畿内説、九州説、百花乱立の邪馬壹國の比定地 過去の考古学、民俗学の定説に囚われ過ぎているのか プロの歴史学者も、アマチュアの歴史愛好家も 迷宮を彷徨う 魏志倭人伝の呪縛の29文字 南至投馬國 水行二十曰 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 もし、二十日 十日 一月の記述が無かったならどうだろう 2015年、今、邪馬壹國の比定をGoogle Mapsから試みた


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28.1里=53.3m(2)

魏志倭人伝に記述されている1里は、一大國の方可300里より、一辺300里、16km=300里と仮定して1里=53.3mと設定しました。これを検証してみます。距離は、Google Mapsから求めた数値を使用することにします。

(1) 帯方郡治から狗邪韓国

帯方郡治は、北朝鮮開城と仮定します。また狗邪韓國は、韓国巨済島とします。

到其北岸狗邪韓國七千餘里

さて、これは直線距離なのか、行程距離なのか。開城から船で朝鮮半島の西岸を南下し、珍島で東向きに方向を変え、巨済島の北岸に到着。
船での移動であるので、移動中に行程距離を計測することは出来ません。従って、この7000里は、直線距離であると推測します。
しかし既に、倭人あるいは韓国人が、開城から珍島珍島から巨済島の距離など、各地点間の距離を三角計量、天文計量などで計測済みで、距離は公知であったかもしれません。この場合、帯方郡の使節団がその公知の行程距離を報告した可能性もあります。
では開城から巨済島の距離をGoogle Mapsで見てみます。

帯方_狗邪韓國

帯方郡から狗邪韓國開城から巨済島の北岸までの7000里は、直線距離の場合375km(1里=53.6m)、三角計量に基づく行程距離の場合684km(1里=97.7m)となります。

(2)狗邪韓國から對海國
(以前の記事では對馬國と記述しましたが、以後對海國を使用します。)

船での移動なので、移動距離(行程距離)の計測は出来なかった、直線距離が記述されたと憶測します。

始度一海千餘里至對海國 

では、起点と終点はどこなのでしょうか。
海を100里渡ると記述されているので、2島間の最短距離を以って示すのが自然であるように思えます。しかしながら、連続性を重視すれば、実際に移動した2地点の直線距離を記述した可能性も考えられます。
Goole Mapsを見てみると、最短距離は、巨済島東岸の臥峴里から対馬の北西岸棹崎から田里生崎あたりが最短で、56km(1里=56m)となります。
移動した2地点の距離を示したとすると、起点を巨済島の北岸の旧永里、終点を対馬比田勝港とすると82km(1里=82m)、終点を厳原港とすると106km(1里=106m)となります。

狗邪韓國_對海國


(3)對海國方可四百餘里

方可四百餘里は、一辺が400里と推測します。
Google Mapsで見てみると対馬の南北は、南の神崎から北の久の木崎までの73km、
東西は、東の黒島から西の郷崎の20kmとなります。
一辺400里を南北とすると73km(1里=183m)、東西とすると20km(1里=50m)となります。

對海國


(4)對海國から一大國

ここも、Google Mapsで、最短距離と、2地点間の距離を見てみます。
最短距離は、対馬竜の崎から壱岐島勝本町本宮西触48km(1里=48m)
起点を対馬厳原港、終点を壱岐島郷の浦港とすると、62km(1里=62m)、起点を対馬比田勝港、終点を壱岐島郷の浦港とすると102km(1里=102m)となります。

對海國_一大國

(5)一大國方可300里

方可300里は、一辺が300里と推測します。Google Maps壱岐島を見てみます。

壱岐島


南北は海豚岬から勝本町東触17km(1里=56.7m) 東西は筒城岬から牧崎15km(1里=50m)となります。


(6)末盧國以降

   比定地が定まらないため、距離を検証することは出来ません。

(7)まとめ

   さて、以上検証した結果を以下にまとめてみました。

まとめ


棒グラフの青く示した、帯方郡から狗邪韓國の直線距離、渡一海千餘里を島間の最短距離。方可を対馬、壱岐島の東西のそれぞれの距離とすると、mに換算すると48-57mの範囲であることが分かります。1里は48-57mと仮定することが可能であることが分かります。
帯方郡→狗邪韓國→對海國→一大國の距離は、直線距離が記述されたと推測します。狗邪韓國→對海國一大國の距離は、それぞれ2島間の最短距離が記述されたと推測します。
また、1里=53.3mとの仮定は妥当であると憶測します。


