cm等は、親指と人差指(中指)を拡げた長さとして良いでしょう。前漢を興した劉邦や魏王の曹操等の生地は大陸東南の長江下流域江蘇省沛(はい)県とあり、もしかしたら南中国の河民(河伯)や蜑民、更には水耕稲作民に伝えられた長さの単位として良いのかも知れません。
前漢の歴史家司馬遷は陝西夏陽の人とあり、問題の西晋を興した魏の権臣司馬炎は、その名「馬を司る」から騎馬民族との繋がりが深かったのか、漢王朝を興した劉邦や劉秀と同姓の将軍劉裕に滅ぼされるとあります。
残りの大陸西北部の陝西省を拠点とした秦(約27.7cm)、旧くは異民族の拠点だったとされる山西省大同に古代アジアのモンゴル系(トルコ系とも)の遊牧民の鮮卑族拓跋珪の建国した北魏(約27.9cm)、北朝の一つ北周(宇文覚)に仕えた楊堅が大興(長安)に都した隋(約29.5cm≒ローマ時代のフート29.6㎝)、北西部の甘粛省隴西出身の李淵が、現在の陝西省西安市(長安)に都した唐(約31.1cm)等は、フート(足の踵から指先迄)、唐等は靴を履いた足長と見まごう程の大きさです。
また、何れも拠点を大陸西北部に置く事から遊牧騎馬民や東西を往来する隊商等から齎された単位に影響されたのか、メソポタミア文明の担い手や関係者か、その影響下にあった西方の人々と同様の志向性や生活習慣等を持つ人々が、中国の歴代の王朝にも影響を与えたとも考えられます。

周王朝の1尺=19.9㎝、1歩=6尺(119.4㎝)、1里=300歩(358.2m)には12進法の意識が在ったでしょうが、その後、問題の「三国志」魏~晋代=一尺=24.1㎝、1歩=5尺(120.5m)、1里=360歩(433.8m)とあって、10進法(メートル法?)と12進法(ヤード・ポンド法?)が混在すると考えられます。
それは古代中国の根本原理である輪廻転生思想「陰陽五行説」でも云える事で、陰陽二元の十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)が併さり、60進法とされます。
また、エジプトの7パルム=28ディジットは、日・月・火・水・木・金・土を合わせた名称「七曜」と東西南北の四方向に関係して「28」になります。詰まり、度量衡の単位と暦や時間は表裏一体の関係で存在すると考えます。

「広辞苑」に拠ると、日本の尺(漢音はセキ)=尺貫法に於ける長さの単位、寸の10倍、丈の10分の1。古来、用いられた高麗(大)尺と天平(小)尺と、近世には、曲尺(かねじゃく)・鯨尺(くじらじゃく)・呉服尺・享保尺等があったが、明治以後、曲尺=30.303㎝(1mの33分の10)に定義された。
高麗(大)尺=高句麗から伝えられたとされ、飛鳥~奈良初期に架けて主に測地に用いられた。その1尺は曲尺の1尺1寸7分(約35.5㎝)に当たり、天平尺の1尺2寸に当たる。*1キュビット(532.5㎜)の三分の二?
天平(小)尺=奈良時代、律令制での標準尺。測地以外に広く用いた。その1尺は、曲尺の9寸7分8厘(約29.63㎝)に当たる。*唐初期(=隋)の大尺や、ローマ時代のフート=1ペス「29.6㎝」に略等しい。

近世では、鯨尺(鯨差)=民間で布を計るのに用いる。1尺は曲尺の1尺2寸5分(約37.9㎝)。呉服尺=江戸時代迄、衣類の裁ち縫いに用いた。一尺は曲尺の1尺2寸(約36.4㎝)等があります。未だ、「小尺」以外、基準の候補すら見えません。何れにしても手の指を拡げた長さとは思えません。
 また、他にも「段」=距離の単位は、曲尺で6尺を1間(けん)=1.818m、6間を1段。土地面積の単位は、1段(反)=300歩(991.7㎡・太閤検地以前は360歩)で、布帛の大きさの単位(端)、成人一人前の衣料に相当する分量=1反は並幅の布で鯨尺2丈6尺(または2丈8尺)、幅九寸(約34㎝)。歩=土地面積の単位。1歩は曲尺で6尺(一間)平方=1坪。

高麗尺(約35.5㎝)が高句麗から伝えられたとすれば、狩猟採集民ツングース族や遊牧騎馬民が持つ生活習慣や意識に拠るとすれば、手持ちの資料はありませんが、弓矢の長さ、馬の並足の幅等に関係して創られたとも考えられます。

>時間の長さの最小単位の分と、長さの単位のキュビットとの間で換算が規定されていた。つまり、1分=1キュビットとされたのではと憶測するのです。これが二つ目の仮説です。
1分=1キュビット 1時辰=120分=120キュビット 1日=12時辰=1440キュビット
1月=30日=43200キュビット 1年=12月=518400キュビット

1里=53.3mの基準はキュビットに拠ると憶測しました。

上記の仮説について、長さの単位キュビットが、>時間の長さの最小単位の分と、長さの単位のキュビットとの間で換算が規定されていたとするための前提になる事と、倭人の単位として使われたとする理由や、その必然性が何かを知りたいです。以上です。

