畿内説、九州説、百花乱立の邪馬壹國の比定地 過去の考古学、民俗学の定説に囚われ過ぎているのか プロの歴史学者も、アマチュアの歴史愛好家も 迷宮を彷徨う 魏志倭人伝の呪縛の29文字 南至投馬國 水行二十曰 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 もし、二十日 十日 一月の記述が無かったならどうだろう 2015年、今、邪馬壹國の比定をGoogle Mapsから試みた


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31.水行20日 水行10日 陸行1月は何里なのか

新井白石本居宣長ら諸先生方が、魏志倭人伝の研究をされてから300年近い歳月が経過しています。諸先生方は邪馬壹國の解析には執心されましたが、侏儒國 裸國 黑齒國の解析には執着されませんでした。これは手落ちでした。
もっと早い段階で侏儒國 裸國 黑齒國の考査が十分されていれば、現在まで邪馬壹國の比定地の議論が錯綜することはなかったと思います。

文献学者と自称する研究者は、原文の解析に真摯に取り組むべきで可能性のある仮説は、検証すべきなのです。検証により真偽を推論することが研究です。通説を踏襲し可能性を観念的に否定して、仮説の考察を熟慮しないとする流儀は、研究者としての力量が不十分と思います。

1.数字の逓減、最後は1

さて、魏志倭人伝帯方郡から邪馬壹國への道程の記述を見てみましょう。

行程1

7000里、1000里、1000里、1000里、500里、100里、100里。
この文章は見事なのです。目的地に近づくに従い数字が小さくなっているのです。100の後は、20、10、1なのです。逓減した数値を、最後はで目的地に達するよう記述したのは、筆者のこだわりであり、工夫なのです。
この筆者の意図に、多くの研究者が気づいていないのは残念です。帯方郡から邪馬壹國への記述は、実にリズムがあります。数字が100、100、20、10と続いて最後となるのには、何度も音読すると高揚感を覚えるのです。


2.水行20日 水行10日 陸行1月を棚上げする

しかし、20日、10日、1月の解釈は難題です。であるなら、まずは、20日、10日、1月の解釈を棚上げして考える手法もあると思います。方位、手段はそのまま数値は参考にします。
不彌國投馬國  南 水行 20
投馬國邪馬壹國 南 水行+陸行 40(10+30)

水行は船での移動と推測します。帯方郡から利用してきた郡の専用船は、末廬國に停泊したままです。末廬國から不彌國は徒歩でやってきました。郡の専用船は、ここでの水行には利用できません。と云うより、利用する必要がないので末廬國に停泊してきたのです。船は不彌國か、もしくは女王國のものをチャーターしたと憶測します。ここでは安全保障上の危険が少ないからです。
水行したのは、なだらかな川であったと憶測します。川幅は広いところでも50-100m、水深は深いところでも5m程度。溺没する可能性は低いのです。

舟

女王國の護衛は帯方郡からすっと、使節団に随行してきたと憶測します。九州北部に上陸してからは、その護衛要員は大幅に増員されたはずですし、一大率のある伊都國からは、各國の官、自らも護衛に当たったと憶測します。

不彌國は川沿いにあり、川を南に行ったところに投馬國があるのです。
投馬國からさらに川を南に行くと、ある地点で川の流れの方向が変わるのです。この地点で陸に上がります。
そこから徒歩で南に進むと邪馬壹國があるのです。
20日、10日、1月の解釈を棚上げして考察しても、十分に邪馬壹國の比定は出来ると思われます。

この考えに、20、10、1の数値の考察を加えてみます。
大胆ですが、不彌國から投馬國の数値20を距離200里と仮定します。すると投馬國から川を南に進み、陸に上がった地点までは10なので100里となります。その地点から邪馬壹國の地点は南に1月=30ですから、300里となります。
20,10,1の数字を距離の比と考えると、相対位置からより正しく邪馬壹國の比定が出来ると思われます。


3.各國の間隔

國の大きさを戦国時代江戸時代の、国や藩に相当する50-100km四方の大きさと考えると、判断を間違えます。当時の倭人の一つの國の大きさは、せいぜい5-10km四方、25-100km平米程度の大きさで、現代の町や村程度の規模であったと憶測します。
伊都國、奴國、不彌國の3國の間隔は100里です。この3國は隣接していたと憶測します。倭人の國と國の間隔は、この100里からせいぜい200里であったと憶測します。


4.仮説

7000里、1000里、1000里、1000里、500里、100里、100里、20日、10日、1月。
この数字の逓減と最後1での到達を可能にしたのは、不彌國から先の数値の単位を変えたからです。不彌國までは距離を里で記述していますが、それ以降、投馬國、邪馬壹國へは、里を日に変えて記述しています。全部、里で表現することも可能であったと憶測します。
7000里、1000里、1000里、1000里、500里、100里、100里、200里、100里、300里。
しかし、500、100、100と続いた後に、仮に200、100、300邪馬壹國に到達と記述するのは粗野で、優雅さに欠けると判断したのだと憶測します。
20日、10日、1月の記述が気になります。日を何を意味するのでしょうか。

仮説
 日は、倭人が用いた距離の単位で、1日=何里の基準に基づく。


仮説は観念に囚われずに設定すれば良いのです。立証して確からしければ正しいことになりますし、矛盾があり成り立たなければ仮説は間違っているのです。
この仮説は、「倭人は里を距離の単位としていた」との事実があれば、容易に反証できるのです。
日が距離の単位であるはずがない。日は距離ではなく、時間の単位であることは小学生でも知っている。などの見解は全く科学的でなく、反証にはならないのです。
一方、仮説を立証するには、「倭人は、日を距離の単位にしていた」、または「1日=何里に換算される」との事実があれば立証できるのです。
通説の観念に囚われて仮説を立てることに不慣れであると、記述の解釈を誤謬してしまうことがあります。


