畿内説、九州説、百花乱立の邪馬壹國の比定地 過去の考古学、民俗学の定説に囚われ過ぎているのか プロの歴史学者も、アマチュアの歴史愛好家も 迷宮を彷徨う 魏志倭人伝の呪縛の29文字 南至投馬國 水行二十曰 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 もし、二十日 十日 一月の記述が無かったならどうだろう 2015年、今、邪馬壹國の比定をGoogle Mapsから試みた


スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

30.方位

魏志倭人伝の方位は、北極を北とする地軸(子午線)に基づくと仮定するに至りました。それでは魏志倭人伝の記述されている方位と地軸を基準とした方位との相違を検証いていきます。検証のためには、起点地を比定する必要があります。

1.帯方郡から邪馬壹國

倭人在帶方東南

帯方郡郡治東南(135°)倭人(邪馬壹國)があると記述されています。それぞれの比定地は、以下としました。

帯方郡 開城市
邪馬壹國 八女市役所


開城市から八女市を見てみると、ほぼ東南144°の方位となります。正確には-9°のずれがあります。ただし、魏志倭人伝の記述は、8方位です。±22.5°のずれは許容差の範囲です。

2.比定地の訂正

これまで、各國の国邑を比定してきましたが、今回、方位を検証してみて、記述と地軸を基準とする方位とのずれが20°以上ある箇所が4ヶ所ありました。これらは、比定地を見直す必要があることが分かりました。

2-1 對海國、一大國

 對海國一大國は、それぞれ、対馬市厳原町壱岐市郷ノ浦町と比定しました。しかし、厳原町から郷ノ浦町の方位は、東南(144°)の方位で、記述の南(180°)との相違が36°で、方位が合致しません。そこで以下のように比定地を訂正します。

 對海國 対馬市比田勝町
 一大國 壱岐市勝本町


方位は南南東(163°)となり、南(180°)の記述との相違が17°となり許容差の範囲となります。これまで對海國一大國の方位には、疑問を持っていましたが、これは比定地が正しくなかったと憶測します。
魏志倭人伝に記述されている方位は、地軸に基づく方位である仮定することにより、どこを基点、終点として記述されたのかが鮮明になってくるのです。

方位1


2-2 末廬國

一大國から末廬國へ、魏国の使節団はどのように移動したのでしょうか。現在、フェリーの定期路線は、郷ノ浦港→博多港芹辺港→博多港印通寺港→唐津港の3路線があります。しかし当時、客船の定期路線便はなかったと憶測します。
漁師の漁船、あるいは、行商に出かける島民の小船などをチャーターしたのでしょうか。安全保障の観点から、漁師、島民の船を利用することは無かったと憶測します。
帯方郡から狗邪韓國對海國一大國末廬國へは全て、の使節団の専用船で移動したと憶測します。

帆船 帆船2

末廬國到着後は、この専用船を適切な場所に停泊して、陸行水行をしたと憶測します。従って末廬國は、魏国の専用船を長期間停泊させるに適した場所であったと憶測します。
ではどこに専用船を停泊させたのでしょうか。博多湾が、邪馬壹国への最短経路です。博多湾、特に能古島より東は、現在でも室見川樋井川那珂川御笠川宇美川多々良川など、2級河川が11水系、準用河川が10水系など多くの河川が流れ込む湾です。現在は、河川は堤防工事が施され、定まった水路を川は流れます。また湾岸も整備され大型船が停泊できるようになっています。しかし、河岸、湾岸の堤防、干拓工事が行われたのは、もっと後の時代であったと憶測します。
当時の博多湾の海岸線は、現在の国道202号線あたりではなかったと憶測します。現在よりも海岸線は、3km程内陸であったと憶測します。干満の潮位差は、2m程度はあったと推測され、海岸沿いの場所は、多くの河川が流れ込む三角州(デルタ地帯)で、標高3m以下の場所、現在の福岡平野の北部にあたる一帯は、人が住んだり、農作物を栽培するような場所ではなかったと憶測します。歩くにも難儀するような湿地帯で、小船は停泊できたでしょうが、とても魏国の政府官僚専用の大型船を停泊できるような場所は、無かったのではと憶測します。
 能古島より西側の今津湾は、博多湾ほど多くの河川は流れ込んではいませんが、入り江に乏しく、こちらも大型船を停泊するのは困難であったと憶測します。大型船を停泊できたのは、今津湾の西の端の瑞梅川河口の入り江のあたりであったと憶測します。
 
 末廬國の国邑は糸島市波多江と比定しました。伊都國(春日市役所)と方位は、東(99°)で、東南(135°)の記述の許容差の範囲を超えてしまいます。そこで、末廬國の比定地は福岡市西区横浜 熊野神社に訂正します。