  未万劫也

前後しますが

前回、内陸部へ210㎞に対するKATS.I様の疑問に応えましたが、説明の不手際か、誤解が多いですね。私見が正しいか、正しくないのかは別ですし、それをどう捉えようと構いませんが、「福岡県朝倉市(旧朝倉郡)杷木町(杷木神籠石)」は、現在、地質学上、筑後川の旧河口が在ったとされている所です。

私は、「南至投馬国水行二十日」「南至邪馬壹國女王之所都、水行十日陸行一月」の基点を不彌国とせず、倭の北岸とされた狗邪韓国を基点として、大凡の位置関係として、東南とした倭人の領域中、東側の倭種を除いた南側に投馬国と邪馬壹国女王之所都は東西に並ぶと、陳寿は認識していたと考えています。
邪馬壹国領内を移動する内訳として狗邪韓国から末盧国迄、南への三千餘里を水行十日(実質3日)とし、末廬国から東南への陸行五百里で伊都国に到り、次の東南百里の奴国には向かわず、東行百里の不彌国に向う。更に東行して有明海を迂回、筑後川沿岸部を上流へ向い川を渡って南へ向かう千四百里の合計、二千里を一月(実質15~20日)の日程とする。

>博多湾に上陸し、国道3号線沿いに筑紫野市まで行き、そこから国道386号線で杷木町に行けば、ほぼ平坦な行程で、距離は50kmあまり。2日の行程でしょうか。これが最短経路です。

何度も述べてきましたが、濱山海居草木茂盛行不見前人とされる末盧国を佐賀県唐津市付近とせず、福岡県の博多湾のどこに上陸したのかは分かりませんが、その付近を末盧国の港湾や津にしたとすれば、東南陸行五百里到伊都国や、東行百里至不彌国と云う方向の指示も殆ど無視して、南下すると云うことになります。
縦しんば、そうだったとして、現在の気象学や地質学上、当時の気候は温暖化しており、海進して地形も現在と同じではなかったとされます。小河川が縦横に走っていたでしょう。博多湾や筑後川の河口も随分と奥まっていました。
当時、あったかどうかも判らない整備された道沿いを同県筑紫野市まで歩き、そこから更に南へ杷木町迄、二日の行程ですか。魏使の渡来は暑い夏の時期、従者が、魏の大使や副使を輿に乗せたり、下賜の品々を担いだり、毎時4㎞で延べ6時間程の移動とすれば、休憩を入れながらとしても苛酷だった思います。
そうした状況下、梅雨の長雨後、泥濘や沼地を避け、川の浅瀬を渡った。当然のことながら、九州で一・二を争う大河、汽水域の広い筑後川は、背後に英彦山等、高い山を負い水量は多く流れも速かった。
上記と、「倭人伝」王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露傳送文書賜遺之物「詣女王」不得差錯~と云う記述とを考え併せると、おそらく、魏帝の命で渡来した魏使も女王の下、KATS.I様の云う福岡県八女市付近、私説では、もう少し南の福岡県みやま市(旧山門郡)瀬高町大草(女山神籠石)付近に向かったでしょうから、筑後川の大きな汽水域や川幅の広い河口付近ではなく、上流へ遡り、でき得る限り、安全に無理のない所で渡ったと考えます。
おそらく、現在の認識と比較にならない程、長距離の移動を余儀なくされたでしょう。増水量の違いに因る地形の変化や、渡れる地点の違いに拠り、距離感は曖昧にならざるを得ないでしょう。
それが不彌国以降の里程を提示しない理由でもありますが、先述した「倭人伝」倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑~とされた倭人の領域中、東側千餘里の倭種を除いた南側の狗邪韓国~末盧国迄の三千餘里を最長で水行十日(実質3日)、末盧国~邪馬壹国女王之所都迄の陸行二千里に要した最長一月(実質15~20日)を合わせた五千餘里の全日程として提示する事が最大の理由と考えます。詰まり、陳寿の筆法か、文脈上、倭の北岸狗邪韓国に繋がると示唆した。
また、「南至投馬国水行十日」は、狗邪韓国~末盧国に要した最長の水行十日(実質3日)で至った末盧国の港か、東松浦半島の西側、伊万里湾付近の港(卑狗や卑奴母離が居たか?)で、大潮を待ち、当初、沿岸航海用船に乗り換え、九州北岸を西に向けて航海、長崎県平戸市付近を廻り、九州西沿岸部を南下、早岐(はいき)の瀬戸を抜けて、大村湾を西彼杵半島の付け根迄の最長の水行十日(実質3日)の沿岸航海でしょうが、大潮を半月近く待つ事もあり、渡海三千里の実質3日と沿岸航海三千里の実質3日と潮待ちの14日とすれば、始めの十日と後の十日とを合わせた最長の20日と考えます。

