畿内説、九州説、百花乱立の邪馬壹國の比定地 過去の考古学、民俗学の定説に囚われ過ぎているのか プロの歴史学者も、アマチュアの歴史愛好家も 迷宮を彷徨う 魏志倭人伝の呪縛の29文字 南至投馬國 水行二十曰 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 もし、二十日 十日 一月の記述が無かったならどうだろう 2015年、今、邪馬壹國の比定をGoogle Mapsから試みた


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11.末廬國

使節団は一大國でも一泊し、翌朝、午前6時に魏国の大型帆船に乗り込み、次の経由地、末廬國の繋留地を目指したと憶測します。

 又渡一海 千餘里 至 末廬國

Google Maps壱岐島から1000里(53.3km)を見てみます。

末廬國11

平戸、松浦、伊万里、唐津、糸島、福岡市西区がその範囲となります。
大型帆船の繋留に適したところは。

平戸10

平戸は、平戸瀬戸に多くの繋留地があったと憶測します。ただ、船行の寄港地であったが、陸行の繋留地ではなかったと憶測します。

松浦10

伊万里11

唐津12


現在の松浦、伊万里、唐津の市街地はいずれも士佐川、有田川、松浦川の堆積平地で、船舶の繋留地は、河口の砂州地から離れた海岸線の入り江であったと憶測します。
繋留地からは、いずれも川沿いを陸行することになります。使節団が行くルートとしては、無理があり(負担が大きく)、経済的でないと憶測します。

糸島半島12

糸島、福岡市西区糸島半島は、多くの繋留地があったと憶測します。また、陸行のルートも平坦です。安全、無理が無く、経済的であったと憶測します。
末廬國は、糸島半島にあり、国邑は、JR筑肥線加布里~今宿の間にあったと憶測します。ここでは、中間点の波多江と設定します。

壱岐島郷ノ浦港から糸島市波多江まで54km。1里53.3mの設定ですので、1013里となります。

末廬國13

さて、使節団が帆船を繋留したのは、糸島半島の西岸だったのか、東岸だったのか。
郷ノ浦港から西岸の筑前前原まで、航路55km、東岸の今宿は65km。
使節団は、その後の行程を考慮して、東岸の今津湾瑞梅川河口の入り江に帆船を繋留したと憶測します。郷ノ浦港から時速6kmで航海し、午後5時頃、使節団は福岡県西区田尻あたりに、到着したと憶測します。

末廬國12


240年○月1日午前6時 帯方郡 (開城) 発 
240年○月6日午後4時 狗邪韓國 (巨済島)
 船行5泊6日。航海距離650km。

240年○月7日午前0時 狗邪韓國 (巨済島) 発 
240年○月7日午後7時 對馬國 (厳原港)
 船行19時間。航海距離110km。

240年○月8日午前6時 對馬國 (厳原港)
240年○月8日午後5時 一大國 (郷ノ浦港)
 船行11時間。航海距離 65km。

240年○月9日午前6時 一大國 (郷ノ浦港)
240年○月9日午後5時 末廬國 (福岡市西区田尻)
 船行11時間。航海距離 65km。


(つづく)
不定期、週末更新予定


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