畿内説、九州説、百花乱立の邪馬壹國の比定地 過去の考古学、民俗学の定説に囚われ過ぎているのか プロの歴史学者も、アマチュアの歴史愛好家も 迷宮を彷徨う 魏志倭人伝の呪縛の29文字 南至投馬國 水行二十曰 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 もし、二十日 十日 一月の記述が無かったならどうだろう 2015年、今、邪馬壹國の比定をGoogle Mapsから試みた


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49.仮説(コメントへの回答)

今回の記事は、未万劫哉さんからいただいた、コメントに対する回答としたいと思います。
未万劫哉さんには、拙筆な記事を読んでいただき、さらにコメントまでいただいて大変感謝しています。
いただいたコメントは、最新のコメント一覧、もしくは以下の記事のコメントをご参照ください。

28.1里=53.3m(2)
http://katsi.blog.fc2.com/blog-entry-29.html#comment10


質問1
 >>帶方郡と帯方郡衙は同じではないでしょう。
 >>帯方郡が統治できている範囲の最前線に出城があったとは考えられませんか。

 
帯方郡の南界がどこかの考察ですね。
私の考察は以下です。
 *帯方郡治は開城
  ここに太守劉夏がいた。
 *帯方郡の版図の南界は漢江
  漢城(ソウル)は帯方郡の版図ですが、春川、城南、安養の版図であった。

質問2
>>韓が接している東西沿岸の海は、その部族国家が領有しているのでしょうか。

 *馬韓、弁韓、辰韓の人たちが漁をしたり、船で行商に出かけていたと思われます。
 ただし、魏志韓伝の記述から憶測すると、領有する(自分の物として所有する)状態ではなかったと思います。

質問3
>>また、韓の南とは半島内でしょうか。
>>それとも南岸部の海でしょうか。
>>この倭とは、其北岸狗邪韓國のことでしょうか。


私の考察は以下です。
 *現在の大韓民国光州、大邸、昌原、蔚山、金海、
        釜山、順天、木浦
の版図
 *狗邪韓國巨済島狗邪韓國も倭の版図

質問4
>>この七千餘里の直線距離が測定できるのならば、対馬の南北も測定できるでしょう。
>>それとも帶方郡の人々にはできたけれど、倭人にはできなかったのでしょうか。


当時の技術で、どうしたら対馬東西南北の距離が計量できるか考えてみました。
山の山頂に立ち、特定の2地点の距離を目測で計量する。東西は一望出来たが、南北は一望できなかったと憶測します。このため南北の距離は、2-3地点の山頂からの計量値を合計する。
對海國の大官の卑狗は、対馬東西南北の距離を把握していたのではと憶測します。
では、方400餘里との相関をどう考察するかは、色々な見解があると思います。自説が確立していないので今後の課題とさせてください。

質問5
>>一里=53.3mと云う単位の基本は何ですか。
>>それをを用いた必然性は何でしょうか。
>>偶々、その計算値でやったらあったということですか。


大変ありがたい質問です。1里=53.3mの検証を十分していなかったことに気がつきました。

1里=53.3mは仮説です。

魏志倭人伝を考察するにあたり、以下の仮説を立てました。
1)記述されている2地点間の距離は、直線距離
2)記述されている方位の基準は、北を北極点とする(磁極の北とはしない。)
3)1里=53.3mとする
4)水行、陸行の日数は考慮しない。ただし、20日、10日、1月の20、10、30の数の比例値は考慮して、水行=20xA里、10xA里、陸行30xA里とする。
 つまり陸行1月の距離は、水行10日の距離の3倍。
 (A=11と憶測しています)
5)記述には、捏造、誤謬、改竄はなかった。

1里=75m、1里=400m、1里=105m
どのような仮説も随意に設定することが可能なのです。

そして仮説の真偽は、検証によって行われるのが科学的な手法です。検証は、魏志倭人伝に記述されている里の距離を、仮定した○○mでひとつひとつ確認することです。
魏志倭人伝の記述の検証を行わなくして、仮説の真偽の結論を付けることは科学的ではありません。
また、仮説そのものが正しい、正しくないと議論することは意義がないのです。
そもそも仮説とは、真偽はともかくとして、ある事象を説明するのに有効な命題なのです。検証の手法、検証の結果に対して議論すべきなのです。
これは自然科学(広い意味での、物理学、化学、医学、工学)の学会では約束事です。歴史学の分野では、検証作業の正否を議論することなく、もっとも検証作業を論じている説は少ないのですが、いきなり仮説の真偽が議論されることには、違和感を覚えるところです。