>海から邪馬壹國までの経路は倭人が管理していて治安は保障されていたと推測します。

上記が、何を意味するのかは判りませんが、治安が保障されたか、どうかは別とし、魏帝の文書と下賜品、その目録を授ける任務を負った魏使や郡使の道行きには、邪馬壹国側の役人や武人が同行したのは云う迄もありません。
末盧国の比定地、佐賀県唐津市付近から東南の伊都国へ行ったと云う記述に順い松浦川と厳木川を公認の経路として利用しました。当然のことながら、行程の拠点には見張り台や諸国を検察した一大率の出先機関もあったでしょう。

私は、邪馬壹国の所在地を見付ける事を第一の目的としていません。陳寿と云う文官が記した文章を正確に読み解く事こそ重要と考えています。詰まり、問題の箇所は、陳寿が施した文脈上の意味があり、おそらく、文章を読み解くための重要なヒントと考えます。
また、読み解く事で、当時の状況を把握でき、「私説」伊都国(佐賀県多久市付近)以降の道程、奴国(おつぼ山神籠石)、不彌国(帯隈山神籠石)、筑後川汽水域(高良山神籠石)、筑後川河口付近(杷木神籠石)、邪馬壹国(女山神籠石)や、通常、伊都国の比定地とされる福岡県前原市付近の雷山神籠石、太宰府付近の阿志岐神籠石、邪馬壹国連合東境とした福岡県嘉穂郡桂川町付近の鹿毛馬神籠石等は残餘の旁國に関係が在りそうです。
他にも福岡県行橋市津積付近の御所ヶ谷神籠石、同県築上郡太平村付近の唐原神籠石等があり、その後、動向に繋がると考えています。

KATS.I様が仮説を立てるための前提する「一里=53.3m」の必然性や、不彌国以降の記述、南至投馬国水行二十日~と、南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月~を里程ではなく日程とした陳寿の意図や理由は何か?と云う質問の後者について、当代、最高の文官とも称された編者の陳寿が文書の調律を大切にして美しい文章にしたかったからと云う意図や理由で以て「南至~」の基点を不彌國とし、「南水行20+10」を宝満川の川下り、その後、南の陸行距離を「20+10」と同じ30として、方向性の南には意味があり、日数に単位はなく、調律としての意味以外、何もないと云う認識と云う事ですね。
もう一つの質問、「一里=53.3m」と長さの単位「キュビット」の繋がり、それを倭人(夷人)が用いた日付や時間の単位とする必然性は何か、楽しみです。有り難う御座いました。以上です。

No title

未万劫哉さん

コメントありがとうございます。
記事の書き込みは、週末それも時間のあるときに限定しています。ご了承ください。

方向の指示も殆ど無視して

末盧国の比定地は、博多湾(今津湾)今宿です。ここで帯方郡の帆船を帰路まで停泊します。
東南500里の伊都國は、福岡県春日市
東南100里の奴國は、福岡県筑紫野市
東100里の不彌國は、荒船神社です。

通説と見解が異なるだけで、記述の方角、距離を忠実に解読しているつもりです。
南水行20日の投馬國は、小郡市媛社神社
南水行10日、南陸行1月の邪馬壹國は、八女市です。

方角も距離も、また陸行、水行の記述に対しても無理がないと思いますが、いかがでしょうか。

里の長さ、日の距離、あるいは日数の解読に拘りすぎているように思います。

里の長さも不明であれば、一旦棚上げする。
日数の記述も解読できないのであれば、これも棚上げする。

渡一海 1000目盛り、東南500目盛り、東南100目盛り、東100目盛り
水行20刻み、水行10刻み、陸行30刻みと数字だけにして、
方角を頼りに解読するのも、文献学でも一つの解読の手法と思います。
不明なものはXとかYで代用して抽象化し、方程式を解く数学の定石を、何故文献学にも応用しないのか不思議です。
XとかYの数値は、矛盾のない比定地を確定させたあとで、回帰分析で確からしい数値を充て嵌めれば良いのです。
これは自然科学では一般的な手法です。

1里=53.3mは、魏志倭人伝の記述からの回帰分析の数値です。
自然科学では回帰分析の数値は、分析結果のですから根拠を問うことは不自然なのです。問われるのは回帰分析の方法の是非なのです。
ただ、何故1里=53.3mとなるのだろう、ということには興味がありますので考察するつもりです。

もう少し南の福岡県みやま市(旧山門郡)瀬高町大草(女山神籠石)付近に向かったでしょうから、

九州北部に上陸して南下するのであれば、福岡平野、筑紫平野を縦断するのが、見通しが良く、標高差もほとんどなく、最も安全で経済的な経路と思います。
そしてこれらの平野の中に都が置かれたのだと思います。

泥濘や沼地を避け、川の浅瀬を渡った。

陸行するよりも、帆を張った屋形船に乗船し、櫂で漕ぎながら水行したほうが容易であったと思います。
陸行は、筑後川の南に上陸して後だと考えます。

No title

>方角も距離も、また陸行、水行の記述に対しても無理がないと思いますが、いかがでしょうか。

 何度も述べてきましたが、KATS.I様の方法論や、その比定地に異論があるのではなく、問われたことに対して私見を述べただけです。誤解は多いようですが。
例えば、前回、>博多湾に上陸し、国道3号線沿いに筑紫野市まで行き、そこから国道386号線で、杷木町に行けば~云々とありましたので、「博多湾の何処で上陸したのかは判りませんが~」と前置きしました。一大国から東南方面に渡海した今津湾を上陸地の末盧国をとすれば、伊都国に向かう国道は202号線ですか。但し、当時の博多湾の地形は、今と全き違うと云う事を認識されていますか。

