畿内説、九州説、百花乱立の邪馬壹國の比定地 過去の考古学、民俗学の定説に囚われ過ぎているのか プロの歴史学者も、アマチュアの歴史愛好家も 迷宮を彷徨う 魏志倭人伝の呪縛の29文字 南至投馬國 水行二十曰 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 もし、二十日 十日 一月の記述が無かったならどうだろう 2015年、今、邪馬壹國の比定をGoogle Mapsから試みた


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45.去中國

その後の考察より、以下を訂正しました。
1)穆國の比定地をパキスタンムルターンではなくトルクメニスタンテジェンTejen)に変更
2)中國は、中國の国境からの距離であることの考察を追加
    (2017.3.20)
**********************************

通典
の以下の文章を考察してみます。

扶桑國復在 倭國之東 約去中國三萬里 蓋近於日出處

2.中國の起点はどこか
3.三萬里何km

通典邊防典は全16巻からなり、全部で196の國々が記述されています。日本列島にあったとされる國々は、以下の7カ國です。
倭、蝦夷、扶桑、女國、文身、大漢、流求

それぞれの地点の記述を見てみることにします。
文献は以下を参照いたしました。

中國哲學書電子化計劃
http://ctext.org/tongdian/zh


日本列島1 


倭國一名日本 在中國直東(邊防第1巻 邊防序伝)
其王理邪馬臺國 或云邪摩堆 去遼東萬二千里(邊防第1巻東夷上 倭伝)
大較在會稽 閩川之東(邊防第1巻東夷上 倭伝)

倭國、もう一つの名、日本は、中國長安、現在の陝西省西安市)の真東(東87°)にある。
其の倭國の王は、遼東魏志倭人伝に記述されているところの帯方郡)を一萬二千里離れた、ある者は邪摩堆と云う、邪馬臺國福岡県八女市)をおさめる。
大まかに例えると會稽(現在の浙江省紹興市)の東(東北東67°)、閩川(現在の福建省福州市)の東(東北51°)にある。

蝦夷
蝦夷國 海島中小國也(邊防第1巻東夷上 蝦夷伝)

蝦夷國は、海に浮かぶ島で規模が小さい國である。

扶桑
扶桑國復在倭國之東 約中國三萬里 蓋近於日出處(邊防第1巻 邊防序伝)
說云 扶桑在 大漢國東二萬餘里 地在中國之東(邊防第2巻東夷下 扶桑伝)

扶桑國倭國の東にある。中國から約3万里である。日の出るところである天蓋(天と地の境界)に近い。
ある説では、扶桑國大漢國の東2万里(この2万里の距離数は正しくないと推測します。)にある。その場所は中國の東に位置する。

女國
女國 慧深云 在扶桑東千餘里(邊防第2巻東夷下 女國伝)

女國は、慧深が云うには扶桑國の東1000里(この1000里の距離数も正しくないと推測します。)にある。

文身
文身 時聞焉 在倭國東北七千餘里(邊防第2巻東夷下 文身伝)

文身國は、の時代の伝え聞いたことによると、倭國の東北7000里にある。

大漢 
大漢 時聞焉 在文身國東五千餘里(邊防第2巻東夷下 大漢伝)

大漢國は、の時代の伝え聞いたことによると、文身國の東5000里にある。

流求
流求 自隋聞焉 居海島之中 當建安郡東 閩川之東 水行五日而至(邊防第2巻東夷下 流求伝)

流求國は、の時代からの伝え聞いたところによると、海に浮かぶ島の中にあり、建安郡(現在の福建省建甌市)の東(東93°)、閩川(現在の福建省福州市)の東(東87°)にあたる。水行5日で至ることが出来る。


さて、中國を考察してみます。

邊防典には、それぞれの國の位置を示すのに「XX△△里」の表現が使われています。
長安が最も多く28ヶ所。日南が4ヶ所、廣州が2ヶ所です。その他、成都洛陽敦煌遼東などがあります。ほとんどの場合、長安あるいは特定の場所が起点として記述されています。
が2ヶ所あります(小月氏大夏)。また、京師の記述も見られます(突厥、駮馬、骨利幹國)。
後魏史云う、などの記述があり、漢代の伝聞から記述されていることが分かり、は、前漢の都長安、あるいは後漢の都洛陽であると推測できます。
京師長安と同意義で使われていると推測します。
一方、中國と記述されているのは2ヶ所だけです。これは長安とは、異なる意義で使用されていると推測します。

中國
1.扶桑國 復在倭國之東 約中國三萬里
2.波斯 東中國萬餘里

長安  
 1.樓蘭 東長安六千一百里
 2.且末國 長安六千八百里
 3.杅彌 長安九千三百里
 4.車師 長安八千九百里
 5.龜茲 東長安七千五百里
 6.焉耆 長安七千三百里
 7.于闐 長安九千七百里
 8.疏勒 長安九千三百里
 9.烏孫 長安八千九百里
10.姑墨 長安八千一百里
11.溫宿 長安八千三百餘里
12.烏秅 長安萬里
13.難兜 長安萬一百里
14.大宛 長安萬二千五百里
15.莎車 長安九千九百里
16.罽賓 長安萬二千二百里
17.烏弋山離 長安萬二千二百里
18.安息國 長安萬一千六百里
19.大月氏 長安萬一千六百里
20.康居國 長安萬二千三百里
21.缁噠國 東長安一萬一百里
22.捐毒國 長安九千八百里
23.大秦 長安蓋四萬里
24.劫國 長安萬二千里
25.匈奴 長安近者七百里
26.薛延陀 長安萬四千餘里
27.同羅 長安萬七千五百里
28.迴紇 長安萬六千九百里

日南
1.扶南國 日南可七千里
2.真臘國 日南郡舟行六十日而至
3.嶺南蠻獠 日南九千餘里
4.林邑國 日南界四百餘里

廣州
1.迢シ迚呵┼ 廣州二萬四千里
2.婆利國 廣州二月日行


1.小月氏 後魏史云,萬六千六百里
2.大夏 萬二千里


1.突厥 其地京師萬里
2.駮馬 萬四千里
3.骨利幹國 其國在 京師西北二萬餘里

その他のxx△△里
1.吐谷渾 成都千餘里
2.哀牢 西南洛陽七千里
3.拔悉彌 燉煌九千餘里
4.邪馬臺國 或云邪摩堆 遼東萬二千里
など。


邊防典で、中國の記述は2ヶ所でした。
1.波斯 東中國萬餘里
2.扶桑國 復在倭國之東 約中國三萬里

波斯
ペルシアの記述を考察します。

波斯 後魏時通焉 在達曷水之西 都宿利城
(中略)
王姓波斯 戶十餘萬 
中國萬餘里 西海數百里
東南穆國四千餘里 西北拂菻四千五百里

波斯ペルシア王国)は、後魏時代に通商があった。達曷水チグリス川)の西に在り、都は宿利城クテシフォン)にあった。
(中略)
王の姓は波斯で、戸数10万。
東は中國から10,000里。
西は海(地中海)から数100里。
東南は穆國から4,000里。
西北は拂菻東ローマ帝国)から4,500里。

拂菻東ローマ帝国)の都は、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)に比定します。

隋書卷八十三列傳第四十八西域伝に、以下の波斯國に関する記述があります。

波斯國 
西去海數百里 穆國四千餘里 
西北拂菻四千五百里 瓜州
萬一千七百里


隋書通典波斯國の記述は良く似ています。通典の記述は、隋書を元にしていると推測します。
波斯國の位置を示す起点の海、穆國拂菻の場所、距離が同じです。
穆國は、通典では東南ですが、隋書では去で異なります。これを考察します。
隋書穆國の以下の記述があります。

穆國 都烏滸河之西
穆國の都は烏滸河(おこが)の西にある

烏滸河ウズベキスタントルクメニスタンの国境を流れるアムダリア川で、当時はアラル海に流れていたと推測します。この川の西側のトルクメニスタン穆國があることになります。
穆國トルクメニスタンテジェンTejen)を比定地と憶測しました。
テジェンは、波斯國クテシフォン)の東北東67°(東~東北)の位置になります。通典の「東南穆國」は、方位の記述が間違っていると推測します。


隋書波斯國は、瓜州から11,700里と記述されています。瓜州の比定地は敦煌と推測します。
一方、通典の記述では、波斯國中國から10,000里です。通典の起点となる中國の場所は敦煌より西となり、中國の起点は、敦煌より東にある長安西安)ではないことが分かります。
大陸では自らの国土のことは。常に中國と表現しています。唐國などと時の王朝の名では、表現していないのです。中國は、中國の国境からの意義と推測します。

唐朝の行政区画では、西域隴右道西州(現在の新彊ウイグル地区トルファン市)に安西都護府を置いていました。これより西は支配はしても唐朝の範図ではなかったと推測します。通典中國の起点は、安西都護府の置かれた西州トルファン市)であったと推測するに至りました。

波斯


各史誌から波斯國の位置を示す記述を抜き出してみました。

史誌
(記述年)
記述起点→波斯國
記述(里)

距離(km)

換算(m/1里)
魏書
386-534年
二萬四千二百二十八里
 代=山西省大同市
24,228里6、040km249.3m
北史
439-538年
二萬四千二百二十八里
 代=山西省大同市
24,228里6,040km249.3m
周書
535-581年
東去長安一萬五千三百里
 長安=陝西省西安市
15,300里5,856km382.7m
隋書
581-618年
東去瓜州萬一千七百里
 瓜州=甘粛省敦煌市
11,700里4,483km383.2m
通典
紀元前ー750年
東去中國萬餘里
中國=西州(トルファン市)
10,000里4、011km401.1m
旧唐書
618-907年
京師西一萬五千三百里
 京師=長安(陝西省西安市)
15,300里5,856km382.7m

以降の周書隋書通典は、起点地は長安瓜州西州と異なりますが、1里=380-400m程度で、それぞれ波斯國までの距離が記述されていることが分かります。

通典の波斯國の記述の、周辺地点の距離の記述を考察します。

東、中國 10,000里
(クテシフォン→トルファン市 4011km) 1里=401.1m
西、海    数100里 
(クテシフォン→ベイルート 847km) ?
東南(東北)、穆國 4,000里 
(クテシフォン→テジェン 1522km) 1里=380.5m
西北、拂菻  4,500里
(クテシフォン→イスタンブール 1639km) 1里=364.2m

通典の西戒の記述は、1里=360-400m程度で記述されていることが分かります。


唐朝の行政区割の図を以下から拝借致しました。

https://zh.wikipedia.org/wiki/唐朝行政区划

唐朝範図



中國三萬里 

中國は、中國の国境を起点としていると推測します。
扶桑國の記述の中國の起点となる国境はどこなのでしょうか。

唐代初期、遼東半島を含めた朝鮮半島北部は安東都護府の管轄下にありましたが、安東都護府は、773年頃に廃止されました。通典が修史されたのが801年なので、このとき遼東半島、つまり朝鮮半島には中國の範図はなかったと推測します。朝鮮半島、さらに日本列島への中國の国境は山東半島であったと推測します。
唐代河南道登州東牟郡蓬莱県(現在の山東省蓬莱市)に州治所が置かれていました。そして唐代にこの蓬莱と同様に繁栄していたのが文登です。
唐代高句麗遠征の起点は蓬莱であったの対し、百済遠征の起点は文登だったとされています。(これは以下から借用させていただきました。)

http://www.iobtg.com/C.Weihai.htm

文登 

通典扶桑國の記述にある、中國の起点は、
山東省威海市文登区であると考察するに至りました。

去中國


次回は、通典に記述されている約去中國三萬里の、
30,000里何kmかを考察します。




(つづく)
不定期、週末更新予定



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