畿内説、九州説、百花乱立の邪馬壹國の比定地 過去の考古学、民俗学の定説に囚われ過ぎているのか プロの歴史学者も、アマチュアの歴史愛好家も 迷宮を彷徨う 魏志倭人伝の呪縛の29文字 南至投馬國 水行二十曰 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 もし、二十日 十日 一月の記述が無かったならどうだろう 2015年、今、邪馬壹國の比定をGoogle Mapsから試みた


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32.呪縛

文献を解読する中で、不審な点があれば仮説を立てそれを検証することが必要です。

魏志倭人伝を解読して、邪馬壹國の比定地を特定しようとすると、水行20日、水行10日、陸行1月に呪縛されてしまうのです。時間の単位ではなく距離の単位であると識見することにより、呪縛から開放されます。日と里の換算値は、魏志倭人伝そのものに記載されているのです。

 去女王 四千餘里 
 又有 裸國 黑齒國 復在其東南 船行一年可至


この記述から4000里=1年(=354日)(1日=11.3里)であることが分かるのです。1年=354日とした根拠は、前回の記事31.水行20日 水行10日 陸行1月は何里なのかをご参照ください。以前の記事 20.「里」と「日」の換算に記載しましたが、4000里=1年の記述は、魏志倭人伝だけに限らないのです。

梁書倭國伝
 其南 有侏儒國 人長三四尺
 又南 黒齒國 裸國 去倭四千餘里 船行可一年至


南史倭國伝
 其南 有侏儒國 人長四尺 
 又南 有黒齒國 裸國 去倭四千餘里 船行可一年至


ただし、以下の文献の記述は異なっています。

後漢書倭伝
 自女王國南 四千餘里 至朱儒國 人長三四尺 
 自朱儒 東南行船一年 至裸國 黒齒國 


通典倭國伝
 又千餘里 至侏儒國 人長三四尺 
 自侏儒 東南行船行一年 至裸國 黒齒國


ここではそれぞれの文献の真偽には触れませんが、魏志倭人伝の記述から4000里=1年と仮定するのは、決して奇矯とは云えないのです。

さて、距離の単位であることは、隋書倭國伝の以下にも記述されています。

 夷人 不知里數 但計以日

夷人(倭人)は、里を単位として数えることを知らない。
しかしその代わりに、日をある一定の基準に基づいた単位として、
距離を正確に計測している。」

この文をこのように訳した見解は、前回の記事31.水行20日 水行10日 陸行1月は何里なのかをご参照ください。

通説では、以下のように訳します。

夷人(倭人)は里數を知らず、但だ日を以って計る。」

これは明らかに中国語の誤訳です。このように訳してしまうと文章として意味を成さないのです。一連の文章は以下です。

 魏時譯通中 國三十餘國 皆自稱王
 夷人不知里數 但計以日 
 其國境 東西五月行 南北三月行 各至於海


夷人(倭人)は、距離を計測するすべを知らない。1日の移動距離でいい加減に距離を捉えている、との意味で記述したのであれば、5月、3月は時間の単位であることは共有認識なので、夷人(倭人)が、里を知っていても、知らなくても、夷人 不知里數 但計以日の一文は無くていいのです。脈絡の無い、無意味な文です。以下の文章で十分意味を成すのです。

 魏時譯通中 國三十餘國 皆自稱王
 其國境 東西五月行 南北三月行 各至於海


また、夷人 不知里數 但計以日の一文が無くても隋書倭國伝の他の記述へは一切影響を与えないのです。

五月、三月は当時の魏國では時間の単位として認識されていました。しかし夷人(倭人)は月(日)を距離の単位としていた。なので、月(日)は時間の単位ではなく、距離の単位であることを説明するため「夷人不知里數 但計以日」の一文はどうしても必要で、注釈として記述したのだと推測します。

多くの研究者は「夷人不知里數 但計以日」を前後の文との関連を考慮せず、独立した文として解読しています。ですので誤訳してしまうのでしょう。文献を解読するには、一文一文前後の関連を慎重に考慮して、吟味する必要があるのです。

