畿内説、九州説、百花乱立の邪馬壹國の比定地 過去の考古学、民俗学の定説に囚われ過ぎているのか プロの歴史学者も、アマチュアの歴史愛好家も 迷宮を彷徨う 魏志倭人伝の呪縛の29文字 南至投馬國 水行二十曰 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 もし、二十日 十日 一月の記述が無かったならどうだろう 2015年、今、邪馬壹國の比定をGoogle Mapsから試みた


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34.到伊都國

前回倭地について考察をしました。倭人倭種の國、倭地女王國の関係は以下の図となります。

到伊都國

魏志倭人伝では、が使い分けられています。どちらも、その場所に行き着くの意味です。しかし、到達到着の熟語はありますが、至達至着の熟語はありません。は、ある目的地に辿り着くの意味があると推測します。

魏志倭人伝には2ヶ所の記述があります。

其北岸狗邪韓國

伊都國

其北岸狗邪韓國は、最初の倭人の國である、狗邪韓國に到着したので、ではなくで記述されたものと推測します。
伊都國は、今度は最初の倭地女王國の統轄する國である、伊都國に到着したので、ここでもと記述されたと推測します。
ではなぜ目的地である女王國=邪馬壹國は、邪馬壹國ではなく、邪馬壹國なのでしょうか。
魏志倭人伝は、邪馬壹國の記述ではなく、邪馬壹國を含めた倭人倭地と云っても良いと思いますが)の地誌、史誌です。邪馬壹國とすると、以降の

男子 無大小皆黥面文身

で始まる地理、風俗の記述が倭地のことではなく、邪馬壹國の記述になってしまいます。ここでの記述は、邪馬壹國なのです。


(つづく)
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35.其北岸狗邪韓國

邪馬台國の場所の比定に関して、既存の文献からは新しい発見はない。後は考古学的な発見を待つだけである。と云われる研究者の方がいます。果たして魏志倭人伝の研究は十分行われたのでしょうか。通説を踏襲しただけなのではと思えます。魏志倭人伝に以下の記述があります。

其北岸狗邪韓國

多くの研究者が狗邪韓國は、現在の釜山、あるいは金海と比定しています。そうなのでしょうか。

北岸釜山金海

狗邪韓國は、対馬よりも北側にあることは明らかと云えます。後世、朝鮮半島南部には倭人倭国)が支配した任耶が存在しました。であるので狗邪韓國はその前身である主張されます。この見解は歴史学的考察です。文献学的考察ではありません。
釜山金海朝鮮半島南岸です。魏志倭人伝の記述の北岸とは一致しないのです。文献学的考察をするならば、純粋に北岸の意味を検討しないといけません。北岸の意味は、北側に海がある陸地を指します。大陸、半島、島の北側の海に面した陸地と解釈するのが基本です。ただし地中海北岸琵琶湖北岸の表現をします。この場合は、海、湖を主体として相対的位置を示すので陸地から見れば南岸であっても北岸と記述することがあります。どちらなのかは文章からの解読が必要です。

ここではが何の代名詞なのかを考察する必要があります。

魏志倭人伝は以下の文章で始ります。

倭人在 帶方東南大海之中

その後、以下の狗邪韓國の記述に続きます。

從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東到 北岸狗邪韓國 七千餘里


この文章には、地名の固有名詞が四つあります。郡、倭、韓國、狗邪韓國はこのどれかの代名詞であると考えられます。
は移動の起点を示すがあるので該当しないと考えます。
また、韓國も見て回るの意味のがあるので該当しないと考えます。
が示すのは狗邪韓國のどちらかとなります。

倭人在 帶方東南大海之中

その前の文章で、倭人は大海の中に在ると記述されています。
倭人が海上を支配していたのであれば、北岸は、の支配する海の北の岸であり、を示しているとの解釈も可能です。半島の南岸にある釜山金海が該当します。

海上の倭國

しかし以降の記述では、倭人は大陸を離れた大海の陸地(島)の上の九州にあると記述されています。は海上ではなく陸にあるのです。
つまりを示してるのであれば、の支配している海の北岸ではなくなります。
陸地の北岸が、つまり九州の北岸が狗邪韓國とないます。