>問われるのは回帰分析の方法の是非なのです。

当初から、一大国(壱岐)の大きさから得られたとする一里=53.3mが持つ必然性は何か、この一点だけを問うています。詰まり、現代の私達ではなく、当時の人々にとって、回帰分析と云う方法の必然性を問うているのです。
その必然性として、一里=53.3mはメソポタミア文明で創られた長さの単位キュビット関係があるとされましたので、倭人がキュビットを距離や日程の単位として使った理由はなんでしょうかと問いました。

「夷人不知里數 但計以日」、距離の数値を知らない東夷の倭人は日程と云う基準で以て距離に代えたとすれば、KATS.I様は、>この時代既に、現代人と同じ技術である、天体観測、あるいは三角点計測により、二地点間の距離は計測されたと考えます。とされる様に、東アジアには距離に対する幾つかの共通認識があった。
それは漢民族系の北部畑作民と南部稲作民、北狄西戎とされた遊牧騎馬民、東夷と呼ばれた河川航行民と沿岸航海民、南蛮の外洋航海民等でしょうか。後者の三者が倭人と呼ばれたかも知れません。

その数値を倭人が提示したのだとすれば、洛陽から黄河を下る河川航行、遼東半島の沿岸航海と朝鮮半島の沿岸航海に使われる一里とは数値が違うのですか。それとも、これらも倭人が従事したのですか。もしそうだとすれば、全てを倭人に任せた魏使に黄河を往来する距離感も無かったか、いや、そんなことはないでしょう。

>矛盾のない比定地を確定させたあとで、回帰分析で確からしい数値を充て嵌めれば良いのです~。

二つの「南至~」とされた日程の数値は意味は無いとして、不彌国を基点にして、南水行20日の投馬國の小郡市媛社神社と、南水行10日南陸行1月の邪馬壹國の八女市と云う比定地をどうやって導きだしたのですか。残り、一万二千餘里から七千餘里と三千余里を除いた二千里をを基準にして、一里の数値を長さの単位キュビットとして日程に関係させて比定したとすれば、そもそも意味がないとは云えません。詰まり、意中の場所に行くための方便と云わざるを得ません。

 >九州北部に上陸して南下するのであれば、福岡平野、筑紫平野を縦断するのが、見通しが良く、標高差もほとんどなく、最も安全で経済的な経路と思います。

 文章が解りにくいですか、誤解が多いですね。私説が正しいか、正しくないかは別として、先ず、文章を正しく読んで下さい。一つ一つ整理します。この部分だけは真面目に読んで頂ければと思います。

一大国からの方向が記載されてないから、福岡県の今津湾としているのでしょうが、一大国~末盧国の方向を変えるのであれば、末廬国~伊都国の如く方向を指示したと考えます。ここでの詳細は控えますが、私見では、文脈の流れから三つの渡海の方向を何れも南として、末盧国の比定地を佐賀県唐津市付近に比定しました。

何度も述べてきた様に、帶方郡衙と倭人の領域の位置関係を東南方面とした後、朝鮮半島沿岸部に循じて水行、韓国を歴て南下、南西隅を廻り、東行して半島東南部に在る倭の北岸狗邪韓国に到る。
その後、南へ三度の渡海を歴て、その末盧国で上陸した後、松浦川を南側へ従者が河岸を陸行しながら平底船を曳いて遡上、東側から流れる厳木川に分岐して更に遡上し、東南陸行五百里で伊都国に到る。その後、東西に流れる川は見えませんが、治水用のクリーク等があったとすれば、同様に東に陸行百里で不彌国に至る。更に有明海を迂回するため、梅雨の長雨後の増水で流れの速い筑後川の沿岸部で減水を持つか、上流へ向かい流れの緩やかな場所に設置された飛び石を伝い筑後川を渡り、南下した。これは夫々の国を歴て邪馬壹国へ向かう道程に於ける方向の指示と考えます。

一方、二つの「南至~」は、狗邪韓国から帯方郡衙から見た東南方面とした倭人の領域中、女王国東渡海千餘里の拠る倭種の国々を除き、倭の北岸とされた狗邪韓国を経て至った投馬国や邪馬壹国の位置関係を南側として区別した。詰まり大凡の方向性として「南至投馬国~」「南至邪馬壹国女王之所都~」は、倭の北岸狗邪韓国を基点にして記述したと考えます。おそらく、陳寿や魏使は、その倭の北岸とされた狗邪韓国、詰まり、北側から見て、東でも西でもなく、略南側に投馬国と邪馬壹国は在り、東西に並んでいると云う認識だったと考えます。
更に、これは会稽東冶(東治)と倭地(邪馬壹国連合や狗奴国)とを大陸から見た位置関係として、北でも南でもない、況んや西でもなく、大凡、東側に在るとした事に対応すると考えます。