(つづく)
不定期、週末更新予定



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はじめまして

はじめまして。突然のコメントお許しください。
当方「見まごう邪馬台国」というブログを書いている者です。KATS.I様のブログを文脈的な解釈や考とても面白いと拝見し、不躾けとは思いますが、感じた事を述べさせて下さい。

◇1里=53.3mの考察
>魏志倭人伝に記述されている1里=何mかを、一大國(壱岐島)の大きさの計測値、1辺=300里から推測しました。壱岐島は、南北17km、東西15kmですから、15-17kmの中心値16kmを採用して、300里=16km。1里=53.3mを基準と設定しました。


里程の辻褄が合わないからとか、地図上で計測すれば等の理由で、短里とする研究者は幾らでもいます。また、そうした単位を説明するのに、一大国に比定される壱岐の領域が基本にされることも多いですね。その理由は説明し易いからだと思いますが、計算値として導き出した数値で、對海國とされる対馬(上島と下島)との整合性はあるのでしょうか。

例えば、>1里=53.3mと仮定したのは、それほど大きな理由はありません。としますが、そもそも、中国の史書や地理志に短里と云う単位は在りません。その単位が邪馬壹国側の理由や意識だったのであれば、位置関係を誤魔化した可能性は否定できませんので、邪馬壹国や、その関係国の位置を「魏志倭人伝」の記述から比定することに意味は在りませんし、正確な地図を持つ現代でも無理があります。
魏使側にあったならば、或る思惑や意図があった。それを「呉」等に位置を悟られないため、国域を大きく見せるため等とする研究者も居ますが、魏王や、その関係者には判ったでしょうから、何らかの規則性や整合性があった。その位置関係に整合性が無いならば、「三国志」に地理志としての信憑性はありません。
そうした相対的な計算値で得られた単位の必然性として納得できる説明が欲しいですね。尚、当方のブログ「距離の感覚」や「領域の表記」で、短里に就いて述べましたので、興味があれば、ご一読を。

◇方位と距離の基準
>さて、方可300里の解釈ですが、300里平米とすると、√300=17.3、正方形とすると、島の1辺は、17.3里となります。17.3里=15-17km、1里=1kmで、少し長く思えます。方可300里は、1辺が300里と推測します。


例えば、一大國の方可三百里を長里では1辺約130㎞となり、現在の壱岐の大きさ「約15×17㎞」の約8.15倍、「魏志韓伝」韓國の方可四千里=1735㎞は、約213.5㎞と云う計算値になります。また、對馬國の領域だけ、「~餘里」とされる理由を、如何、お考えですか。
例えば、「方」=左右に張り出した柄の鋤を描いた象形文字。その柄が東西や南北等の方角(180度)を表す。東側の四方=90度、八方=45度、十六方=22.5度の開きを持ちます。そうした角度が正方形や長方形、前方後円墳の前方(二等辺三角形)に使われたとすれば、二点間ではなく、支点を含めた三点ではないでしょうか。

当時、韓國の部族国家には帶方郡からの独立を目指す組織もなく、その関係が良好だったのかは甚だ疑問ですので、韓國の領域を1辺=四千里の平行四辺形とし、狗邪韓國の位置を朝鮮半島東南隅(釜山)から一千里程西としても、帶方郡から狗邪韓國迄が七千餘里ですので、帶方郡衙(役所)と韓國の北境が接している事になり、「方可~里」と云う領域の里数値が1辺の数値とするには無理があると考えます。
例えば、帶方郡から倭人の領域が韓國を挟み日本海上に在るのと同様、帶方郡衙南側の最前線に出城を儲け、韓國領との境界には緩衝帯があった。おそらく、現在の平壌とソウルの関係と同様、開城(ケソン)や板門店とイムジン河かも知れません。
それが故か、「之」=足先が線から出て進み行く様の象形文字、本義、「行く」「~至る」とあります。それが韓在帶方之南とされ、(東西以海爲限)南與倭接の如く「韓北與帶方接」とされず、倭人在帶方東南大海之中、夫餘在長城之北、高句麗在遼東之東千里等、何れも同文型(~在~之)とされる理由でしょう。以上です。