陸上の倭國

以降の文章をみてみましょう。

始度一海 千餘里 至對馬國 

対馬との関係から狗邪韓國は、九州北岸でないことが分かります。

北岸狗邪韓國に到着した。これは成りたたないのです。の代名詞ではないのです。

狗邪韓國を指すならどうでしょうか。以下の文をあらためて検討します。

到其北岸狗邪韓國

狗邪韓國北岸に到達した

狗邪韓國が島とするなら、その島の北岸に到着したと解釈することが出来ます。文献学的に考察すると、狗邪韓國は島であり、狗邪韓國の北側の海岸に到着したと解釈するのが妥当です。
この島は対馬の北側となります。地図を眺めると対馬の北側にある島は、巨済島になります。狗邪韓國巨済島であると推測するに至りました。

北岸巨済島


(つづく)
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36.文身國

魏志倭人伝を考察し、邪馬壹國福岡県八女市と比定しました。比定は、以下の二つの仮定に基づきました。

1) 1里=53.3m
2) 水行20日、水行10日、陸行1月は、1日=11.3里

さて、これからは魏志倭人伝を離れて梁書を考察することにします。
梁書の時代の629年に修史され、南北朝時代江南に存在した(502ー557年)に関して記述されています。この梁書卷五十四 列傳第四十八 諸夷東夷諸戎中に、以下の國々の記述が在ります。

高句驪 百濟 新羅
倭 文身國 大漢國 扶桑國

まずはこの中の、文身國大漢國扶桑國を考察していこうと思います。考察にあたり原文は以下を参考とします。

https://zh.wikisource.org/wiki/梁書/卷54#.E6.9D.B1.E5.A4.B7.E8.AB.B8.E6.88.8E

まずは、文身國から始めます。文身國の記述は以下で始ります。

文身國在 倭國東北七千餘里

この文から二つのことを仮定する必要があります。
1)1里は何mか
2)倭國はどこか

まず1)の距離の仮定を行います。
梁書高句驪伝倭伝に、距離を里で記述している箇所がいくつか在ります。それらを精査してみると、その記述全て魏志倭人伝の記述を踏襲していることが分かります。

魏志高句麗伝
 高句麗在 遼東之東千里 
 都於丸都之下 方可二千里


梁書高句驪伝
 其國漢之玄菟郡也 在遼東之東,去遼東千里
 句驪地方可二千里

魏志倭人伝
 又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國
 又渡一海千餘里 至末盧國 
 東南陸行五百里 到伊都國 
 東南至奴國 百里 
 東行至不彌國 百里


梁書倭伝 
 海闊千餘里,名瀚海,至一支國
 又度一海千餘里 名未盧國 
 又東南陸行五百里 至伊都國 
 又東南行百里 至奴國 
 又東行百里 至不彌國


梁書東夷諸戎の1里は、魏志倭人伝の1里と同じ記述に基づいている推測できます。1里=53.3mと仮定します。

次に倭國はどこなのか。以下の記述を考察してみます。

魏志倭人伝
女王四千餘里 又有 裸國 黑齒國復在 其東南 船行一年可至

梁書倭伝
又南 黑齒國 裸國 去四千餘里 船行可一年至

この二つの文の意義は同じと推測します。魏志倭人伝では女王國=邪馬壹國と考察しました。梁書倭伝のここでのは、邪馬壹國であると推測します。
梁書において文身國伝では、倭國と記述され、黑齒國、裸國の記述では倭國ではなくですが、この倭國は同じ意義と推測します。
倭國は、邪馬壹國(比定地八女市)と仮定することにします。

文身國在 倭國東北七千餘里

文身國は、倭國(八女市)の東北7000里(7000x53.3m=373km)にある。

八女市から東北方向373kmの地点を見てみましょう。

7000里1

文身國の比定地の候補として以下の3つが考えられます。

1) 山陰地方
2) 岡山県南部
3) 徳島県東北部

1)山陰地方

出雲

鳥取県米子市を中心として、鳥取県倉吉市島根県松江市出雲市が候補地です。
この地方は、正に邪馬壹國八女市)から東北に位置します。
ただし出雲市八女市からの距離が315kmで、5900里に相当し7000里には少し短い地点となります。

2)岡山県東南部

吉備

 岡山県津山市備前市が距離でちょうど373km7000里)の地点となります。方向は、東北東55~65°の地点で、8方位の東北の範囲を16方位の北北東~東北東(22.5~67.5°)を許容範囲とすると、方位も一致します。