これが陳寿の筆法なのか、漢籍の常道なのか、こうした記述法は、福岡県は佐賀県の東にあります。ただ、目的地の福岡市へは佐賀市から国道34号で東北方面に向かい、途中、筑紫野市や大野城市付近で国道3号線に分岐して西北方面に向かって下さい等と同様、「南至~」は邪馬壹国連合としての大きな領域に対する位置関係を示す方向性、一方、上陸した後の「東南陸行五百里到伊都国」と「東行至不彌国百里」は、国別の小さい領域に向かうための道程に於ける方向を指示したと云う違いがあるとは考えられませんか。そうした違いを読み解く事こそ、文献を読むという事と考えています。

判らないからと棚上げして、比定地を確定できるのかどうかは別として、その後、それに見合う数値を回帰分析して導き出したと云うのであれば、その数値に、当時の人々が持っていた必然性は無いでしょう。ただ、何となく実地の距離に見合うのは、当時の人々が持っていた距離感に対する認識が正しかったと云う事です。以上です。 

未万劫也

水行 陸行

未万劫也さん

いつもコメントありがとうございます。
今回たくさんの質問をいただきましたが、
まず、以下の1点について回答させていただきます。

南水行20日の投馬國の小郡市媛社神社と、南水行10日南陸行1月の邪馬壹國の八女市と云う比定地をどうやって導きだしたのですか

数学的手法です。
日は棚上げしました。
不明なものは未知数としてYで代用しました。

不彌国を荒船神社と仮定しました。
不彌国からの水行は、宝満川の川くだりです。

荒船神社から筑後川までの距離は水行20Y+10Yとしました。その後は筑後川南岸に上陸して陸行します。
水行20Yは、水行20Y+水行10Y=30Yの2/3のです。この地点が投馬國となると考えました。

たまたまその地点に媛社神社があっただけで、媛社神社へのこだわりはゼロです。マックスバリュー小郡七夕通り店だろうがどこでもいいのです

荒船神社から筑後川の距離は30Yです。
陸行30日ですから筑後川南岸に上陸してからの陸行は30Yです。
この不彌国を荒船神社と仮定した荒船神社から筑後川前の距離30Y(20km)と同じ30Y南に陸行したところが邪馬壹國と考えました。

方向の指示も殆ど無視して

このことに対しては、納得されたようでほっとしております。

一言発言させてください。

必然性=そうなる以外にありえないこと。
なのです。

文献とか、歴史の考察には必然性という言葉はふさわしくないように思います。
いろいろな仮説があって、色々な見解があっていいのです。
私は、ある前提を元にした仮説を提案しているだけです。
私は、必然性という言葉を好みません。

唐津湾

もう一点、質問に対して回答させていただきます。

当時の博多湾の地形は、今と全き違うと云う事を認識されていますか。


Flood MapsでGoogleマップが正しく読み込まれなくなりましたが、確認は可能です。是非Flood Mapのサイトので海抜を確認してください。

唐津湾の海岸線も、今とは異なっていたと思います。
当時の海岸、河川は、ほとんど護岸工事がされず自然のままであったと推測します。
博多湾と同様、松浦川、波多川が流れ込むこれらの河口は湿地帯で、現在の海抜5m以下の場所は、広大な砂州が広がっていて、帆船を停泊することは困難であったと推測します。

現在の唐津港付近であれば、帆船の停泊に適していたと推測します。しかし筑紫平野への玄関口としては不便です。

大きな河川が流れ込まない今津湾は、唐津港と同様に帆船を停泊するのに適していたと推測します。

No title

>文献とか、歴史の考察には必然性という言葉はふさわしくないように思います。いろいろな仮説があって、色々な見解があっていいのです。私は、ある前提を元にした仮説を提案しているだけです。私は、必然性という言葉を好みません。


相応しいか、相応しくないかは別として、必然性ではなく、理由でも構いませんし、好むとか、好まないに拘わらずに、それが、どんなに些細な事としても、物事には理由が有るでしょう。何れにしても度量衡等は、それを用いた当時の人々にとり、最良であり、最善の方法で設定されたと思います。
何度も申しましたが、質問に対して、私見は述べましたが、色々な仮説が在って良いですし、KATS.I様の説が間違っている等と云うのでありません。知りたいのは、或る前提の一つ、一大国の比定地とする壱岐の大きさから計測した値「53.3m」を一里として倭人が用いたとする、それしかないKATS.I様の理由です。
それもなく計測した値で、道程に見える距離数が略一致したとしても、それは彼等が持つ距離感に対する認識が正しかったと証明するだけです。


>不彌国を荒船神社と仮定した荒船神社から筑後川前の距離30Y(20km)と同じ30Y南に陸行したところが邪馬壹國と考えました。

日を棚上げして於て、未知数を含む30Yの20㎞は地図上で計測したのでしょうか。それは、予め決めていた意中の場所ではないのですか?