5.隋書倭国伝

隋書倭国伝に、以下のよく知られた記述があります。

夷人 不知里數 但計以日

夷人倭國の人が含まれるので、夷人倭人に置き換えても差し支えないと考えます。
通説では、以下のように解釈します。

倭人は 里数(距離)を知らない ただ日を以って計っている。

この解釈は、漢文(中国語)の読み下しとして正しくありません。
古代中国は文明の先進国であり、倭人は文明の劣った野蛮人であったとする史観が、平易な文書の解釈でさえ誤謬してしまったのでしょう。
通説の読み下しに対応する元の文は、以下でなければなりません。

夷人 不知里數 只知里程用日

記述の文に戻って読み下してみます。
は、ここでは「ただし」です。「ただ」ではないのです。
中国語で、は「ただ」の副詞に使われることもあります。前後の意味を考えると、ここでは副詞ではないのです。「しかし、だが、・・・である。」の接続詞なのです。
また、は、中国語では「・・・を手段とする」の前置詞で、「・・・を一定の基準とした手段とする」の意味があります。
は、「正確に計測する」の意味の動詞です。

読み下し文は、以下となります。

倭人は、里を単位として数えることを知らない。
しかしその代わりに、日をある一定の基準に基づいた単位として、
距離を正確に計測している。


「日」は、「里」に相当する長さの単位であることが示唆されています。「日は、倭人が用いた距離の単位である」とする仮説は確からしいのです。


5.侏儒國 裸國 黑齒國

ここで、魏志倭人伝侏儒國 裸國 黑齒國の記述に注目してみましょう。

女王國東 渡海千餘里 復有國 皆倭種
 又有 侏儒國 在其南 人長三四尺 去女王 四千餘里。 
 又有 裸國 黑齒國 復在其東南 船行一年可至。


通説では読点を上記のようにします。したがって侏儒國は、女王國から4000里。裸國 黑齒國は、女王國から船行1年と解釈するのです。

しかしこの読点は、不自然なのです。侏儒國女王國から4000里ならば、去女王は動詞ではなく、前置詞を使うべきなのです。

去女王 四千餘里 → 従女王 四千餘里 もしくは 四千餘里 従女王

「去女王 四千餘里」は「女王國4000里離れる」の意味です。「去女王 四千餘里」で区切ると意味を成しません。文から動詞を抜き取ると、
・・・渡・・・有・・・又有・・・去・・・。
これを読み下すと、
渡海すると種の國が有り、その南にまた侏儒國が有り、そして女王國を4000里離れる。
となります。
「人長三四尺」で区切って、「去女王 四千餘里」の後に文が続かないと不自然なのです。読点は以下が自然です。

女王國東 渡海千餘里 復有國 皆倭種
  又有 侏儒國 在其南 人長三四尺。 
去女王 四千餘里 
 又有 裸國 黑齒國 復在其東南 船行一年可至。


女王國の東を 1000里海を渡ると いくつもの國があり 全て倭種の國である。その南には また國があり 侏儒國で その國の人の身長は3-4尺である。
女王國を4000里離れると その東南にまた國があり 裸國 黑齒國である。船で行くと 1年で至ることが出来る。

なぜ研究者の間では、「人長三四尺」ではなく、「去女王 四千餘里」で区切った解釈が、通説となったのでしょうか。
単純なことです。去女王からを一つの文章とすると、女王國から裸國 黑齒國は、四千餘里=船行一年可至となるからです。4000里=1年は、観念的に有り得ないと先人の研究者諸氏が誤謬したからです。

仮説
 日は、距離の単位で1日=何里の基準に基づく。

仮説の里と日の換算値は、ここにあったのです。

新井白石氏、本居宣長氏ほか過去の先人諸先生たちが、侏儒國 裸國 黑齒國の記述の考察に執心していれば、4000里=1年であることを誰かが発見していたのではと思われます。
4000里を移動するのに年間もかからないと考えるのは、正しい観念です。しかし、原文に真摯に取り組めば解釈は紛れることなく、4000里=1年となるのです。観念と解釈の二律背反の命題を解くには、日、月、年は距離の単位である、と仮説を立てれば良かったのです。


6.水行20日 水行10日 陸行1月は何里?

4000里=1年年は現代では365日です。
太陽は朝昇り、夕方沈みます。古代からこの周期を、日と規定してきました。
月は新月から始まりだんだん満ちて真ん丸の満月となり、その後は欠け始めて新月に戻ります。この周期はおおよそ29.5日で、これを月と規定しました。
地球の地軸は黄道に対して傾いています。このため、日の出の時刻は周期的に変化し、また昼間の時間も同じように周期的に変化します。この周期を年と規定しました。
では古代中国では、1年は何日だったのでしょう。
古代中国では太陰太陽暦が採用されていました。通年は1年354日で、月が29日の月と30日の月が12ヶ月のなかでだいたい半分づつありました。しかし季節のずれを補正するため、19年に度(約年に度)30日間の閏月を入れて補正していました。従って、通常の年は1年354日、閏月のある年は1年384日となります。ここでは、1年354日とすることにします。
月は、精度を求めるなら1月=29.5日とすべきでしょうが、1月=30日としても支障はないと思われます。

日と里の換算式は、4000里=1年 
1年=354日を採用しましたので、4000里=354日。 
11.3里=1日となります。

水行20日 水行10日 陸行1月は、
水行226里、水行113里、陸行339里になります。


(つづく)
不定期、週末更新予定


















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