梁書倭國伝にも、距離の単位であることを示す以下の記述があります。

從帯方至倭 循海水行 
歴韓國 乍東乍南 七千餘里
始度一海 
海闊千餘里 名瀚海 至一支國
又度一海千餘里 名未盧國 
又東南陸行五百里 至伊都國 
又東南行百里 至奴國 
又東行百里 至不彌國 
又南水行二十日 至投馬國 
又南水行十日 陸行一月日 至祁馬臺國 即倭王所居

陸行一月日一月となっている点です。時間の単位であれば一月日は不自然では不要です。しかし、距離の単位であるので、これを明瞭にするにはは必要で、意図的に一月日と記述したと推測します。

余談ですが、魏志倭人伝に記述されている帯方郡から邪馬壹國までの行程は、7世紀に上記の通り連続であると梁書倭國伝に記述されているにも関わらず、現代に於いて放射説を唱える研究者の方がいらっしゃいます。自らの勉強不足を吹聴しているのでしょうか。

隋書倭國伝の以下の記述を考察してみます。
 
其國境 東西五月行 南北三月行 各至於海

その国(邪馬壹國)の際目を起点として、東に5月、西に5月、南に3月、北に3月行くとそれぞれ海に至る

距離の単位と前文に記述があります。5月、3月は距離150日、90日です。図で示すと以下です。
海1

多くの研究者の方々は、この平易な記述を以下のように誤謬しています。

その国(邪馬壹國)の国境は海で、東西を行くと5ヶ月、南北を行くと3ヶ月を要する。

図で示すと以下です。
海2
何故このような誤謬が生まれたかと考えると、國の大きさの識見が誤っているからです。当時の國の大きさは、現在の町か村程度の大きさで5-10km四方であったと憶測します。國の大きさを、戦国時代の各大名の領土と同程度と誤想しているのでしょう。

以下の記述の解読に立ち戻り考察してみます。

其國境 東西五月行 南北三月行 各至於海

5月3月距離です。1日11.3里と仮定しました。また1里53.3mと仮定しました。1日53.311.3602mになります。
5月=11.3里x150日=53.3mx11.3x15090km
3月=11.3里x90日=53.3mx11.3x9054km
となります。

以前19.1日=11里(586m)の考察に記述しましたが、このときは邪馬壹國の國の大きさを考慮しませんでしたので、再度考察します。
邪馬壹國の大きさを5km四方と憶測します。
この5kmを加えて東西185km(5km+90km+90km)、南北113km(5km+54km+54km)の楕円を日本列島に当てはめてみます。
日本列島

90km、西90km行くとそれぞれ海に到達する地点は、全国でも限られていて、福岡県筑後地域山口県山防地区北部高知県嶺北地域青森県と秋田県の県境の十和田湖北海道名寄市の5箇所になります。図に示した奈良県は該当しません。
この中で54km、54km行くとそれぞれ海に到達するに最も近いのは、福岡県筑後地域だけです。他の4箇所は、54kmよりだいぶ短いか、もしく海は、はるか遠くになります。
隋書倭國伝は次の記述が続きます。

其地勢 東高西下

その地形は東が高く、西に行くほど低くなる。

これは、東に津江山地、西に有明海を有する、正に福岡県筑後地域を記述したものに他ならないのです。

八女市


==隋書倭國伝==
夷人 不知里數 但計以日
其國境 東西五月行 南北三月行 各至於海
其地勢 東高西下





(つづく)
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33.周旋5000里

水行20日、水行10日、陸行月は移動に要した日数(時間)ではなく、1日=11.3里の基準に基づく距離であることを前回考察しました。今回は、邪馬壹國大きさ(面積)を考察してみます。これは魏志倭人伝の記述から解読することが出来ます。

邪馬壹國

まずは、邪馬壹國の定義づけを考察してみます。邪馬壹國魏志倭人伝に記されているのは以下の一文だけです。

南至邪馬壹國 女王之所都

南に行くと邪馬壹國に辿り着く。女王の居住する都である。

女王とは、倭女王卑彌呼と考えて問題ないと推測します。

(1) 邪馬壹國 ⊃ 女王卑彌呼の居住邸宅 です。

居住区

女王國

魏志倭人伝には、女王國の記述が5ヶ所あります。

世有王 皆統屬女王國*1
女王國以北 其戶數道里可得略載 其餘旁國遠絕 不可得詳*2
自郡至女王國 萬二千餘里*3
女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國*4
女王國東 渡海千餘里、復有國、皆倭種*5

