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畿内説、九州説、百花乱立の邪馬壹國の比定地 過去の考古学、民俗学の定説に囚われ過ぎているのか プロの歴史学者も、アマチュアの歴史愛好家も 迷宮を彷徨う 魏志倭人伝の呪縛の29文字 南至投馬國 水行二十曰 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 もし、二十日 十日 一月の記述が無かったならどうだろう 2015年、今、邪馬壹國の比定をGoogle Mapsから試みた


52.距離の基準 1里=53.3m (その2)

隋書倭國伝に以下の記述があります。この一文は非常に重要です。

夷人不知里數 但計以日

隋書倭國伝1

残念ながら、この一文の正しい訳に、まだお目にかかったことがありません。

夷人は里(距離)の数え方を知らない。
ただ日を用いて距離を計っている。

これが通説の訳文です。誰もこの訳文に誰も疑問を持っていないのですが、この訳文には二つの誤りがあります。
そしてこのような誤訳を感受する理由がまた二つあるのです。

の意味のとり方です。
は、「ただ、単に、ひたすら」という副詞の意味と
「しかし、だが、・・・であるが」の接続詞の意味があります。

この一文の「・・・・・・」は成句なのです。
「・・・しない。ただし・・・をする。」の意味です。
ここでは、は、接続詞として捉えなければなりません。

夷人は里を知らない。
しかし、計以日である。

となります。

「・・・しない。ただ・・・するだけである。」の意味の成句は
・・・()・・・」なのです。

の意味のとり方です。
はかなり厳格な意味を持ちます。
中国語の辞書を調べれば、は「・・・を一定の基準、方式で、・・・に従って」という意味があります。
「使って」とか「用いて」という漠然とした概念ではないのです。
日を一定の基準として・・の意味となるのです。

夷人不知里數 但計以日

隋書倭國伝2

正しい訳は以下となります。

夷人は、里を基準として、距離を数えることを知らない。
しかし、日を距離の単位の基準として、正確に距離を計測している。

通説の

夷人は里(距離)の数え方を知らない。ただ日を用いて距離を計っている。

であれば原文は以下となると推測します。

夷人不知里數 只知遠近用日数

また、この通説の意味なら、夷人不知里數 但計以日の一文自体が不要なのです。続く一文は以下です。

其國境 東西五月行 南北三月行 各至於海

隋書倭國伝3



皆自稱王
其國境 東西五月行 南北三月行 各至於海

これで文として成り立ちます。この文章であれば、

5ヶ月、3ヶ月の時間をかけて行くと、それぞれ海に辿り着く。

としか意訳することが出来ません。通説通りの解釈となります。
夷人が里を知っていようが、知らなかろうが、文の主旨には関係はないのです。
つまり夷人不知里數 但計以日の一文は蛇足となってしまうのです。
この一文を記述せざるを得なかったのは、月、月は時間の長さではなく、距離の長さであることを説明するために、どうしても必要だったと推測します。

正しい訳ではなく、誤訳が専門家に受け入れられたのには、二つの観点があると推測します。

先入観・固定観念の壁

日が距離の単位であるはずがないという先入観、固定観念です。
文献学者は、主観的な先入観、固定観念を排除して純粋に原文に向き合い、一語一句解読しなければならないのです。
文の真意が分からないことがあります。その時は、他の文献を幅広く調査して真意を解読しなければならないのです。
根気の要る作業です。

この作業を怠けてしまうと、先入観・固定観念の囚人となり、やがて無意識に誤訳することが習慣となってしまうのです。
この一文は、そのまま意味を捉えればこうであるが、常識的に考えれば意訳はこうなります、と解釈してしまうのです。
こうなると、もはや文献学者ではなく、創作家、評論家なのです。
これは、先入観、固定観念、そして怠慢という技術的な問題なので、意識を変えれば改善できます。

共通認識、権威の壁

こちらの方が深刻です。既得権益の壁といってもいいかもしれません。
学問は、一つひとつの仮説、定理、法則の積み上げで発展してきました。
新たな研究により、これまでの仮説、共通認識が誤りであることが分かれば、それは修正されるのが摂理です。
自然科学の分野では、従来の仮説、学説が誤りであることが実証されれば学説は修正され、新しい定理、法則が構築されることが頻繁あります。ガリレオ地動説が一例です。
仮説はあくまで仮説で、反証の事実が次々と実証されれば、仮説は誤りとなるのです。
仮説が実証されれば、それは真実となります。定理です。
反証も実証もされなければ、いつまでたっても証明されない、確からしい仮設のままなのです。法則です。
自然化学は現在進行形なので、現在の事象から反証、実証すること容易ですので、比較的健全に仮説が正しくなければ、修正がされてきました。