3)徳島県東北部

徳島

 徳島県徳島市阿南市がちょうど距離373km7000里)付近になります。ただし方位は東北東75°で東北の範囲から外れます。

3つの候補地、出雲吉備、そして徳島
いずれも興味深い古代の國です。
いったい文身國の比定地はどこなのでしょう

7000里2


(つづく)
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37.文身國(2)-水銀ー

梁書東夷諸戎に記載されている文身國を比定するには、文身國に記述されている水銀に関して、掘り下げて考察する必要があります。原文は以下を参照としました。

中國哲學書電子化計劃
http://ctext.org/library.pl?if=gb&res=5879


繞屋爲壍 廣一丈 實以水銀 雨則流于水銀之上

家の周りに巾1丈の溝をめぐらせ、水銀で満たした。雨が降る度に水は水銀の上を流れた。

溝に入れた水銀の体積、重量を考察してみます。
家の大きさを10m四方、100m2(平方米)と仮定してみます。それほど広くは在りませんが、狭くない広さです。
丈は長さの単位で、1丈=10尺です。1尺の長さは時代によって異なるようで23-33cmと言われています。ここでは1尺=20cmとして、1丈=2mと仮定してみます。
溝の面積を計算してみます。

100m2

家の面積は、10mx10m=100m2(A)
溝を含めた四角形の面積は、14mx14m=196m2(B)
溝の面積は、(B)-(A)=96m2となります。
この溝に厚さ1cm水銀を敷き詰めたと仮定します。
溝の水銀の体積は、96m2x0.01m=0.96m3(立方米)となります。0.96m3に換算すると960ℓです。これは200ℓのドラム缶約5本分に相当します。
水銀の比重は13.5です。
重量は、0.96m3x13.5=12.96tとなります。
小型自動車(プリウスの車両重量は1.3-1.4t10台分の重量です。
桁違いの量です。文献によると奈良大仏建立時に使用した水銀の量は、約2.3tと記されています。金のメッキに使用すれば、奈良の大仏を6体作れる量なのです。

ドラム5本
プリウス10台
奈良大仏6体

仮定を変えてみます。
家の大きさを半分の5m四方、敷き詰める水銀の厚さも半分の5mmとして計算してみます。

45m2

体積は、(9mx9mー5mx5m)x0.005m=0.28m3(立方米)
重量は、0.28m3x13.5=3.78t
この量でも奈良大仏1体くらいは余裕で、全体に金メッキを付けることが出来る量なのです。

ドラム2本
プリウス3台
奈良大仏1体

文身國の王が権威を誇示するにしては、その量をはるかに超えているように思えます。この水銀は何の目的で溝に敷き詰めたのでしょうか。またどこから持ち運ばれたのでしょうか。

水銀の鉱石は以下です。

1) 辰砂
2) 自然水銀

1)  辰砂硫化水銀からなる鉱石です。硫化水銀は赤色の塊か、深紅色の透明感のある結晶です。

辰砂辰砂結晶

辰砂は産出量がそれほど多くなく、赤色顔料神仙薬(不老不死の薬)の成分として極めて貴重だったようです。同じ赤色顔料のベンガラは産出量が多いのですが、辰砂のほうが鮮やかな赤となります。辰砂自体、金、銀に匹敵するくらい価値があったのでは思われます。
文身國の家の溝に敷き詰めたのは辰砂ではないと推測します。辰砂は粉末、粒状の固体です。これを溝に敷き詰めても、雨水は辰砂の層に浸み込んで、その上を流れることはないのです。敷き詰めたのは金属の水銀だと考えます。

水銀は、辰砂を高温で熱することにより精製されます。

辰砂(硫化水銀 SHg)+ 空気(酸素 O2)
       → 水銀(Hg)+ 亜硫酸ガス(SO2)

硫化水銀は燃やすと、水銀二酸化硫黄(亜硫酸ガス)に分解します。水銀の沸点は約360℃で、それ以上に熱すると気化します。この蒸気を集めて冷却すると、二酸化硫黄は沸点がー10℃なので空気中に拡散してしまい、液状の水銀だけを取り出すことが出来ます。

2) 自然水銀は、液状の水銀が水のように溢れていたり、鉱石に閉じ込められています。採取すれば精製しなくても水銀を得ることが出来ます。

自然水銀

水銀の用途は何だったのでしょうか。

1) 鉱石から金、銀、銅などの精製(アマルガム法)
2) 銅鏡の研磨
3) 神仙薬の成分
4) 金メッキ(アマルガム法)


1) 古代より鉱石から金、銀、銅などを精製するのに、水銀が用いられていました。アマルガム法とよばれるものです。このアマルガム法で用いた水銀は、大部分は回収して再利用することが出来ます。金を1kg精製するのに水銀4-5kg使用したとしても、水銀の大部分は回収して再使用できるのです。また、金、銀を精製するには鉛を用いた灰吹法があります。産出量が多い鉛のほうが安価であり一般的だったのでとは憶測します。この用途での水銀の需要は多くなかったと思われます。

2) 銅鏡を磨いて表面を鏡状にするのに水銀が使用されました。これは水銀の代替品はなく、主用途の一つだったのではと思われます。ただ銅鏡100枚を作成するのに、水銀20-30kgで十分な量であったと思われます。

3) 水銀自体も辰砂と同様、神仙薬の成分としても利用されたと思われます。

4) アマルガム法を利用して銅の造形物に金をメッキする際にも、水銀が用いられました。特に仏教の伝来により、仏像が作られるようになると、銅製の仏像の表面をアマルガム法で金メッキして装飾を施すのに多くの水銀が使われ、需要が増えたと思われます。

金メッキの工程は以下です。

金を平たく延ばし、細かく刻む。
これを6倍量の水銀に加えて炭火で熱すると、金が水銀に溶けて水銀アマルガムが出来る。
これを皮に包んで絞ると水銀がろ過され、皮に金/水銀=1/2アマルガムが残る。
被メッキ物の銅製品の表面に、このアマルガムを塗布する。
塗布物を鉄板の上に置き、加熱すると水銀が蒸発して金メッキされる。
蒸気は一箇所に集めて煙突から飛散させる。
煙突の先を曲げてその下に受けを置くと、受けに水銀が溜まり回収することが出来る。

十分な回収装置があれば、金メッキに使用する水銀のほとんどは、回収して再利用できるのです。

最初の奈良大仏は、銅像の上に金メッキが装飾されました。文献では大仏建立に、金10、400両水銀58、600両が使用されたと記されています。1両40gで計算すると
金  10、400x0.04kg=416kg
水銀 58,600x0.04kg=2344kg=2.3t
となります。
金と水銀の比率は、金/水銀=1/5です。この比率は、金を水銀に溶かしたアマルガムをろ過せず銅製品に塗布し、さらに加熱して蒸発させた水銀も煙突で受けて回収せず、そのまま大気に飛散させていたことを意味します。製作場所の大気、土壌、水質の環境汚染は深刻だったと思われます。後年、水銀アマルガム法による金メッキは廃れ、金箔を表面に装飾する方法に変わっていきます。

さて、文身國の溝に敷き詰められた約13t水銀の考察に戻ります。

この水銀は、外部から運ばれてきたのではないと憶測します。水銀は、銅、錫、鉄などよりも産出量が少なく、金、銀ほどではないにしても高価であったと思われます。1度に13tを調達するのは困難です。少しずつ調達したなら、運搬容器の土器に入れたまま保管するのが自然です。わざわざ長年掛けて、少しずつ溝に敷き詰めたりはしないと思うからです。

この水銀は、文身國で産出されたものと憶測します。また水銀辰砂から精製されたものではなく、自然水銀から採取したものであると憶測します。

辰砂はそれ自体で、赤色顔料神仙薬としての需要があったのです。また、金銀の精製、金メッキに使う場合、その加工地域には辰砂から水銀を精製する高温加熱設備が備わっています。辰砂のままのほうが運搬も容易で、水銀よりは安価であったと思われるので、加工地域は水銀よりも辰砂を求めたと思います。水銀の需要量はそれほど多くなかったのです。辰砂から水銀13tも精製して、何年分もの在庫を抱えたりはしなかったと思います。需要分だけ精製するば良いはずです。

文身國からは自然水銀が産出されたと憶測します。

鉱山の自然水銀を放置はしないはずです。水のように湧き出していたのであれば、採取は容易です。山から集められた水銀は王の元に届きます。しかし水銀の需要は多くないのです。集められた水銀は、家の周りに掘った溝に貯めて、保管したのだと憶測します。水銀を敷き詰めた溝は、水銀の製品倉庫であったと考えます。

つまり、文身國自然水銀の産地であったと憶測するに至りました。



(つづく)
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