>唐津湾の海岸線も、今とは異なっていたと思います。当時の海岸、河川は、ほとんど護岸工事がされず自然のままであったと推測します。博多湾と同様、松浦川、波多川が流れ込むこれらの河口は湿地帯で、現在の海抜5m以下の場所は、広大な砂州が広がっていて、帆船を停泊することは困難であったと推測します。

前回、「今津湾を上陸地の末盧国とすれば、伊都国に向かう国道は202号線ですか」と前置きした上で、博多湾の地形を認識されていますか。としました。それに対して応えるべきは、どのルートを通ったかでしょう。
 以前も満ち潮を利用して寄港したと記述しましたが、それでも松浦川河口に外洋船が入港できなければ、河川用の平底船に乗り換えたかも知れません。
但し、海民や河川民は海底や川底の地形等の状況を把握しており、航行法を熟知していた。それが彼等が生きていく糧になると考えます。そうした中、彼等には集落の環濠や版築に拠る城壁等の土木工事を担う人々が服属しており、一族の能力を発揮するため、必要な工事も行わせたと思います。

当時、道が無かったとは云いませんが、大量の物流や大人数の移動には状況に応じた最良の方法を用いたと考えます。沿岸航海や外洋航海には、夫々に適した船、河川には平底の河川用の船を用いて運び、移動したと思います。そうした水道のない所には、物流のための小運河や治水潅漑用の掘川を造り、利用したと考えられます。


>現在の唐津港付近であれば、帆船の停泊に適していたと推測します。しかし筑紫平野への玄関口としては不便です。

あくまで私説に拠れば、現在の唐津市を流れる松浦川支流半田川を遡上した鏡山南麓付近と云う事です。例えば、上陸地を今津湾として、一大国から末盧国への渡海を東南としなかった理由を狗邪韓国~對海国~一大国も真南ではないからとするのでしょうか。今津湾では、寄り東南方面だと思いますが、いや、東に近いと云っても良いでしょう。

前回、KATS.I様は、>九州北部に上陸して南下するのであれば、福岡平野、筑紫平野を縦断するのが、見通しが良く、標高差もほとんどなく、最も安全で経済的な経路と思います。そしてこれらの平野の中に都が置かれたのだと思います。とされましたが、その最良とするルートを辿るためには一大国から末盧国へは東南へ向かわざるを得ないでしょう。
それが故、「方向の指示も無視して」としました。更に云えば、博多湾岸の地形を考慮して今津湾からのルートはどうなるのでしょうか。

私見では、郡衙を出た魏使は、朝鮮半島西沿岸部を南下した後、東行して到った半島東南部の島嶼に在る狗邪韓國を倭の北岸として、始度一海千餘里至對馬國は、これより南へ向かうと示唆し、又南(再度南へ)渡一海千餘里名曰瀚海至一大國へ向かった後、又(更に南へ)渡一海千餘里至末盧國で上陸、松浦川を南へ遡上し、支流の厳木川を東へに遡上して到った伊都国から不彌国へは東に向きを変えた如く、二つの「到」は方向転換する目的地と考えます。
こうした文脈に順うと、一大国から末盧国の場合、東南へ方向を変える指示がない理由を説明しなくてはなりません。更に云えば、「至」を「到」としない事からも、前の渡海と同じ南とした方が良いと考えます。

記述は誤りとしたり、方向の指示を無視する事は文意をないがしろにするだけでなく、文献の存在意義すらなくす事に繋がると考えます。私説では、そうした方法を避け、陳寿の記述を素直に読む事に留意、述べてきた様々な条件等を鑑み、上陸地、末盧国の比定地を唐津市の鏡山南麓付近としました。

現代を生きる私達にとり、好立地の条件が、そのまま当時の地形的な状況や国状に於ても通用するのでしょうか。例えば、跡目争いに端を発したと思える年を歴た争乱を女王卑彌呼を共立して収めたとあり、女王国(邪馬壹国之所都)より北側の戸数や道里を略載した国々から見て、遠絶とされた残余の旁国の比定地を東西に別れて拡がると設定しました。KATS.I様は、どの様に考えているのかは解りませんが、彼等は、渋々、従い、妥協したとすれば、何らかの不満があったとは考えられませんか。
上陸地の末盧国~伊都国~不彌国と云う道程で、女王の所都邪馬壹国へ向かった理由は、そうした不満を持つ一党に対する安全が確保された最善のルートだったと考えます。以上です。

 未万劫也

文献学

未万劫也さんへ

コメントありがとうございます。
またいくつかのご質問、ご意見に対してコメントさせていただきます。

必然性ではなく、理由でも構いませんし

仮定とか前提という言葉を私は好みます。

未知数を含む30Yの20?、地図上で計測したのでしょうか。

距離の計測は倭人の歩測でしょう。宝満川沿いに歩けば歩測は可能です。
幹線経路ですから、倭人は距離を十分に把握していたと推測します。
倭人の距離の単位は里ではなく、日を基準としていたものと憶測していますので、10日とか20日が実測値だったと推測します。
10日、20日をkmに換算できないので、この未知数をYで代用して考察をしました。
荒船神社から宝満川を下ると、筑後川に合流します。水行南は20日+10日=30日と記述されています。
筑後川は東から西に流れる川です。
合流後は南に水行する水路はないのです。
つまり不彌國から筑後川までの距離が水行30日であると推測しました。

