畿内説、九州説、百花乱立の邪馬壹國の比定地 過去の考古学、民俗学の定説に囚われ過ぎているのか プロの歴史学者も、アマチュアの歴史愛好家も 迷宮を彷徨う 魏志倭人伝の呪縛の29文字 南至投馬國 水行二十曰 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 もし、二十日 十日 一月の記述が無かったならどうだろう 2015年、今、邪馬壹國の比定をGoogle Mapsから試みた


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46.末盧國~伊都國

以前から指摘したいと思っていたことがあります。魏志倭人伝に記述されている末盧國の比定地に関してです。
邪馬台國九州にあったとする九州説奈良県大和平野にあったとする大和説のどちらも、ほとんどの研究者の方々は、末盧國の比定地を肥後国松浦郡(現在の佐賀県唐津市)としています。通説を検証せず論じているに過ぎません。
これは、末盧(まつら?)と松浦(まつうら)とが語呂が似ているだけの根拠なのです。
同じことが伊都國にもi云えます。九州説大和説とも多くの研究者は、福岡県糸島市伊都國の比定地としています。これも根拠は伊都(いと)と糸島(いとしま)と語呂が似ているだけで結論付けています。
これらは、より多くの考察がなされるべきなのです。末盧國唐津市伊都國糸島市に比定するにはいくつかの障害があります。

まずは船の問題です。帯方郡の使節団は帯方郡から、狗邪韓國對海國一大國、そして末盧國へと船で移動します。この船はどこの船だったのでしょうか。当時、定期航路はなかったと推測します。帯方郡末盧國を行き来する貿易船、漁船は存在していたと推測しますが、安全保障上の問題から、帯方郡の使節団がこのような船に便乗することはなかったと推測します。船は帯方郡魏國)の公用船であったと考えるのが自然です。
帯方郡の公用船は末盧國に停泊されました。そして伊都國奴國不彌國へと陸行して、不彌國から投馬國、そして邪馬台國の手前まで再び船で移動するのです。多くの研究者の方は、不彌國から邪馬台國手前までの移動に、どこの船を使ったのか考察をしていないのです。定期航路が存在していたと考えているのでしょうか。

邪馬台國の比定地は、多くの説が主張されています。宇佐市西都市出雲市奈良市、などなど。不彌國のある北部九州から外洋を航海に出るとします。周防灘を通って宇佐市へ、さらに豊後水道を南下して日向灘へ行く。あるいは日本海を北上して出雲丹後に行く。もしくは瀬戸内海を東上して大阪湾に至る。
当時はいずれのルートも、定期航路は無かったと推定します。帯方郡から乗船してきた船は末盧國に停泊しました。不彌國から再び外洋を移動するにあたり、どこの船を使ったかを説明していないのです。外洋を移動するのであれば、帯方郡から乗船してきた郡の公用船を再び使うと考えるのが合理的です。安全保障上の問題から、倭人の貿易船、漁船に便乗したり、あるいは倭人の御用船に乗船はしなかったと推測します。
との戦乱状態にあったのです。欺瞞、謀略、裏切り、寝返り、闇討ちなどなどを熟知していたし、また恐れていたはずなのです。帯方郡太守、弓遵の命を受けて、詔書・印綬を下賜するため邪馬台國を参詣する梯儁帯方郡の使節団は、十分に用心していたはずなのです。

しかし一旦末盧國帯方郡の公用船を停泊して陸行し、不彌國から再び帯方郡の公用船に乗船して、外洋を航海する行程は不自然です。何故なら末盧國から不彌國へ陸行する必然性がないからです。一大國から直接不彌國に上陸して休泊し、そこから再び外洋を航海すればよいからです。
つまり末盧國に上陸して末盧國伊都國奴國不彌國と陸行し、不彌國から再度 外洋 を航海して邪馬台國へ至るルートを主張する説には無理があるのです。船の問題を論理的に説明出来ていないからです。

帯方郡の使節団(官僚)は、威信を示した黄幢ナショナルフラッグ)を掲げた帯方郡魏國)の公用船を、倭人の都の邪馬台國に可能な限り近づけたはずなのです。末盧國邪馬台國外洋の最前線であったので、この地に黄幢を掲げた帯方郡の公用船を停泊したのだと考えます。そして末盧國から不彌國まで陸行します。不彌國からの船の移動には、末盧國に停泊した帯方郡の公用船は必要なかったのです。それは不彌國からは、内陸宝満川を川下りをするから外洋船は必要ないのです。

詳しくは以前の記事に記述しましたのでご参照ください。

31.水行20日 水行10日 陸行1月は何里なのか
http://katsi.blog.fc2.com/blog-entry-32.html



別の観点から、語呂合わせで比定した唐津末盧國)から糸島(伊都國)まで、果たして陸行したのかを考察します。

この時代は港湾、河川は自然のままで、現在のようにコンクリートなどで護岸工事はされていなかったと推測します。海岸は潮が引けば砂浜が現れ、潮が満ちれば砂浜は海水に浸るのです。遠浅の砂浜が広がる場所は船を停泊するには適していません。
唐津は、松浦川波多川(現在の徳須恵川)が流れ込む河口地域で、河口には砂が堆積した砂洲である虹の松原があります。唐津湾の干満の潮位の差は、新月・満月の時期は2mになります。虹の松原の海岸は遠浅で船を停泊するには不向きです。
この周辺で船を停泊するに適しているのは、神功皇后三韓征伐のときに皇軍出帆の基地であったとされる、さらに豊臣秀吉による朝鮮出陣の本営地として利用された唐津港付近が停泊地としては適しています。
また、豊臣秀吉朝鮮出陣の際の前線拠点となった名護屋城のあった呼子末盧國と比定する研究者の方もいます。
さて地図で唐津港呼子糸島を見てみましょう。

