畿内説、九州説、百花乱立の邪馬壹國の比定地 過去の考古学、民俗学の定説に囚われ過ぎているのか プロの歴史学者も、アマチュアの歴史愛好家も 迷宮を彷徨う 魏志倭人伝の呪縛の29文字 南至投馬國 水行二十曰 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 もし、二十日 十日 一月の記述が無かったならどうだろう 2015年、今、邪馬壹國の比定をGoogle Mapsから試みた


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44.倭國の都

扶桑國の比定地の考察を通典を元に行います。通典の修史は801年で、紀元前2500年頃からの時代の750年が編纂されています。桓武天皇が都を長岡京から平安京に遷都した時代に編纂されいます。エジプトではクフ王のピラミッドが建設され、日本では三内丸山遺跡が建設された紀元前2500年頃から、都が平城京にあった奈良時代の750年頃までのことが、中国の法令制度を中心に記述されています。また、周辺国に関する記述は、邊防の全16巻にまとめられています。

通典邊防の第一巻の序列に、扶桑國に関する下の記述があります。

倭國一名日本在 中國直東
扶桑國復在 倭國之東 約去中國三萬里 蓋近於日出處

倭國、もう一つの名、日本は、中國の真東にある。
扶桑國倭國の東にある。中國から約3万里である。日の出るところである天蓋(天と地の境界)に近い。

1.倭國はどこにあったか
2.去中國の中國の起点はどこか、
3.そして三萬里は何kmか

これらが分かれば、扶桑國の比定地を特定することが出来ます。これを考察していきます。

1.倭國はどこにあったのか

邊防第一巻にある倭伝の中の記述は以下です。

其王理邪馬臺國 或云邪摩堆 去遼東萬二千里 在百濟 新羅東南

其の倭國の王は、遼東を一萬二千里離れた邪馬臺國、ある者は邪摩堆と云う、をおさめる。邪馬臺國は、百濟・新羅東南に在る。

邪馬臺國は、百濟・新羅東南に在ると記述されています。
去遼東萬二千里は、あとで考察することにします。
百済の都は、時代ともに変遷し、の時代の475年までは漢城(ソウル)に、475年からの時代の538年までは熊津(忠清南道公州市)に、そして滅亡するの時代の660年までは、泗沘(忠清南道扶餘郡)にありました。
一方新羅の都は、慶州にありました。
地図で百濟・新羅東南を見てみましょう。

漢城1

熊津1

泗沘1

慶州1

東南の範囲を東南東から南南東とすると、福岡県、熊本県、大分県、宮崎県、山口県、愛媛県、高知県が該当することになります。広島県以東は該当しないことになります。

通典の記述によれば、750年頃まで倭國の王が理した邪馬臺國は、依然として九州にあった可能性が高いことが分かります。

三国志魏志倭人伝の記述より、邪馬壹國は、福岡県八女市にあったと比定しました。この邪馬壹國は、変遷したのかどうかを歴代の史書より考察してみます。

以下のサイトを参照し、歴代の史書の倭國に関する記述をまとめました。

中國哲學書電子化計劃
http://ctext.org/zh



歴代の史書が記述する倭國

歴史書
記述年
(編纂)
(修史年)
倭の所在地 倭の都に関する記述
前漢書
紀元前206年
ー23年
(班固、班昭)
( 89年)
樂浪海中有倭人


後漢書          
    6-189年
(范蔚宗 )
 (445年)
倭在韓東南大海中 其大倭王
居邪馬臺國

建武中元二年
(57年)
倭奴國奉貢朝賀 

倭國之極南界也

桓靈閒
(146-189年)
倭國大亂
更相攻伐歷年無主

有一女子名曰卑彌呼
於是共立為王
三国志
  184-265年
(陳寿)
 (280年)
倭人在帶方東南大海之中 邪馬壹國
女王之所都

景初二年六月
(238年)
倭女王遣大夫難升米等詣郡
晉書
 265ー420年
(房玄齢ほか)
 (648年)
倭人在帶方東南大海中
宋書  
 420-479年
(沈約)
  (487年)
倭國在高驪東南大海中
南斉書
  479-520年
(蕭子顕)
  (520-537年)
倭國在帶方東南大海島中 漢末以來立女王
梁書  
 520-557年
(姚思廉)
  (629年)
祁馬臺國
即倭王所居
北史            
  386ー618年
(李延壽)
  (659年)
倭國在百濟新羅東南

水陸三千里於大海中
居於邪摩堆
則魏志所謂邪馬臺者也

邪馬臺國即俀王所都 
 
其王與世清
(608年)
來貢方物 此後遂絶
南史  
 439ー589年
(李延壽)
 (659年)
倭國 
其先所出及所在 
事詳北史
隋書  
 581-618年 
(魏徴)
 (656年)
倭國在百濟新羅東南

水陸三千里於大海之中
都於邪靡堆
則魏志所謂邪馬臺者也 

復令使者隨清來貢方物(608年)
此後遂絶
通典
 紀元前2500年-750年  
(杜佑)
(801年)