末廬國から邪馬台國への経路は、多くの人が往来していた経路であり幹線経路として確立していたと推測します。
帯方郡の官吏が邪馬台國を訪問するので慌てて整備した経路ではないと思います。

伊都国に向かう国道は202号線ですか

NOです。
末廬國は今津湾今宿です。
伊都國は春日市(暫定比定地を春日市役所とします)です。
二地点間を直線で結んだ線上を陸行したのではと推測します。

鏡山南麓付近と云う事です。

笹原峠は険しいのです。JRおよび国道(有料道路)はトンネルで通るような峠です。
この経路には無理があると思います。

一大国から末盧国へは東南へ向かわざるを得ないでしょう。
それが故、?方向の指示も無視して?としました。
記述は誤りとしたり、方向の指示を無視する事は文意をないがしろにするだけでなく


記述の方角を無視したことはありません。
一大國から末盧國への方角の記述はないのです。
東でも西でも北でも、無視をしていることにはならないと思います。

*又(更に南へ)渡一海千餘里至末盧國で上陸
*必要な工事も行わせたと思います。
*河川用の平底船に乗り換えたかも知れません
*河川には平底の河川用の船を用いて運び、
*小運河や治水潅漑用の掘川を造り
*何らかの不満があったとは考えられませんか。
*不満を持つ一党


文献学は恣意的(主観的)な見解を排除します。

主観的な見解に対しては客観的な立証ができないからです。
反証も難しく不毛の議論となり、
結果、恣意的な見解は声の大きい人(権威)の意見が通るのです。

私は文献学の基本を踏まえて考察をしています。
主観的な見解に対する議論には踏み込まないようにしています。

No title

>幹線経路ですから、倭人は距離を十分に把握していたと推測します。末廬國から邪馬台國への経路は、多くの人が往来していた経路であり幹線経路として確立していたと推測します。

 「烏丸鮮卑東夷伝」や別の漢籍に、幹線経路があった。倭人が計測していたと書いてあるのですか。況んや、当時、20㎞という数値はないでしょう。未知数を含む30Y(20㎞)と云う数値を、KATS.I様は、どの様に導き出したのですか。

>今の地図で直線で結んだ線上を陸行したのではと推測します。末廬國から邪馬台國への経路は、多くの人が往来していた経路であり幹線経路として確立していたと推測します。

その確立していた幹線経路で多くの人が往来していた直線の道路は、現在、何故、無いのでしょうか。それとも現在、幾つもの河川を横切り、西区今宿町(大塚古墳/丸隈山古墳)と春日市(須久岡本遺跡)を複雑な動きで結ぶ国道「202号」や県道「561号」「557号」が、直線的な幹線経路と云う事ですか。
また、同じ質問をしなくてはなりません。当時、博多湾岸の地形が、どの様な状態だったかを認識していますか。佐賀県の吉野ヶ里遺跡が発掘された頃、壱岐の海辺に在る筒城の遺跡と平野のただ中にある吉野ヶ里遺跡は、非常に興味深いと、或る歴史学者の頓珍漢な発言が記憶に残っています。
当時でも地質学や気候学に拠ると、弥生期の吉野ヶ里は、直ぐ南に、満潮時、遠浅の有明海が拡がり、干潮時は泥濘んで人が歩ける状態ではなかった。それを示す内陸部の遺跡で沈み込まない工夫がなされた掘っ立て柱が発掘されました。

弥生期の博多湾沿岸部を表した図でも、上記、丸括弧内の古墳や遺跡が存在する付近は当時から陸地ですが、見渡す限り、一面が平な陸地だったのではなく、幾筋も河川が流れ込む河口付近には汽水域の泥濘が拡がっており、入江は、現在より奥まり、幾筋かの岬が延びる。河川の流域が変化したのか、縄文海進の名残か、彼方此方に沼地があった、ここを陸行したとすれば、そうした様々な障害を避けながら歩かざるを得なかった推測されます。それが、直線道路が無い理由と考えられます。

>笹原峠は険しいのです。JRおよび国道はトンネルで通るような峠です。この経路には無理があると思います。

考え違いをしてませんか。末盧国から邪馬壹国への経路を設定したのは、好立地だからとして、現在の私達が選択したのではなく邪馬壹国の人々です。陳寿の記述を素直に読むと、安全が保障されたのか、こうした経路で有明海を迂回したと推測されます。前にも述べたと思いますが、現在の好立地が、当時にも通じたのでしょうか。
当時の地形と移動や輸送の方法、国状を鑑みた好立地の条件を考え併せた最善ルートだったでしょう。唐津市から佐原峠を抜けて佐賀市内へと続く国道203号は、古来、唐津街道として使われてきました。