歴史学においては、仮説、共通認識が修正されることは稀なのです。過去形なので、反証の実証が難しいのです。
これは日本に限ったことではなく、欧米でも変わらないようです。
在野の研究者、グラハム・ハンコックも著書でこのことを指摘しています。
仮説を権威者たちが認めれば、それが修正されることはなく、やがて学説となるのです。

隋書倭國伝には、夷人は、中國とは異なる長さの単位系を使用している。そしてその単位系の精度は中國と同じくらいである、と記述されています。
これは、これまで権威者たちが築き上げてきた歴史認識を覆すことになります。
全ての文化、技術、知識は中國で発達し、それが朝鮮半島を経て日本列島に伝播した、という仮説が権威者達の歴史認識です。
これは仮説なのですが、多くの学説は、この歴史認識の上に構築されています。最初の仮説はもはや、絶対的に正しい真実となり、信仰となっているのです。

中華を起源としない文化、技術、知識の伝達経路があり、それが日本列島に伝わった。
さらにその水準は中華と遜色がなかった。
このような仮説は、一部の愛好家が支持することはあっても、権威者に受け入れられることはないのです。

夷人不知里數 但計以日

この一文の解読を、一文献学者が誤ったことにより、それが後世に大きな悪影響を与えているのです。


また、以下のよく知られた学説があります。

古代メソポタミアでは、日の出のとき、太陽の上面が地上線に接して姿を出し、完全に地上線に現れるまでの時間は、現在の時間の単位で分であることを理解していた。
この時間の長さを基準として、朝の日の出から、翌日の日の出までを計測すると、日の長さはちょうど360であった。それで日を360分割した。
当時日は、12分割され十二時辰が使われた。古代メソポタミアでは、以下の時間の長さの単位系が確立された。

日=12時辰
日=360太陽長 (太陽長=太陽が個分動く時間)
時辰=30太陽長

やがて、時辰が2分割され、時間の単位となったので、太陽長も分割されの単位が出来き、以下の時間の長さの単位系が確立し、現在もこれが使われている。

時辰=時間
日=24時間
太陽長=
時間=60

よく出来たお伽噺です。古代メソポタミア60進法を説明するには説得力がありますし、現在の時間が60分である理由も納得させられてしまいます。
しかし、これがお伽噺、落語のネタで子供騙しの間はよいのですが、この仮説は今では学説として定着してしまっているのです。

こちらは文献学者の責任ではなく、歴史学者の責任です。歴史学者は誰ひとり、この仮説を検証していないのでしょう。あるいは検証して疑問を持ったが、異論を唱えなかったのでしょう。
学説となってしまっている今では、もう修正は出来ないのです。

この仮説は、科学的でないのです。
日の出のとき、太陽の上辺が地平線に現れ、完全に昇りきるまでの時間は、季節、緯度によって異なりますが、分となる場所はないのです。
この時間は10秒から30秒です。
10秒とか30秒は大勢に影響がないと考え、検証もせず闇雲に賛同する人は、もはや研究者とは呼べないのです。仮説を検証するという、研究者としての基本を知らないのでしょう。自然科学の分野では、考えられないことです。

この10秒、30秒の差は大きいのです。実際に観測すれば分かることです。
10秒を基準として日の長さを計測します。
日の出のときに観察した10秒の長さを元に、翌日の日の出が何回目になるのか数えます。
10秒を元に数えると、360回ではなく333回、数えたところで太陽の上辺が地平線に現れてしまうのです。
30秒を元に数えると、288回目に太陽が現れます。
288とか333360とするのは無理筋なのです。
古代メソポタミアでは、別の根拠による1日=360という基準があったと憶測します。

このお伽噺は、日の出の時の観測から、太陽個分が移動する時間を元に1日を計測したら、1日=360という基準にまあまあ近かった、というものだったと推測します。
これも既得権益の壁なのです。