在百濟新羅東南
倭國一名日本
其王理邪馬臺國 
或云邪摩堆
旧唐書
 618ー907年
(劉昫)
 (945年)
倭國者古倭奴國也

在新羅東南大海中


日本國者佞國之種也
貞觀五年(631年)
遣使獻方物

至二十二年(648年)
又附新羅奉表 以通起居

或云日本舊小國併倭國之地


前漢書(89年修史)から旧唐書(945年修史)までを見てみると、倭人倭國は、半島の東南に在ったと記述されています。
興味深いのが後漢書(445年修史)に、建武中元二年(57年)に奉貢朝賀があり倭奴國倭國の南端の境界地にあったと記述されていることです。

魏志倭人伝(280年修史)に、以下の記述があります。
女王國からそれより北は、國々の家の数、距離、方向は容易に記述することが出来る。その他の國は遠く離れていて、詳しいことは分からない。

邪馬壹國は、女王國の極南界にあったのです。これは倭奴國と同じ位置です。邪馬壹國の前身が倭奴國ではと憶測します。

後漢書(445年修史)には以下の記述があります。
桓帝・霊帝の時代(146-189年)に倭國は大乱して王が不在であった。
その後、卑彌呼を王として共立した。
倭王の居住地は邪馬臺國である。

卑彌呼を王とした時に、倭奴國の名前を邪馬壹國に変えて、女王の都としたのではと憶測します。

後世の旧唐書(945年修史)に、
倭國の者は、過去は倭奴國の者也と記述されています。
この記述から、元々は、倭國の都の名前は、邪馬壹國、邪摩堆國ではなく、倭奴國だったのではと憶測します。

邪馬壹(臺)國は、後漢末期(189年頃)から魏・晋・宋・斉・梁(557年)まで、倭國王の都であったと歴代の史書に記述されています。この間邪馬壹(臺)國が変遷したことを示す記述は見当たらないのです。

の時代(557-618年)に 北史(659年修史)、随書(656年修史)に記述されているように、邪馬壹(臺)國の名前が邪摩堆國に変わったと推測されます。魏志(280年修史)に言う邪馬臺の所であると記述されているので、邪摩堆國は、邪馬壹(臺)國と同じ場所にあったことが分かります。
しかし、後漢末期(189年頃)からの時代(557年)まで約370年間続いていた都の名前がの時代(557-618年)に変わったのは、何か特別な事情があったのではと思われます。
依然としての時代は、北史(659年修史)、随書(656年修史)の記述から邪摩堆國倭國王の都であったことが窺えます。
の時代(618年~907年となると、史書通典(801年修史)の記述は以下に変わります。
邪馬臺國は、倭國の王の理するところ。
の時代(618年~907年に、邪馬臺國倭國の王の都ではなくなり、王の都は他の地に変遷したことが窺えます。

このことから考察すると、福岡県八女市は、後漢末期からの時代まで、倭奴國、邪馬壹(臺)國、邪摩堆國と名前を変えながらもずっと倭國の都として存在していたと憶測します。
の時代(618年~907年)となって、7世紀始め(618-648年頃)倭國の都は福岡県八女市から別の場所に変遷したと憶測します。

どこに変遷したのでしょうか。
半島から見た倭國の位置は、前漢(紀元前206年)・後漢・三国・晋・宋・斉・梁・隋(~618年)の間、起点の地名は時代により、楽浪・韓・帯方郡・高驪・百濟新羅と推移していますが、一貫して東南の海中にある、と記述されています。
そして、の時代(618年~907年)の史書、通典(801年修史)、旧唐書(945年修史)の記述も、百濟新羅の東南、および新羅の東南と記述されています。倭國の位置は変化していないのです。変遷した倭國の王の都は、依然として倭國のある北部九州の中にあったと憶測します。

通典(845年修史)に記述されている倭國邪摩堆國福岡県八女市)を含む、北部九州地方であったと考察するに至りました。

日本書紀(720年完成)によると神武天皇(在位紀元前660年ー紀元前581年)は45歳の時に、日向国高千穂宮から大和州を目指してに移動を始めました。(神武東征。紀元前615年)

神武東征の672年後、57年、倭奴國に奉貢朝賀します。
倭國の王の都は倭奴國にあり、それは現在の福岡県八女市であった。

2世紀末に、倭國に大亂があり、しばらく王は不在であった。
やがて卑彌呼を王として共立し、倭奴國邪馬壹國と改名された。
238年、卑彌呼難升米を派遣し帯方郡を訪問させた。
邪馬壹(臺)國は、以降の時代(557年)まで、倭國の王の都であった。の時代(581年~618年)に、名前を邪摩堆國と変えたが、引き続き倭國の王の都であった。
の時代(618年~907年)となり倭國の王の都は別の場所に変遷した。
そして旧唐書(945年修史)の648年の記述を最後に倭國の訪中、訪半島の記録は、史書に記述されなくなるのです。
北史(659年修史)、隋書(656年修史)には、608年を最後として、以後途絶えたと記述されています。

別の見方をすれば、7世紀初め(飛鳥時代の初期)までは、倭國は、日本國とは別の國として、北部九州に存在していたのです。

旧唐書(945年修史)に以下の記述があります。

或云 日本舊小國 併倭國之地
ある者が云うことによると、日本は古くは小さな國だったが、
倭國の地を併合した。

併合したのは、(581-618年)の末期~(618-907年)の初期の608年から648年頃だったと憶測します。
これは、飛鳥時代(592-710年)の前半、日本書紀が完成する720年の少し前の頃となります。


次回は、通典に述されている以下の文章を考察します。

中國中國の起点はどこか、
三萬里は何kmか



(つづく)
不定期、週末更新予定

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