>一大國から末盧國への方角の記述はないのです。東でも北でも無視をしていることにはならないと思います。

前回でも「方向の指示が無いからでしょうか」と前置きしたと思いますが、記述がないから東でも北でも無視している事にはならない。何処に向かっても良い等、邪馬壹国への道程を説明する記述にはあり得ないでしょう。文脈も理解せず、方向を指示しない理由も考えず、文献を蔑ろにする御都合主義の典型ですね。
私説として述べた事と、對海国と一大国の「南北に市糴する」と云う記述を考え併せても、記述しないのではなく、指示しなくても「南」と認識できるからで、それが文章の作法、陳寿の筆法と考えます。
判らないからと棚上げしたり、記述がないから何処へ向かっても構わない等と云う前に、今一度、「烏丸鮮卑東夷伝」の記述から読み取れる事を考え併せ、先ずは、直線的に移動したとかではなく、実地にルートを設定して、私説に対する反証を具体的に述べて下さい。

>文献学は恣意的(主観的)な見解を排除します。主観的な見解は客観的な立証ができないからです。反証も難しく不毛の議論となり、結果、声の大きい人の意見が通る世界です。私は文献学の基本を踏まえて考察をしています。主観的な見解に対する議論には踏み込まないようにしています。

提示された私見の細切れには、様々な補足説明ができますが、「烏丸鮮卑東夷伝」や「記紀」等から、そうした事を覗わせるの記述を提示できますが、KATS.I様の云う、>距離の計測は倭人の歩測でしょう。宝満川沿いに歩けば歩測は可能です。幹線経路ですから倭人は距離を十分に把握していたと推測します。末廬國から邪馬台國への経路は、多くの人が往来していた経路であり幹線経路として確立していたと推測します。帯方郡の官吏が邪馬台國を訪問するので慌てて整備した経路ではないと思います。等、最も恣意的で主観的な見解ですね。可能だからそれが行われた事にはならないと思います。
推測するのは文献学的に恣意的ではないのですか。当に問うに落ちず、語るに落ちる状態ですね。それとも裏付けとなる記述や資料を提示できるのでしょうか。

上記、文献学(文献の原典批判・解釈・成立史・出典研究を行う学問)の基本が何かも判りませんが、例えば、国々の比定で、当時、海中だった場所としたり、そこを陸行する等、恣意的で主観的な見解でも、文献に地震で沈下した等の記録があり、客観的な理由を幾つか持ち出して論理的に説明すれば、立証や反証は可能と思います。

質問された事に、お応えする上で、自説を補足するための思考法として、その前提となる学説や資料等から推測しうる主観的な見解に踏み込まざるを得ないのは致し方ないと思います。
ただ、編者の意図した文脈を把握した上、当時の国状や状況、持ちうる技術や方法等を推測して、気候に付随した地形の状態等の資料を鑑み、恣意的で主観的な見解を前提にして仮定する事は可能と考えています。

私が、邪馬台国に興味を持ち始めた頃、感じた多くの基本的な疑問には全く興味がないのか、思った通りの反応が返ってきました。当方の見解は恣意的で主観的と決めつけたのか、殆ど反証もせず、自身の見解を述べるだけでしたが、それすらも主観的な見解で、論理的な説明は聞けませんでした。

>笹原峠は険しいのです。JRおよび国道はトンネルで通るような峠です。この経路には無理がある等、険しいから無理があるのではなく、旧くから街道として使われていたのですから、この峠を越えて人々は往来した。詰まり、陳寿の道程に対する記述を考え併せると、ルートとして可能性は高いと思います。
また、末盧国へは方向の指示が無いから何処へでも行けるとして、東南方面へ向かい今津湾の今宿で上陸、伊都国へのルートは国道202号ですかと云う問いに、直線的とされるが、奥まった入江は迂回するか、沿岸航海の船を用いて渡るか、多くの河川も渡らざるを得ないと推測されます。詰まり、地形的な事情も考慮せず、現在の道路事情と同様に河川には橋が架かり、今はない整備された直線道路で、楽に行けたと云う最も恣意的で主観的な見解だと思います。
多くの道は、旧くから人が往来した踏みしめ道から発展したとされます。云う迄もなく、邪馬壹国への経路は、予め予定された筑紫平野へ、現在の私達が設定したのではありません。例えば、方向の指示が無い → 土地勘がない事とすれば、佐賀市から鳥栖市へ行くのに、楽そうだから南への道を行こうと云ってる様なもので、彼等にとり、楽だからではなく、通らなければならない理由や向かうべき目的地があったと云う事です。

当時の度量衡も同様で、「烏丸鮮卑東夷伝」や別の漢籍にも倭人が採用した事を裏付ける記述のない「一里=53.3m」とした理由は何ですかと云う問いに対して、地図上で計測したのだから、そんなものはない。そんな事を考えたこともないと云う応答なら、他の疑問に対しても同様だろうと判りますから、「良かったら考えてみて下さい。有り難う御座いました。」と即座に終われたのです。
ただ、KATS.I様は、自説の正当性を論じるため、見解を補足するための裏付けもないまま、「~云々と推測します」とされる事が多く、私説の前提となる考え方から説明せざるを得ず、私見を述べると云う悪循環に陥り、否応なく、不毛と云われる議論に踏み込まざるを得ない状態になりました。残念です。
質問があれば、お応えしますし、それに対する反証もお受けします。以上です。有り難う御座いました。

 未万劫也

プロフィール

KATS.I

Author:KATS.I
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
フリーエリア
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

カレンダー
09 | 2018/10 | 11
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる