畿内説、九州説、百花乱立の邪馬壹國の比定地 過去の考古学、民俗学の定説に囚われ過ぎているのか プロの歴史学者も、アマチュアの歴史愛好家も 迷宮を彷徨う 魏志倭人伝の呪縛の29文字 南至投馬國 水行二十曰 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 もし、二十日 十日 一月の記述が無かったならどうだろう 2015年、今、邪馬壹國の比定をGoogle Mapsから試みた


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42.扶桑國(その2)

邪馬台国論の書籍は400冊を超える(1987年の調査)そうです。一方、扶桑國に関する本は、19世紀に1冊、20世紀に1冊しかないそうです。
1995年に出版された、いき一郎著「扶桑國は関西にあった」を拝読しました。
著者の見識の深さに感服致しました。以下著者の記述を拝借して要約しました。

日本の古典の研究は江戸時代中期に国学として体系化されました。国学の実証主義的思想は復古王道として大成し、尊王攘夷思想に影響を与えます。
明治時代となり復古王道は、国粋主義皇国史観へ発展します。日清戦争を経て、日本東アジアの盟主となろうとしていきます。日本国が最古、最高であり、中国鮮を従者とする思想が日本史学を支配していきます。古事記・日本書紀が重視され、中国の古代の書物は軽視されていきます。1903年に最初の国定歴史教科書「小学歴史教科書」が文部省から発行されます。この編集には、東京帝国大学国史学科が深くかかわりました。以降、日本史学の研究は、大日本帝国陸軍・海軍の精神教育の根幹となっていきます。皇国史観に反するものは退けられたのです。
大東亜戦争が終わり、戦時中は弾圧された津田左右吉氏が日本史学会に迎えられ、皇国史観を否定した津田史観が主流となり、日本史学の研究は、科学的研究手法をモデルとして再出発することになります。
しかしながら戦後50年が経過した今も、依然として日本史学の研究は古事記・日本書紀を重視し、中国正史などの文献を軽視する傾向が残っていると述べられています。

私も賛同します。中国正史の記述に対して、捏造・改竄・誤謬であると恣意的に主張する研究者の方が大勢いる理由が、著者の見解により理解することが出来ました。このような研究者の方々は、大東亜戦争以前の時代の心的傾向(中国の文献を軽視する)を継承しているためなのでしょう。

さて、扶桑國に関する書籍が20世紀にいき一郎氏以外に1冊もない理由に関して、著者は以下のように述べられています。

東京帝国大学文科大学史学科教授の白鳥庫吉氏が、1917-1918年に発表した論文で以下のように述べている。

梁書に記述されている扶桑國慧深大詐欺師である。

これは壮大な誤謬としてうえで、他国の記録に自国の人物の記述があるときに、自国の人物を大ペテン師と呼ぶ大国粋学者・帝国大学の大学者はなかろう。と手厳しいのです。
残念ながら東京帝国大学の史学の専門家が、扶桑國慧深大詐欺師と断罪しその記述を虚構としたことから、その後の研究者は扶桑國に対する研究を避けてきた。と説明します。
しかし停戦後自由の時代となり50年を経過してもなお、国立大学では日本国史学の研究の中心は古事記・日本書紀で、梁書扶桑國をまともな研究対象としていないとし、専門家の速やかな対応が望まれる。と述べられています。

扶桑国は関西にあった


私は、いき一郎氏とは、扶桑国の比定地の見解が異なります。
私なりに、扶桑国の比定地を、客観的、論理的、科学的に(私的には文献学的にと称していますが)考察したいと思います。


(つづく)
不定期、週末更新予定


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