この女王國邪馬壹國との集合の関係を考察してみます。

女王國以北、其戶數道里可得略載 其餘旁國遠絕 不可得詳*2

女王國からそれより北は、國々の家の数、距離、方向は容易に記述することが出来る。その他の國は遠く離れていて、詳しいことは分からない。

このあと以下の文章が続きます。

次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、
次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、
次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、
次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、
次有奴國。
此女王境界所盡


ここに記述されている21カ國は、~からを意味する前置詞がついているので、女王國の外側にあったことが分かります。
女王國と21カ國の集合の関係は以下です。

(2) 女王國 ∩ 21カ國 = Φ (空集合)

女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國*4

女王國からそれより北に、特別に一大率を置き諸國を検察した。諸国は一大率を畏敬した。一大卒は常に伊都國を支配した。

ここでもと記述されているので、伊都國女王國の外側にあり集合の関係は以下です。

(3) 女王國伊都國 = Φ (空集合)

女王國

では、魏志倭人伝に記述されている以下の國は、女王國に含まれていたのでしょうか。

狗邪韓國 對海國 一大國 末盧國 奴國 不彌國
投馬國 邪馬壹國 狗奴國 侏儒國 裸國 黑齒國


まず狗奴國は女王の集団に加わっていないと記述されているので、女王國には含まれていなかったと推測します。
また、侏儒國 裸國 黑齒國は、女王國から少し離れた場所にあると記述されているので、これらも含まれていなかったと推測します。
狗邪韓國 對海國 一大國 末盧國は、伊都國より北西にあり、伊都國女王國に含まれていないので、これらも含まれていなかったと推測します。
奴國は21カ國の中に記述されていますので、これも含まれていなかったと推測します。
では、不彌國 投馬國 邪馬壹國はどうだったのでしょうか。

國々

各國の位置関係を上図に示しました。女王國の北側以外の國々は遠く離れていていました。伊都國女王國の間には、奴國を含めた近隣國21カ國があます。このことから女王國は、近隣國の南端にあったと推測できます。このことから考えると、女王國=邪馬壹國であり、不彌國 投馬國奴國同様近隣國で、女王國には含まれていなかったと仮説するに至りました。

(4) 女王國邪馬壹國 ⊃ 女王卑彌呼の居住邸宅

女王國=邪馬壹國

ここで仮説しました女王國=邪馬壹國を考察してみます。
魏志倭人伝女王國と記述されているその他の文章をみてみます。

世有王 皆統屬女王國*1

代々王がいて全て統制の元、女王國に従属していた。

自郡至女王國 萬二千餘里*3

帯方郡から女王國へ至るには12000里あまりである。

女王國東 渡海千餘里 復有國 皆*5

女王國の東から1000里あまり海を渡ると、また國々があり全て倭人種の國である。

これらの記述より女王國=邪馬壹國であることを確実にすることは出来ません。しかながら*1、*3、*5の文章は女王國=邪馬壹國であっても支障はありません。女王國=邪馬壹國との仮説は不合理でないとことが分かります。

女王國の統轄地

邪馬壹國=女王國と仮定しました。邪馬壹國大きさ(面積)を考察する前に、女王國(邪馬壹國)が統轄していた國々を考察してみます。女王國はどの範囲の國を統轄していたのでしょうか。以下の記述を考察します。

次有奴國 此女王境界所盡

次に奴國があり、この女王の統轄する境界のところが終わる。

女王國の外側にある、斯馬國から奴國の21カ國は、女王國が統轄していたと推測します。一大率を置いた伊都國女王國の統轄下であったと推測します。伊都國、奴國女王國の統轄下なので、地勢的に見て近隣の不彌國 投馬國も統轄下であると推測します。一方、統轄する境界が奴國であることからすると、その北西にある狗邪韓國 對海國 一大國 末盧國女王國の統轄外であったと憶測します。以上のことより女王國(邪馬壹國)が統轄した國は、奴國を含めた21カ國と伊都國、不彌國 投馬國の3カ國を加えた24カ國であり、邪馬壹國を含めて25カ國であったと憶測します。