余計なお世話だと、読み飛ばして構いません。還暦を過ぎた爺の世迷い言と思って、ご容赦下さい。

未万劫哉

方の解釈

未万劫哉さん、コメントありがとうございます。
また、私の拙文を読んでいただいていて嬉しいです。


1)方は一辺の意義?
四方とは四角形と考えます。しかし四方の方は角(かど)ではなく、辺(へん)の意味で使われていると思います。四方≒四辺です。
平家物語に「方一尺の箱のあり」との記述があります。
一辺が一尺の(立方体)の箱があるの意味と解釈します。ここでは方は辺の意味です。
だから三国志の方は辺を意味であるとするのは、三國志と平家物語とでは、時代も国も違うので、飛躍しすぎで早計かもしれません。しかし、方が辺の意義で使われている可能性は否定できません。

2)三国志全巻で方里の記述は8箇所あります。

地方數千里 魏書六巻 劉表傳
地方數千里 呉書九巻 周瑜傳
地方幾萬里 呉書三三巻 孫皓傳
夫餘 方可二千里 魏書三十 夫餘傳
高句麗 方可二千里 魏書三十 高句麗傳
韓 方可四千里 魏書三十 韓傳
對海國 方可四百餘里 魏書三十 倭人傳
一大國 方可三百里 魏書三十 倭人傳

3)里は面積の単位

古代中国(周代以前)では、里は元々面積の単位でした。やがて1里の面積の正四角形の一辺の長さが1里が、長さの単位に変遷した経緯があります。 
1里が長さの単位として定着した後、面積はどのような単位が使われたのでしょうか。

中国では周代以降、晋代、隋代、唐代には、頃(けい)が面積の単位として使われていたことが知られています。頃は時代ともに基準が変化しているのですが、1頃=4、000-6,000平米(m2)でした。5,000m2(平米)は、約70m四方です。

頃は田畑の面積を表すには適していても、一辺10kmを超えるような國の面積を表すには小さすぎて適していないのです。
当時は、面積を表す単位はなかったのではと憶測するのです。

4)対馬の面積

壱岐島、対馬の面積は、それぞれ139km2、709km2です。

当時、壱岐島、対馬の面積を計測することが出来たのでしょうか。
壱岐島は、平地が多く、ほぼ円形で、それほど大きくなく歩行により実測できたかもしれません。
しかし対馬は、島の大部分が森林におおわれ、複雑な形をしており、さらに南北80km以上もあるのです。当時、面積を計測することは困難だったと推測します。現在でも当時の技術で計測しようとすると、難航すると思われます。

5)方○○里 は、里平方?

当時対馬の面積を計測することは困難だったと推測します。
そもそも、壱岐島、対馬の面積を記述する必要があったのでしょうか。
韓4000里平方、對海國400里平方、一大國300里平方と、面積で記述されたのでしょうか。
面積の単位として頃を使用していました。しかし方里(里平米)を面積の単位としては、十分認識されていなかったように思えます。

一辺4000里、400里、300里の大きさと表現すれば、形が丸であれ、三角であれ、四角であれ、面積の大小は十分理解できると思うのです。

對海國に「餘」と記述されているのは、400里の数値はあまり正確ではないので、「餘」と記述したのだと考えます。

対馬の一辺400里は、南北の82kmではなく東西の18km+αを採用したのでは憶測します
。船の上から計測した憶測しますが、南北の82kmは、遠くは霞んでしまうので肉眼で見渡すことは困難です。
そこで南北ではなく東西を計測して400里としたのだと憶測します。

遅くなりました

 KATS.I 様、コメントに気づかず遅くなり申し訳ありません。
お応え頂き有り難う御座います。お互いに得られることがあれば、と思い再度返信させていただきます。

 >四方とは四角形と考えます。しかし、四方の方は角(かど)ではなく、辺(へん)の意味で使われていると思います。四方≒四辺です。平家物語に「方一尺の箱のあり」との記述があります。


 例えば、正方形を4辺が同長の方形(四方が同じ直角)とすれば、長方形は向き合う2辺の何れかが長い方形になります。
平行四辺形は、四辺の内、夫々、向き合う二辺が平行で、向き合う二つの角度が同じですが、四方が同じ角度ではないから、平行四方形、(四辺が同長の場合、菱形)で、菱方形とはなりません。

