畿内説、九州説、百花乱立の邪馬壹國の比定地 過去の考古学、民俗学の定説に囚われ過ぎているのか プロの歴史学者も、アマチュアの歴史愛好家も 迷宮を彷徨う 魏志倭人伝の呪縛の29文字 南至投馬國 水行二十曰 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 もし、二十日 十日 一月の記述が無かったならどうだろう 2015年、今、邪馬壹國の比定をGoogle Mapsから試みた


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41.扶桑國

その後の考察の結果、記述が正しくないと考え訂正をさせていただきます。(2016.12.1)

amazon.co.jpで、「邪馬台国」で本の検索をすると4336件がヒットします。しかし「扶桑国」で検索すると251件しかヒットしません。しかもそのほとんどは、扶桑國とは関係ない本なのです。もう少し多くの研究者の方々が、梁書の考察にも精励されたらと思う次第です。

梁書卷第五十四列傳第四十八巻東夷伝に記述されている扶桑國を考察します。まずは諸先輩方々が注目すべきと指摘している通り、この東夷伝の序文の記述を考察します。

以下、序文全文を記述します。

東夷之國 朝鮮為大 得箕子之化 其器物猶有 禮藥云
魏時 朝鮮以東 馬韓辰韓之屬 世通中國 
自晉過江 泛海東使有 高句驪百濟
而宋齊閒 常通職貢 
梁興 又有加焉 扶桑國 在昔未聞也 普通中 
有道人 稱自彼而至 其言元本尤悉 故並錄焉

 
東夷の國で朝鮮は大なり。箕子が獲得したところが変化したところである。その器物(調度品)には(箕子が持ち込んだ)祭儀に使用したもの、調薬に使用したものが、今猶有ると云われている。
の時代、朝鮮より東の馬韓・辰韓に帰属(した地域)から、代々中国と通商があった。
もちろんの時代にも、長江を通過して来た、泛海(浮かぶ海?(渤海・黄海))の東からの使者が有った。高句麗・百済からである。
さらに宋・斉の時代の間も常に職貢が通っていた。
が興隆し、また加筆するところが有ります。扶桑國です。昔は未聞 (前代未聞の希代な國) であった。普く(あまねく=もれなく)中国の都と通商があった。 の時代の普通年間(520年から527年)の間に、彼の地から来たと称する道人(仙人の道を極めた人? 僧侶?) がいた。その人の言うことは、昔のことも今のことも悉く(ことごとく)尤(もっと)もである。それ故に(扶桑國も)合わせて記録をする。

扶桑國を記述するに際して、異例の但し書きが序文に記述されていることに注目すべきでしょう。この序文は時代を追って記述されています。以下、時代をまとめました。

  220-265年 
  265-420年 
  420-479年
  479-502年
  502-557年


この序文で気になるのは、の意義です。序文には以下の地域が記述されています。

東夷之國朝鮮馬韓辰韓中國高句麗百済扶桑國

が使われているのは、東夷之國中國扶桑國です。馬韓國辰韓國高句麗國百済國とは表現していないのです。また、にもは付いていないのです。

の時代、高句麗百済は100km四方以上の大きな版図です。それでも高句麗國百済國とは表現していないのです。

ウィキぺディア 高句麗
https://ja.wikipedia.org/wiki/高句麗

高句麗
版図が最大に達した476年頃の高句麗と周辺諸国

の意義は王が治める国家でもなく、あるいは領主が治める藩でもないのです。の意義は決まった境界のある区域、都市で、その範囲は概ね10km四方以下と考えます。10km四方は、東京山手線の内側よりやや広いので、決して狭い都市ではないのです。

二つ目に気になることは扶桑國の存在時期です。序文の記述を見てみましょう。

普通中
 普く(あまねく=もれなく)中国の都と通商があった。


其言元本尤悉
 その人の言うことは、昔のことも今のことも悉く(ことごとく)尤(もっと)もである。

中国のどの時代から扶桑國はあったのでしょうか。

中国の文献を調べてみたところ、の時代、昭王三年(紀元前299年)、前漢の時代、元鼎五年(紀元前115年 )の記述に扶桑が地域として記述されています。

文献は以下のサイトを参照しました。

中國哲學書電子化計劃
http://ctext.org/library.pl?if=gb&res=5879

太平御覧 人事部一十六巻の皮膚伝の記述

王子年拾遺錄: 燕昭王三年 廣延之國 去七萬里 或云在扶桑之東

洞冥記 巻第二 元鼎五年伝の記述

長安東 過扶桑七萬里 有及雲山

これらの記述そのものは怪奇であり信憑性は低いと思われます。しかし紀元前299年、紀元前115年に、中国の東、遥か遠くに扶桑とゆう地域があったと記述されているのです。
この扶桑の地は、梁書に記述されている扶桑國と同じなのでしょうか。


(つづく)
不定期、週末更新予定


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追記(2016.12.1)

今回、梁書東夷伝の以下の解釈には悩みました。

普通中

扶桑國の列伝(本文)では、扶桑国慧深永元元年(499年)に来たと記述されています。

当初、この序文の扶桑國から来た道人は、慧深だと考えていました。そうすると「普通中」の年代である普通520-527年と解釈すると、慧深がに来た499年には合致しないのです。

しかし、「普通中」は、普通年代の間と解釈するのが正しいとの考えに変わりました。記事を訂正させていただきます。

中国の都に、扶桑国から520-527年の間に来た道人と、499年慧深とが、それぞれ訪問したことになります。これを踏まえて以降の考察を致します。


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