倭地

倭人在帶方東南 大海之中

 で始まる魏志倭人伝

自郡至女王國 萬二千餘里

までの記述で、帯方郡から女王國(邪馬壹國)までの道程、女王國の統轄した國が記述されています。その後は以下の文書が続き、地理、風俗が記述されています。

男子 無大小皆黥面文身

ここで記述された地理、風俗はどの國々なのでしょうか。ここでの地理、風俗には對海國 一大國 末盧國は含まれていないと推測します。なぜなら對海國 一大國 末盧國の地理、風俗は前の文章で簡易ですが、既に記述されているからです。

所居絕島~乖船南北巿糴
多竹木叢林~亦南北巿糴
濱山海居~水無深淺皆沈沒取之

對海國 一大國 末盧國の地理、風俗の記述です。
一方、伊都國、奴國、不彌國、投馬國の個別の地理、風俗の記述はないのです。「男子 無大小皆黥面文身」からの記述は、伊都國以南の女王國の統轄した25カ國の地理、風俗が記述されていると推測します。
さて、この女王國が管轄した25カ國の地理、風俗の記述の文章に以下の一文があります。

倭地溫暖

この倭地の意義は何なのでしょうか。これは對海國 一大國 末盧國を除いた伊都國以南の女王國が統轄した邪馬壹國を含めた25カ國の総称の意義で表現されたと推測します。この見解を以下の図に示しました。

倭地

この推測した前提を元に次の記述を考察してみます。

參問 倭地絕在海中洲島之上 或絕或連 周旋可五千餘里

尋ね照らし合わせると、倭地は、大陸から隔たった海の中の大きな島の上にあり、或るところは隔たり、或るところは連なっている。周囲を一回りすると5000里あまりである。

絶在の意味は、隔たったところにあるです。どこから隔たっているかと云えば、魏國のある大陸からです。また州島の意味は、大きな島です。九州を記述していると推測します。

邪馬壹國大きさ(面積)

倭地の意義は、上で考察したとおり女王國が統轄した國々と推測します。倭地には25カ国があり、その一つが邪馬壹國です。倭地は周囲5000里と記述されています。このことから邪馬壹國大きさ(面積)を求めることが出来ます。では、それを考察してみます。

倭地が四角形で25カ國が同じ大きさであり、一例として下のような図であったとすると、1つの國の大きさは、縦240里(=12.8km)、横260里13.9km)になります。

四角形

実際の倭地の地形は四角形ではなく、凸凹があったのではと思われます。一例として倭地が下の図のように凸凹であったとします。この図も周囲は5000里で変わりはありませんが、國々の大きさが同じとすると17カ國になってしまいます。この凸凹した図形に25カ國が収まらないといけないので、一つ一つの國の大きさは、下の黄色い四角形より小さくなります。

凸凹

倭地の地形が上図の図形であった場合、一つの國の大きさはどれくらい小さくなるでしょか。
240里(=12.8km)、横173里9.3km)の四角形を上の図に並べてみると、うまく25カ國が並び下の図になります。

25カ国

この例の通り、各國が同じ大きさで1國が四角形であるとすると、その大きさは、173里9.3km)x240里12.8km)の四角形となります。

倭地はあるところは連なり、或るところは隔たっているとの記述があります。実際には、河川、山地などがあり、1國の大きさは、上の図の四角形よりも小さかったのかもしれません。
このことを踏まえると、25カ國の一つである邪馬壹國(女王國)は、
概ね188里10km)四方程度であったのではと憶測します。
面積にすると100km平米となります。

100km平米は、以下と同程度です。

東京JR山手線の内側
大阪市淀川大和川に囲まれた地域 (淀川区、東淀川区、西淀川区を除いた大阪市
福岡市福岡都市高速環状線の内側

東京都伊豆大島
福島県猪苗代湖
鹿児島桜島

邪馬壹國の版図を地図に示すと以下です。
 
邪馬壹國の版図


魏志倭人伝を精読することにより、邪馬壹國大きさ(面積)を解読することが出来ます。

今回、倭地の意義について考察しましたが、この魏志倭人伝には倭國の表現もあります。この倭國女王國倭地の関係はいずれ考察してみたいと思います。


(つづく)
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