 現在、見られる平家物語の成立が、いつの頃かは知りませんが、当時、我が国では、「方一尺」=1辺が一尺の正方形っだったとしても、KATS.I 様も云われる様に、永い歴史の中、漢字は意味が加えられたり、変わったりします。三国志が成立した当時の用法は、三国志や同時代の漢籍の記述から云々すべきだと思います。

 何れにしても、「方可~里」の数値が1辺の長さを表すのであれば、帶方郡から狗邪韓國迄、七千餘里として、韓の領域北境と帯方郡衙が接しているとして良いのですね。



 >当時対馬の面積を計測することは困難だったと推測します。そもそも、壱岐島、対馬の面積を記述する必要があったのでしょうか。

 先ず、漢字の「方可~里」の里数が面積を表すと云うつもりはありません。漢字の成り立ちから考えると、1辺の長さではなく角度を持った2辺の長さを合せたのではないかと考えているだけです。

 漢和字典の「里」項、解字には「田」=四角く区切りを付けた井田と「土」との合字。人の住む所=行政区画の一つとありますので、或る意味、面積として良いのでしょう。
 ただ、云われる様に、広さを表したものが、長さの単位にされたとすれば、この漢字ができた当時、面積を測る数式だったかどうかは別として、面積とは四角く区切りを付けた2辺の長さを乗じたものです。
 同様に「頃」項、解字には首を傾げた形、傾(かたむき)の原字とありますので、これが面積を表すのであれば、これも2辺の傾き、詰まり、角度とは考えられませんか。
「方=左右に張り出した柄の鋤を描いた象形文字」も、そうですが、柄が東西や南北などの二方=180度とされ、四方=90度、八方=45度、などと使われます。漢字は、その形象が持つ意味から大きく外れた使い方はされないと思います。

 私が考える事は、面積が計測できたか、できないかではなく、その数字が何を意味するかですから、壱岐は地形的に計測しやすかったが、対馬は山がちで計測しずらかったから、東西の18㎞ですませた。對馬国だけが、方可~餘里とされるのは、その数値が正確ではなかったからと云う理由でも良いのです。ただ、対馬よりも長い距離で、山がちな韓國の方可四千里(200㎞余?)は、どの様にして計測されたのでしょうか。
 例えば、昨今の大工にできるのかは知りませんが、古来、曲尺一本で三角関数の計算と同様の事を行い、屋根等、勾配の長さを出したと云われます。
 新しい方法論ができて、忘れ去られた旧来のものも在ったのかもしれません。東西南北の四方を正確に配置される古代エジプトのピラミッドは、未だ、建設法や、その用途さえ、定説を見ないようです。

 地理志と云う書物が持つ政治的・戦略的な役割や意義を考えれば、面積だけではなく、出来得る限り、様々な情報を記述する必要があった。それが故、傍国は遠絶だから詳細は記載できないとされるのだと思います。

 以上です。また、コメントさせていただくことももあると思います。そのときは宜しくお願いします。

  未万劫哉

コメントありがとうございます。

未万劫哉さん

 返信読んでいただいてありがとうございます。
 新しい記事を書いていないのでCMが入ってしまい、お見苦しいブログで恐縮です。


魏志には以下の記述があります。

韓在帶方之南
東西以海為限
南與倭接
方可四千里

*韓(馬韓、辰韓、弁韓)と帯方郡は接していた。
*韓は東は黄海、西は日本海に接していた。
*韓は南は倭に接していた。
*韓の大きさは一辺4000里である。

私の考察は以下です。

1里=53.3mと仮説しました。53.3mとした契機は単純でしたが、今では倭人傳だけでなく、魏書三十巻の烏丸鮮卑東夷傳から倭人傳までの全ての記述に適用できるような気がしています。今後考察したいと考えています。

朝鮮半島南部は倭の版図であり、韓の南は倭に接していて、海には接していなかった。
韓の版図の一辺4000里は、南北であった。

朝鮮半島南部の東西をGoogle Mapsで確認すると、300kmほどあります。
1里=53.3mで換算すると朝鮮半島の東西は5600里となり、4000里よりだいぶ大きくなります。
朝鮮半島の大邱あたりまで、倭の版図だったのではと憶測しています。

 帯方郡と狗邪韓國の7000餘里は直線距離で、測定方法は天文測量ではと憶測しています。
 
 
未万劫哉さんのコメントを吟味して考えて見たのですが。
方○○里を、2辺の長さの和とした場合。
 韓
 南北=200km 東西300km南北+東西=500km
 方4,000里
 500km=4,000里 1里=125m
 壱岐
 南北=17km、東西=15km(壱岐市広報)。南北+東西=32km
 方300里
 32km=300里 1里=107m
 対馬
 南北=82km、東西=18km。南北+東西=100km
 方400里
 100km=400里 1里=250m