さて、夷人は、時間の長さの単位系を、そのまま距離の単位系にも使っていたと考えます。
では、どのような時間の単位系を使っていたのでしょうか。

================================================

ここからの記述は、単なる私の仮説です。
実証されれば、真実となりますが、
反証されれば、誤った仮説となります。
実証も反証もされなければ、単なる仮説のままなのです。

夷人が使っていた時間の単位系は以下であると憶測します。

年=12ヶ月=360
ヶ月=30
日=12時辰
1時辰(時間)=120

太陽の周期から年=365.24日としても、月の周期からヶ月=29.53日としても、差異は%以下なので問題ないと推測します。
時辰は120分割された。これが私の一つ目の仮説です。

年は12分割されてヶ月となりました。
ヶ月は12分割されませんでしたが、1日は12分割されて時辰(現在の時間)となりました。
12進法が採用されているのです。
時辰もまず12分割されたと思います。現在の10分です。
10分はまだ長い時間です。
そこで10分割され、現在と同じ分の単位か確立したのではと憶測します。

分の単位が確立したのは、古代メソポタミアとされています。
これを夷人も使っていたと憶測します。

子供から、「分の長さって、どれくらいなの?」と聞かれたとします。
夷人はどう答えたのでしょうか。
私なら「人が息を止めていられる時間の長さが分だよ。」と答えます。

夷人は、私が仮定した以下の時間の長さの単位系を、
そのまま、距離の長さの単位系にも使用していたのではと憶測します。

年=12ヶ月=360
ヶ月=30
日=12時辰
1時辰(時間)=120

ここで、時辰の単位のどれかと、長さの基準との換算の規則がないと、距離を計測することが出来ません。
時間の長さの最小単位のと、長さの単位のキュビットとの間で、換算が規定されていた。
つまりキュビットとされたのではと憶測するのです。
これが、二つ目の仮説です。

キュビット
時辰120120キュビット
12時辰1,440キュビット
3043,200キュビット
12518,400キュビット

里=53.3mの基準は、キュビットに拠ると憶測しました。

この憶測は、仮説の上に仮説を立て、又その上に仮説を立てます。
結果、段階仮説を積み重ねることになりました。
仮説を立てたなら、その根拠を示す必要があります。
また仮説の確度を示す必要があります。確度とは、他の仮説も可能性があると認めることです。
自説の仮説以外に、もっともらしい有力な仮説がつあるとします。全部で仮説は個なので、自説の仮説の確度は1/333.3%となるのです。

里=53.3mの基準は、キュビットに拠る。

この仮説は、仮説を個も積み重ねた結果、確度は最終的にがっかりするくらい低くなってしましました。
果たして仮説といえるのか、もはや屁理屈の領域なのか分からなくなりました。
でも気を取り直して、次回これを考察することにします。

つづく

不定期、週末更新予定



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53.距離の基準 1里=53.3m (その3)

前回の記事について、未万劫哉さんより丁寧なコメントをいただきました。ありがとうございます。
返事が長くなりますので、今回をこの返事を記事にすることにします。
コメントの全文は以下をご覧ください。

http://katsi.blog.fc2.com/blog-entry-58.html#cm

コメントの中の2件のご質問に対する回答と、いくつかのご見解の中で6件を取り上げ、賛同できるところと、そうでないところ合わせて記述します。

1.
私の記事
日の出の時、太陽の上面が地上線に接して姿を出し、完全に地上線に現れる迄の時間は、
現在の時間の単位で2分であることを理解していた。


→ 私も原典は知りません。

織田一郎2017)『時計の科学』、ブルーバックス講談社出版
に記述されていますので、著者がご存知かもしれません。
太陽が地平線に顔を出してから、姿を完全に現すまでの時間が約
で検索するといくつかのサイトに辿り着けますが、
原典を紹介されている記事は見つかりませんでした。

2.
ご見解 
メソポタミヤの水平線から出た太陽の直径を二分(にぶ)=二度とし、
一日=360度と設定して


→ 賛同しません。

太陽の直径分が移動する時間は、分ではないのです。
10秒とか、30秒です。
太陽の直径が移動する時間を1日の基準としたら、
1日=330度とか288度と設定しなければなりません。
まず、ある基準を元にしたの単位が、先にあったと推測しています。
ご見解の通り、太陽の直径の話はの単位が確立した後、
かなり経過してから、お伽噺として作られたと考えています。