魏志倭人伝で考察が錯綜するのは、当然と思います。
対馬壱岐島以外は、記述の地点が確定出来ないからです。
比定地を仮定する必要があります。これを補助仮説と呼びます。何を主仮説とし、何を補助仮説とするかは、考察者の任意です。

魏志倭人伝
の記述を考察するにあたっては、自説の仮説(前提)を明確にするべきです。そして検証の結果、どれだけ矛盾があるのか、その仮説の確からしさを結論するべきでしょう。
仮説は多くの人に認容されると、定説、通説となります。パラダイムです。しかし多くの人が支持して「真」となった説が、後に「偽」となることもあります。パラダイムシフトです。
つまるところ、魏志倭人伝のいかなる考察の結論も仮説であり、真偽が定かになることはないのです。

A地点→B地点はXm。C地点→D地点はYm。と基準を複数使う。
この部分の方位の記述は誤謬とする。
などなど。
何を主仮説にし、何を補助仮説としたのか。

仮説を明確にせずに考察をすれば、自説を正当化するために自在に結論付けすることが可能です。これは文献の科学的考察ではなく空想的考察なのです。
在野の愛好家の方は致し方ないのですが、権威の専門家もこのような手法を取る方がいるのには閉口します。

さて、上記した1)-5)の仮説をたてました。
これらの仮説は、幾度かの検証の結果、多少の修正が加えられています。
また、補助仮説として各地点の比定地を以下としました。多くの比定地は通説と異なる場所です。異なるのは仮説の設定が異なるから自然のことと捉えています。

各地点の比定地の詳細は、以前の記事を参考にしていただければ幸甚です。

30.方位
http://katsi.blog.fc2.com/blog-entry-31.html


帯方郡治ー開城
狗邪韓國国邑ー巨済島旧永里
對海國国邑ー対馬市比田勝町
一大國国邑ー壱岐市勝本町
末廬國国邑ー福岡市西区今宿駅近辺(以前の考察では福岡市西区横浜)
伊都國国邑ー福岡県春日市役所近辺
奴國国邑ー福岡県筑紫野市役所近辺
不彌國国邑ー福岡県筑紫野市荒船神社近辺
投馬國国邑ー福岡県小郡市媛社神社近辺
邪馬台國国邑ー福岡県八女市役所近辺
狗奴國国邑ー熊本県玉名市役所近辺
會稽東治国邑ー南京市


この補助仮説に基づいて、1里=53.3mの仮説を検証してみます。
比定した二点地点間の距離はGoole Mapsで確認した距離です。


差異8


差異3

データ数8点の差異はを見てみると、範囲は-32.5%から+72.4%です。1里=55.3mの仮説は、差異-32.5%、+72.4%の確からしさであると結論付けられれます。
この差異の範囲が±20%程度であれば、かなり確からしいと結論付けられますが、検証の結果、私の仮説はそこまでの確からしさはありません。
データ数8点の差異の平均(データ8点の差異の合計÷8)は、+9.4%です。
この数値を持ってすれば、仮説の1里=53.3mは検証の結果、差異の平均が+9.4%の確からしさであるともいえます。

8点のデータの差異の平均が0%となる1里の距離は、計算から求めると59.34mです。1里=53.3mとするよりも、1里=59.3mとしたほうがより確からしいことが分かりました。
1里=59.3mと仮定して、比定地は変更せずに固持します。
データ数8点の差異は-39.3%から+55.0%となり差異のばらつきは小さくなります。
データ数8点の差異の平均(データ8点の差異の合計÷8)は、+0.5%となります。
これまでの1里=53.3mの仮説は、=59.3mに見直す必要がありそうです。

差異9

差異4

1里=100mとすると、狗邪韓國→對海國→一大國はよく一致しますが、一大國→末廬國は一致しなくなります。
1里=50mとすると一大國→末廬國は一致しますが、今度は狗邪韓國→對海國→一大國がうまく一致しなくなります。
ここは皆さん苦労されているところで、ある程度妥協した仮説を立てるしかないでしょう。
もちろん、比定地は恣意的であって構わないのです。