 対馬が方400餘里の2.0-2.3倍の800里ー930里だと良く合致します。

No title

 >韓在帶方之南 東西以海為限 南與倭接 方可四千里
*韓(馬韓、辰韓、弁韓)と帯方郡は接していた。
*韓は東は黄海、西は日本海に接していた。
*韓は南は倭に接していた。
*韓の大きさは一辺4000里である。


 帶方郡と帯方郡衙は同じではないでしょう。帯方郡が統治できている範囲の最前線に出城があったとは考えられませんか。それが韓と接している所でしょう。
 また、韓が接している東西沿岸の海は、その部族国家が領有しているのでしょうか。また、韓の南とは半島内でしょうか。それとも南岸部の海でしょうか。この倭とは、其北岸狗邪韓國のことでしょうか。

 >帯方郡と狗邪韓國の7000餘里は直線距離で、測定方法は天文測量ではと憶測しています。

 この七千餘里の直線距離が測定できるのならば、対馬の南北も測定できるでしょう。それとも帶方郡の人々にはできたけれど、倭人にはできなかったのでしょうか。
 例えば、「1m」=赤道から北極迄の大円距離の1000万分の1、「1ft」=足の爪先から踵迄、時代や用途に拠っても変化するようですが、一尺は、手の指先から肱迄の長さが基本とされます。
 先にも聞きましたが、地図上で計った壱岐の大きさから計算したとされる一里=53.3mと云う単位の基本は何ですか。それをを用いた必然性は何でしょうか。偶々、その計算値でやったらあったということですか。

 私説を読んでいただけていないようですから、以下、簡単に説明させていただきます。

 乗馬に於ける一日の平均的な進行距離をモンゴル騎馬兵の進軍速度=70~100㎞/日とされます。一方、櫓漕や帆掛和船は、1knot=一海里(約1852m/h)として実船の最大速度で10knot(18.5㎞)程、櫓を用いた推進法での船速は4~6knot(7.3~11㎞/h)程とあります。
 上記から船行一日(半日)の移動距離の目安(千餘里)を55~150㎞とすれば、一里平均=100m程、晋王朝の司馬氏は騎馬民族に近い縁を持つのか、三国志に於ける魏使は知識として馬が一日の移動する最短距離に対する相対的な単位と、船行が近い数値と知ったのか、馬の日程と同様、予備日を挟んだ三日の「70~140m」とし、210÷2=105m前後と設定したと考えます。
 それが狗邪韓国からの三千余里を安全に渡るための水行十日になります。詰まり、水夫の休日、潮待ちや日和待ち等を鑑み、一行程、最長で3~4日と設定されました。当然の事ながら、何事もなければ、1~2日程の休息日を挟み4~5日、早便ならば、3日で渡りきったかも知れません。

 陸行の場合、平均距離は、20~30㎞/日でしょうか。但し、当時の道路状況等を考慮すると、使節と荷物を平底の船に乗せ、沿岸から曳く河川航行の10~20㎞/日位、夏の暑い時期でしたら百里(約10㎞)/日でしょうか。

 對海国「方可四百餘里」は同単位に拠る「105m×400=約42餘㎞」、対馬下島の縦横約25+18㎞=約43㎞の長方形に略合致、同上島の縦横=約40+15㎞には合致しませんが、対角線=43㎞には略合致します。詰まり、編者陳寿は、魏使に順い「方可~里」の数値を二辺の合計とし、韓と一大(一支)国は、方可~里を四辺を均して同長とした正方形や平行四辺形の縦横の二辺を合計した長さに対応させたと考えます。
 一方、對海(對馬)国「方可四百餘里」は、二島に別かれている等を倭人から聞いたのか、「餘」=特定の単位や枠に充て填らない=設定した範疇に収まらないとして、対馬下島の縦横二辺の合計(約43㎞)は均せない長方形である事、同上島の細長い形状の対角線(約43㎞)として上下二島を表した。

 以上です。結局、当方の質問に答えてもらえませんでしたが、お付き合い頂いて有り難う御座います。また何かありましたらコメントさせていただきます。

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