3.
ご見解
 突然、南へ水行十日陸行一月と日程にした編者陳寿の意図や、その理由も考えず、


→ 賛同しません。

仮説1.
 意図や理由があった

仮説2.
 1月は1日の誤り
 提唱者 白鳥 庫吉 東京帝国大学文科大学史学科教授1904年 - 1925年)

仮説3.
 南は東の誤り
 提唱者 内藤 湖南 京都帝国大学文科大学史学科教授1909年 - 1926年)

(教授在任期間)

この三つの仮説を比較します。
仮説2も仮説3も立ち位置は、仮説1と同じです。
「水行十日、陸行一月」を解読することはどうしても出来ない。
何故なら編者の意図や理由があったから。
この前提の上で、仮説が立てられているのです。
編者による事実の改竄が行われた。記述は誤りである。と前提し、仮説は立てられたのです。
二人とも明確には改竄とは言わず、誤りと言っていますが。

このように仮説を立てることは、学問的に正しい手法です。
「1月は1日」、あるいは「南は東」の仮説を、実証もしくは反証することが論点となります。
誤りがあったかどうかは論点ではないので、議論しても意義がないのです。

白鳥教授の「1月は1日の誤りである」との仮設は、
意外と反証が難しいのです。さすが、東京帝国大学教授の面目躍如といったところでしょうか。

一方、内藤教授の仮説は、矛盾が顕著ですので、反証の余地が多いのです。

 南を東と2回も誤ったのか。
 北の一大率も誤りなのか。

内藤教授の胸の内を察するに、
当時の史学界の第一人者である白鳥教授ともあろうものが、記述は誤りであると仮設するのは、遺憾である。
原文の解読から目を逸らしてしまえば、それはもはや文献学でなくなることを憂慮したのでは、と推測します。
仮説が反証されなければ、それは学説となります。
白鳥教授の仮説が議論されるのであれば、「南は東の誤りである」とする仮説も議論されるべきである。
と敢えて矛盾の多い仮説を提唱して、白鳥教授の仮説が学説となることを必死に阻止したのでは、と勝手に憶測します。

白鳥教授の仮説は、その後の思わぬ援護射撃によって守られてしまいます。
白鳥教授の門下生である、榎一雄 東京帝国大学文学部東洋史学科教授(教授在位期間1955年-1974年)が、戦争後の混乱の中、1947年に「放射説」の仮説を提唱し、
学会の争点の転換が計られてしまうのです。
白鳥教授の仮説は、学会で実証も反証もされなくなります。
反証されないことは、学説として定着したことを意味します。
あと100年も経てば、白鳥教授の仮説は学会の定説となるかもしれません。

さて、白鳥教授内藤教授らの仮説に対抗するには、
仮説が正しくないとする事実を提唱して反証するか、新たな確からしい仮説を立てることとなります。

「編者の意図や考えがあった」との前提の上で、仮説を立ててもよいし、
「意図や考えはなかった」との前提で仮説を立ててもよいのです。

編者の意図や考えがあった。そして事実の改竄が行われた。あるいは故意に誤って記述した。
この前提に基づく仮説は脆弱です。改竄を前提とするのは、無理筋だと思われるからです。

二十日、十日、一月には、編者の意図や考えがあった。
二十日、十日、一月は、距離を示すものでも、所要した日数を示すものでもない。
二十日、十日、一月は解読出来ない。

この仮説は、白鳥教授、内藤教授の仮説に対抗出来るものでは、と考えています。
改竄を前提としていないので、無理がないと私は考えます。

この仮説の場合、二十日、十日、一月の記述を無視して、
方向の南だけに焦点を絞り、魏志倭人伝を考察すれば良いことになるのです。
いわゆる呪縛から、開放されるのです。

文献学者は万能ではないのです。
この一文は解読出来ないと、潔くよく解読を放棄するのは、専門家として立派な見解と考えます。
古代文字の解読をするときは、解読放棄は普通に行われていることなのですが。
こと、魏志倭人伝において、改竄説、放射説などが出てくるのは、
文献学者は万能であるべきだ、
解読放棄をしては権威に係わる、
そのような発想は学会の慣習に沿わない、
などの強迫観念に囚われてしまっているのでしょう。
このような固執は、学問の発展を妨げてしまうのですが。
 