自説の1里=○○mの仮定と自説の比定地から、同様の仮説の確からしさを検証することを推奨いたします。
差異の範囲(バラツキ)がより少なく、差異の平均が小さい仮説が、もっとも確からしい仮説となるのです。

質問6
>>陸行の場合、平均距離は、20~30㎞/日でしょうか。

賛同します。
帯方郡の官吏達が護衛を連れての徒歩での移動は、時速4kmくらいと想像します。
末廬國→伊都國500里を、6時間程度で移動したと憶測します。


つづく

不定期、週末更新予定





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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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ありがとうございます

KATS.I様へ、ご丁寧に回答していた頂き有り難う御座います。

 >魏志倭人伝の里の記述の検証を行わなくして、仮説の真偽の結論を付けることは科学的ではありません。
また、仮説そのものが正しい、正しくないと議論することは意義がないのです。
 そもそも仮説とは真偽はともかくとして、ある事象を説明するのに有効な命題なのです。検証の手法、検証の結果に対して議論すべきなのです。

 KATS.I様の仮説が正しくない等と云っているのではありません。当初から質問している事、大した意味はないけれど、壱岐の大きさから計測した一里=53.3(53.9)m、それが持つ、当時の人々とっての規則性や根拠、例えば、一尺=人の親指と中指を拡げた長さ等、その基本は何ですか。知りたいのは、この一点です。
 ●すみません。前回、尺=指先から肱迄(キュービット)としましたが間違いです。

 随意だから良いのですか。漢籍には、長里や短里の区別すら在りませんので、当時に於ける必然性、詰まり、数値に対する根拠が求められなければ、倭人伝の距離的な記述が正しいと云う証拠にはなりえますが、論者が意図的に数値を合わせたとも云えます。著名な研究者だった古田武彦氏は、その数値が変動しました。

 また、当時、地図に拠る計測はできませんので、数値の裏付けとなる根拠がなければ、そうした一里(短里?)は存在し得ないと思います。殆どの研究者には、そうした視点がなく、思い思いに地図上でディバイダ等を使い計測した距離を里数で除した数値を「短里」としてきました。
 「私説」馬の進行距離/日を鑑みた相対的な里数値(105m)とした論拠は、前回、簡単に述べた通りです。

 もしや倭人が壱岐の大きさを計測した長さとして「三百里」と魏使に伝えたとするのですか。この場合、朝鮮半島の距離、帶方郡衙から狗邪韓國迄の直線距離、七千餘里も倭人に拠るものになります。
 例えば、漢籍「三国志」には通常の里(長里)で合うものだけではなく、80m位(短里?)でなければ長大すぎるものが、3割強もあり、後者は晋王朝初期に集中すると説く人が居ます。
 これが信じるに足るとすれば、これは倭人ではなく、魏使か、晋王朝側の単位と云えますので、三国志の里程を精査し、この説を否定する必要があります。

 今では否定され、通用しない根拠だとしても、「三国志」の成立期、晋王朝を興した魏の宰相司馬氏の関係者と倭人等が持っていたであろう思考や論理が在った。詰まり、現代人の知識、いや科学が全てではないのです。
 KATS.I様は、徒歩に拠る毎時4㎞に賛同するとしますが、当時の地形や道路状況を鑑み、気候学的には温暖期とされる暑い陰暦6月、下賜品等を背負った魏使一行に、現代の常識が、本当に通用したのでしょうか。

 また、「魏志東夷伝」では「~餘里」「~里」だけではなく、ニュアンスの違う「至」「到」等の漢字を使い分けたり、其瀆盧國(弁辰)「與倭接界」、韓在帶方之南東西以海爲限「南與倭接」等、記述方を変えたりします。
 陳寿の筆法でしょうか。おそらく、彼なりの「思惑や意図」があるのでしょう。そうした事をも考慮して、推測を交えながら疑問の一つ一つを解読できればと思っています。

 以上です。お手数をお掛けしました。互いに得られるものが在ればと思い始めましたが、今一つ話しが咬み合いませんでしたね。残念です。還暦を過ぎた爺の世迷い言に付き合って頂き有り難う御座いました。

  未万劫哉

距離の基準

未万劫哉さん

 コメントありがとうございます。

 距離の「基準」に付いての質問であることを全く理解せず、的外れな回答を繰り返し、大変失礼致しました。
 距離の基準については、私の考察があります。

 これも、記事で回答させてください。

 KATS.I

 
 

No title

有り難う御座います。楽しみしています。

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