唐津湾

唐津湾付近は干満の潮位の差が2mはあります。護岸工事がなされていなかった当時、海抜3m以下の場所は海で、干潮時は砂浜が現れますが、満潮時には海水に浸ったと思われます。海抜3m以下のところは、陸行が出来る場所ではないのです。Flood Mapを+3mとしてみてみましょう。

唐津湾0m


唐津湾+3m


糸島半島は、3m海抜が高くなると半島ではなく島となります。古代糸島は島であったと推測されます。
このような唐津湾から糸島に至る地形で、唐津湾から糸島市へ陸行するのは困難なのです。唐津港に寄港したとしても、糸島市へ移動するなら船で移動するのが合理的と思われます。

さらに地図を見ると唐津湾から糸島市への道程は、JR浜崎駅から鹿屋駅福吉駅筑前深江駅まで、山が海岸線まで迫っています。江戸時代には、この区間に唐津街道が整備されました。しかしこの唐津街道浜崎から福吉の間は、海岸沿いにある現在の国道202号線のあたりではなく、もっと山側にあり、現在この区間の唐津街道は通行出来なくなっています。現在は使用出来ないほど険しい道であったと推測できます。参勤交代の際、唐津城を拠点とした唐津藩は、おそらく唐津城のある唐津港からJR筑前前原駅あたりまで、陸行せずに船で移動したのではと推測します。

このような地形で唐津港にあえて船を停泊し、陸路険しい道程を経て、再度海辺糸島市へ陸行する行程は疑問なのです。

浜崎から 

浜崎から1 



末盧國伊都國の比定地は、語呂合わせだけでなく、文献と地形を十分に考察した検討がなされるべきだと思います。

一大國から博多湾を目指す場合、帯方郡の公用船を停泊するに適した場所はどこなのでしょうか。Flood Mapで海抜+3mで博多湾を見てみます。室見川より東側は海岸線が水没してしまいます。このあたりは砂浜が広がり船を停泊するには適していません。一方能古島の南の今津湾は水深が深く、船を停泊するに適していることが分かります。


これらの考察より、今津湾JR今宿駅あたりが末盧國の比定地であると憶測するのです。

博多湾+3m


(つづく)
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47.扶桑國(その4)

さて、再び扶桑國の比定地の考察に戻ります。

通典の以下の記述を考察します。

扶桑國復在 倭國之東 約去中國三萬里

3.三萬里何km

約去中國三萬里の一文は、通典邊防第一巻の序伝の冒頭に記述されています。
冒頭を最初から抜粋しました。
通典邊防第一巻は、以下を参照しました。

中國哲學書電子化計劃
http://ctext.org/tongdian/185/zh

覆載之內 日月所臨 華夏居土中 生物受氣正
李淳風云 談天者八家 其七家 甘氏 石氏 渾天之類 
以度數推之 則華夏居天地之中也 
又歷代史 倭國一名日本 在中國直東
扶桑國 復在倭國之東 約去中國三萬里 蓋近於日出處 
貞觀中 骨利幹國獻馬 使云 其國在京師西北二萬餘里 
夜短晝長 從天色暝時煮羊胛 纔熟而東方已曙 蓋近於日入處

天が覆い地が載せる万物の内で 太陽と月が臨むところの 
華夏(中國)が居す(支配する)大地の中で 生物は精気を正しく受ける
李淳風が云うには 天文を談ずる者は8流派あり 
その7流派は 甘氏 石氏 など渾天説の類である
度数(目盛)を以って推し測ると 華夏(中國)は天地の中心にある
また歴代史によると 倭國 もう一つの名 日本は 中國の真東にある
また扶桑國倭國の東にある 中國から約3万里である 
日の出るところの天蓋(天と地の境界)に近い
貞觀の時代(648年)に 骨利幹國が馬を献上した 
使者が云うには その國は 京師(長安)の西北2万里にある
夜が短く昼が長い 羊の肩肉を暗くなってから煮込むと 熟した頃にはもう東の方が曙になる
日の入るところの天蓋(天と地の境界)に近い

通典邊防の序列には以下のことが記述されています。

天体は渾天説で成り立っている。
推測すると華夏中國)は真ん中に位置する。
日の昇る天蓋の近くに扶桑國があり、中國の国境から3万里にある。
日の沈む天蓋の近くに骨利幹國があり、京師(長安)から2万里にある。
中國の真東に倭國があり、その倭國の東に扶桑國がある。

扶桑國は、倭國から3万里以内1-2万里?にあると記述されているのです。
扶桑國倭國からそれほど遠くないところ、つまり日本列島にあったと考えられるのです。


ここでの、3万里2万里は、同じ1里=△△kmの基準で記述されているでしょうか。

骨利幹國およびその周辺國が記述されている、通典の邊防第十五巻北狄六伝、および邊防第十六巻北狄七伝を考察することにより、京師(長安)の西北にある骨利幹國の記述の2万里は、里=何kmの基準を元にしているのか推定することが可能なのです。

詳細は、次回に記述させていただきます。



(つづく)
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