 末廬國 福岡市西区横浜 熊野神社
 伊都國 春日市役所


方位は東南東(108°)となり、東南(135°)の記述との相違は、27°になります。しかし、まだほど許容差の範囲を超えてしまいます。おそらく、伊都國の国邑は、春日市役所より、2-3km南にあったと憶測します。

方位2

2-3 狗奴國

狗奴國の比定地は熊本市としました。邪馬壹國(八女市)からの方位は南南東(163°)です。南の許容差の範囲ですが、ややよりです。
狗奴國は、熊本市より玉名市のほうが適していると考えるに至りました。
狗奴國 玉名市役所
方位は南(179°)となり、南の記述の許容差の範囲となります。

方位3

2-4 會稽

最後は、

計其道里當在 會稽東治之東

ここで気になることがあります。魏国の都は洛陽にありました。
洛陽から邪馬壹國(八女市)の方位は、東(90°)、まさに真東に相当するのです。このことは十分認識していたと憶測します。

計其道里當在 魏都之東

と記述しても良かったのです。しかし、そうしなかったのです。
會稽は、の支配する領地です。つまり會稽は、呉の都の意味で叙述されたと憶測します。
會稽東治の比定地は紹興市と憶測していました。邪馬壹國の比定地、八女市の方位は、東北東(68°)で、東(90°)とのずれが22°もあります。の許容差の範囲ですが、少し北過ぎます。東北としてもよい方位です。會稽東治の比定地の紹興市が正しくないと考えます
呉の都は、最初蘇州市にあり、229年建業(南京市)に移りました。蘇州市南京市もかつては會稽郡に属していましたが、後漢の時代に、會稽郡は。領地が広大であったので、北部を分割して呉郡が設置され、蘇州市南京市は、呉郡の管轄になりました。

邪馬壹國在 呉郡都之東

と記述するところを、呉郡呉国をあまりにも直接的な表現なので、婉曲的に古い版図の會稽を採択して記述したのではと憶測します。
従って、會稽東治は、呉国の都建業のあった南京市を比定地とします。
南京市から邪馬壹國(八女市)の方位は、東(80°)であり、東(90°)との許容差の範囲に十分収まります。


魏国の都、洛陽から呉国建業(南京)も方位はです。洛陽から建業まで、650km建業から邪馬壹國まで、1110km洛陽の東の建業の、その東の先には、倭人の国があることを強調したかった、倭人は、呉国および會稽郡の影響を受けていた、あるいは受ける可能性があることを言明したかったと推測します。

方位4


3. 比定地と方位

比定地を以下の表に示します。

比定地


魏志倭人伝の方位の記述は、以前は、磁石が示す方位に基づくと憶測していました。
しかし、地軸(子午線)を基準とする方位に基づくと考えるに至りました。
魏志倭人伝に記述されている方位は、地軸に基づくと仮定します。
魏志倭人伝は、8方位で記述されています。±22.5°が許容差の範囲です。 方位のずれをグラフに示しました。
各方位の記述と地軸に基づく方位とのずれは、末廬國→伊都國27°を除いて、許容差±22.5°の範囲です。末廬國伊都國の国邑の比定には、課題は残ります。
しかし、魏志倭人伝の方位の記述は、地軸(子午線)を基準とするとした仮説は、概ね正しいと憶測します。

方位のずれ

さて、次回は、水行20日、水行10日、陸行1月を検証したいと思います。

(つづく)
不定期、週末更新予定

スポンサーサイト

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

31.水行20日 水行10日 陸行1月は何里なのか

新井白石本居宣長ら諸先生方が、魏志倭人伝の研究をされてから300年近い歳月が経過しています。諸先生方は邪馬壹國の解析には執心されましたが、侏儒國 裸國 黑齒國の解析には執着されませんでした。これは手落ちでした。
もっと早い段階で侏儒國 裸國 黑齒國の考査が十分されていれば、現在まで邪馬壹國の比定地の議論が錯綜することはなかったと思います。

文献学者と自称する研究者は、原文の解析に真摯に取り組むべきで可能性のある仮説は、検証すべきなのです。検証により真偽を推論することが研究です。通説を踏襲し可能性を観念的に否定して、仮説の考察を熟慮しないとする流儀は、研究者としての力量が不十分と思います。

1.数字の逓減、最後は1

さて、魏志倭人伝帯方郡から邪馬壹國への道程の記述を見てみましょう。

行程1

7000里、1000里、1000里、1000里、500里、100里、100里。
この文章は見事なのです。目的地に近づくに従い数字が小さくなっているのです。100の後は、20、10、1なのです。逓減した数値を、最後はで目的地に達するよう記述したのは、筆者のこだわりであり、工夫なのです。
この筆者の意図に、多くの研究者が気づいていないのは残念です。帯方郡から邪馬壹國への記述は、実にリズムがあります。数字が100、100、20、10と続いて最後となるのには、何度も音読すると高揚感を覚えるのです。