さて本筋に戻ります。
意図や理由があったとするのは仮説ではなく、仮説を立てるための前提です。
意図や理由があった。だから解読できない。これもまだ前提です。
記述の一月、あるいは南は誤りであるとか、記述は解読できないとか、ここまで進めないと仮設とはなりません。

誰々の見解に賛同するのはそれでいいのです。それを前提とした自説は、あくまでも自身の仮説です。
何を前提とした仮説なのかを説明し、他者にその信憑性、確度の議論を求めるのが学問の手法です。
提唱した仮説は、議論されます。その際、何を前提としているのかが追及されます。
前提が例えば、松本清張が言っている、では議論とならないのです。
誰々が言っていることを、あなたは自身で十分検証しましたか、と大学のゼミでは指導者に問われることでしょう。
誰々の見解が自然科学の定理、法則なら、それに従って見解したでよいのですが。
文献学の分野では、誰々の見解を鵜呑みにせずに十分に消化して、誰々がこう言っているなどと引用することなく、自身の見解、仮説として提唱することが専門家には求められます。

当たり前ですが、白鳥教授、内藤教授は、正しい手順を踏まえているのです。

何故、「意図や理由があった」とするのが仮説とならないのか。

私も、意図や理由があったと考えます。
それは、編者が文の調律(リズム)を大切にしたからと考えています。
帯方郡から邪馬壹國への距離の記述は、
7000、1000、1000、1000、
500、100、100、
20、10、1
と実に美しいのです。
切のよい数字が並び、目的地に近づくに従い逓減し、そして最後は1で目的地に達するのです。
これが編者の意図と考えています。

つまり、論点のずれが生じて、議論が噛み合わないのです。
 

4.
ご見解 
古代人より現代人の方が知識も豊富で優れている
と云った思い込みに拠るものだと思います


→ 賛同します。
本文でも記述した通りで、
「無知だから距離を計測するすべを知らない」
とするのは間違った意訳だと思います。

5.
ご見解 
三つの航路を3日で渡りきるとすれば、その日程を最長10日としても納得できます。


→ 賛同します。
狗邪韓國對馬國一大國末廬國
日の行程だったと思います。
私は、航海の時速は4-6kmと考えていますが、いかがでしょうか。
航海は昼間が基本ですが、夜間も行われたと憶測します。
そうでないと、狗邪韓國對馬國80-100kmの航海は、昼間の12時間では到達困難ではと思うからです。

6.
ご見解 
航海に於ける1日の最長航行距離と同様、
何れも千餘里として認識したと考えます。


→ 賛同しません。
それは「古代人より現代人の方が知識も豊富で優れている」という
先入観による見解と私は思います。
この時代すでに、現代人と同じ技術である、天体観測、あるいは三角点計測により、二地点間の距離は計測されたと考えます。
航海距離ではないと思います。

7.
ご見解 
郡衙から狗邪韓国迄の沿岸航海七千餘里の実質7日間も
潮待ちや風待ち、休息日や予備日等を含めて最長25日程度の日程と考えます。


→ 概ね賛同します。

ただ、帯方郡から狗邪韓國の航路の考察で、
狗邪韓國から末廬國への海域の条件をそのまま用いて推論してよいのか、疑問を感じます。
この帯方郡から狗邪韓國の航路の水深は、極めて浅いのです。
また内海です。対馬海峡と比べると、潮流、風は穏やかなのです。
私は、帯方郡から狗邪韓國までの所要日数は日と考えています。
これは行程中どこにも寄港せず、終日終夜24時間航海したことを前提としています。また、航海の時速は4-6kmを前提としています。

8.
ご質問 
シュメール人や古代エジプト人が肱から指先迄の長さと云う単位「キュビット」を創り、
使った理由、その必然性は何でしょうか。


→ 何故なのでしょう。私には分かりません。
キュービットは実際に存在していた単位ですので、何らかの仮説が必要でしょう。

9.
ご質問 
そうした不思議な単位が、倭人達の使う距離の単位に用いられた理由は何でしょうか。


→ これは次回以降に記述したいと考えています。
フィートの距離の単位の存在には、
違和感をもたれていないようなので安心しました。
その関連も含めて記述させていただきたいと思います。


つづく

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