2.水行20日 水行10日 陸行1月を棚上げする

しかし、20日、10日、1月の解釈は難題です。であるなら、まずは、20日、10日、1月の解釈を棚上げして考える手法もあると思います。方位、手段はそのまま数値は参考にします。
不彌國投馬國  南 水行 20
投馬國邪馬壹國 南 水行+陸行 40(10+30)

水行は船での移動と推測します。帯方郡から利用してきた郡の専用船は、末廬國に停泊したままです。末廬國から不彌國は徒歩でやってきました。郡の専用船は、ここでの水行には利用できません。と云うより、利用する必要がないので末廬國に停泊してきたのです。船は不彌國か、もしくは女王國のものをチャーターしたと憶測します。ここでは安全保障上の危険が少ないからです。
水行したのは、なだらかな川であったと憶測します。川幅は広いところでも50-100m、水深は深いところでも5m程度。溺没する可能性は低いのです。

舟

女王國の護衛は帯方郡からすっと、使節団に随行してきたと憶測します。九州北部に上陸してからは、その護衛要員は大幅に増員されたはずですし、一大率のある伊都國からは、各國の官、自らも護衛に当たったと憶測します。

不彌國は川沿いにあり、川を南に行ったところに投馬國があるのです。
投馬國からさらに川を南に行くと、ある地点で川の流れの方向が変わるのです。この地点で陸に上がります。
そこから徒歩で南に進むと邪馬壹國があるのです。
20日、10日、1月の解釈を棚上げして考察しても、十分に邪馬壹國の比定は出来ると思われます。

この考えに、20、10、1の数値の考察を加えてみます。
大胆ですが、不彌國から投馬國の数値20を距離200里と仮定します。すると投馬國から川を南に進み、陸に上がった地点までは10なので100里となります。その地点から邪馬壹國の地点は南に1月=30ですから、300里となります。
20,10,1の数字を距離の比と考えると、相対位置からより正しく邪馬壹國の比定が出来ると思われます。


3.各國の間隔

國の大きさを戦国時代江戸時代の、国や藩に相当する50-100km四方の大きさと考えると、判断を間違えます。当時の倭人の一つの國の大きさは、せいぜい5-10km四方、25-100km平米程度の大きさで、現代の町や村程度の規模であったと憶測します。
伊都國、奴國、不彌國の3國の間隔は100里です。この3國は隣接していたと憶測します。倭人の國と國の間隔は、この100里からせいぜい200里であったと憶測します。


4.仮説

7000里、1000里、1000里、1000里、500里、100里、100里、20日、10日、1月。
この数字の逓減と最後1での到達を可能にしたのは、不彌國から先の数値の単位を変えたからです。不彌國までは距離を里で記述していますが、それ以降、投馬國、邪馬壹國へは、里を日に変えて記述しています。全部、里で表現することも可能であったと憶測します。
7000里、1000里、1000里、1000里、500里、100里、100里、200里、100里、300里。
しかし、500、100、100と続いた後に、仮に200、100、300邪馬壹國に到達と記述するのは粗野で、優雅さに欠けると判断したのだと憶測します。
20日、10日、1月の記述が気になります。日を何を意味するのでしょうか。

仮説
 日は、倭人が用いた距離の単位で、1日=何里の基準に基づく。


仮説は観念に囚われずに設定すれば良いのです。立証して確からしければ正しいことになりますし、矛盾があり成り立たなければ仮説は間違っているのです。
この仮説は、「倭人は里を距離の単位としていた」との事実があれば、容易に反証できるのです。
日が距離の単位であるはずがない。日は距離ではなく、時間の単位であることは小学生でも知っている。などの見解は全く科学的でなく、反証にはならないのです。
一方、仮説を立証するには、「倭人は、日を距離の単位にしていた」、または「1日=何里に換算される」との事実があれば立証できるのです。
通説の観念に囚われて仮説を立てることに不慣れであると、記述の解釈を誤謬してしまうことがあります。


5.隋書倭国伝

隋書倭国伝に、以下のよく知られた記述があります。

夷人 不知里數 但計以日

夷人倭國の人が含まれるので、夷人倭人に置き換えても差し支えないと考えます。
通説では、以下のように解釈します。

倭人は 里数(距離)を知らない ただ日を以って計っている。

この解釈は、漢文(中国語)の読み下しとして正しくありません。
古代中国は文明の先進国であり、倭人は文明の劣った野蛮人であったとする史観が、平易な文書の解釈でさえ誤謬してしまったのでしょう。
通説の読み下しに対応する元の文は、以下でなければなりません。

夷人 不知里數 只知里程用日

記述の文に戻って読み下してみます。
は、ここでは「ただし」です。「ただ」ではないのです。
中国語で、は「ただ」の副詞に使われることもあります。前後の意味を考えると、ここでは副詞ではないのです。「しかし、だが、・・・である。」の接続詞なのです。
また、は、中国語では「・・・を手段とする」の前置詞で、「・・・を一定の基準とした手段とする」の意味があります。
は、「正確に計測する」の意味の動詞です。

読み下し文は、以下となります。

倭人は、里を単位として数えることを知らない。
しかしその代わりに、日をある一定の基準に基づいた単位として、
距離を正確に計測している。


「日」は、「里」に相当する長さの単位であることが示唆されています。「日は、倭人が用いた距離の単位である」とする仮説は確からしいのです。


5.侏儒國 裸國 黑齒國

ここで、魏志倭人伝侏儒國 裸國 黑齒國の記述に注目してみましょう。

女王國東 渡海千餘里 復有國 皆倭種
 又有 侏儒國 在其南 人長三四尺 去女王 四千餘里。 
 又有 裸國 黑齒國 復在其東南 船行一年可至。


通説では読点を上記のようにします。したがって侏儒國は、女王國から4000里。裸國 黑齒國は、女王國から船行1年と解釈するのです。

しかしこの読点は、不自然なのです。侏儒國女王國から4000里ならば、去女王は動詞ではなく、前置詞を使うべきなのです。

去女王 四千餘里 → 従女王 四千餘里 もしくは 四千餘里 従女王

「去女王 四千餘里」は「女王國4000里離れる」の意味です。「去女王 四千餘里」で区切ると意味を成しません。文から動詞を抜き取ると、
・・・渡・・・有・・・又有・・・去・・・。
これを読み下すと、
渡海すると種の國が有り、その南にまた侏儒國が有り、そして女王國を4000里離れる。
となります。
「人長三四尺」で区切って、「去女王 四千餘里」の後に文が続かないと不自然なのです。読点は以下が自然です。

女王國東 渡海千餘里 復有國 皆倭種
  又有 侏儒國 在其南 人長三四尺。 
去女王 四千餘里 
 又有 裸國 黑齒國 復在其東南 船行一年可至。


女王國の東を 1000里海を渡ると いくつもの國があり 全て倭種の國である。その南には また國があり 侏儒國で その國の人の身長は3-4尺である。
女王國を4000里離れると その東南にまた國があり 裸國 黑齒國である。船で行くと 1年で至ることが出来る。

なぜ研究者の間では、「人長三四尺」ではなく、「去女王 四千餘里」で区切った解釈が、通説となったのでしょうか。
単純なことです。去女王からを一つの文章とすると、女王國から裸國 黑齒國は、四千餘里=船行一年可至となるからです。4000里=1年は、観念的に有り得ないと先人の研究者諸氏が誤謬したからです。

仮説
 日は、距離の単位で1日=何里の基準に基づく。

仮説の里と日の換算値は、ここにあったのです。

新井白石氏、本居宣長氏ほか過去の先人諸先生たちが、侏儒國 裸國 黑齒國の記述の考察に執心していれば、4000里=1年であることを誰かが発見していたのではと思われます。
4000里を移動するのに年間もかからないと考えるのは、正しい観念です。しかし、原文に真摯に取り組めば解釈は紛れることなく、4000里=1年となるのです。観念と解釈の二律背反の命題を解くには、日、月、年は距離の単位である、と仮説を立てれば良かったのです。


6.水行20日 水行10日 陸行1月は何里?

4000里=1年年は現代では365日です。
太陽は朝昇り、夕方沈みます。古代からこの周期を、日と規定してきました。
月は新月から始まりだんだん満ちて真ん丸の満月となり、その後は欠け始めて新月に戻ります。この周期はおおよそ29.5日で、これを月と規定しました。
地球の地軸は黄道に対して傾いています。このため、日の出の時刻は周期的に変化し、また昼間の時間も同じように周期的に変化します。この周期を年と規定しました。
では古代中国では、1年は何日だったのでしょう。
古代中国では太陰太陽暦が採用されていました。通年は1年354日で、月が29日の月と30日の月が12ヶ月のなかでだいたい半分づつありました。しかし季節のずれを補正するため、19年に度(約年に度)30日間の閏月を入れて補正していました。従って、通常の年は1年354日、閏月のある年は1年384日となります。ここでは、1年354日とすることにします。
月は、精度を求めるなら1月=29.5日とすべきでしょうが、1月=30日としても支障はないと思われます。

日と里の換算式は、4000里=1年 
1年=354日を採用しましたので、4000里=354日。 
11.3里=1日となります。

水行20日 水行10日 陸行1月は、
水行226里、水行113里、陸行339里になります。


(つづく)
不定期、週末更新予定


















テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

KATS.I

Author:KATS.I
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
フリーエリア
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

カレンダー
05 | 2016/06 | 07
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。