畿内説、九州説、百花乱立の邪馬壹國の比定地 過去の考古学、民俗学の定説に囚われ過ぎているのか プロの歴史学者も、アマチュアの歴史愛好家も 迷宮を彷徨う 魏志倭人伝の呪縛の29文字 南至投馬國 水行二十曰 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 もし、二十日 十日 一月の記述が無かったならどうだろう 2015年、今、邪馬壹國の比定をGoogle Mapsから試みた


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26.2地点間は直線距離

2地点間は直線距離?

魏志倭人伝に記述されている2地点間の距離は、行程距離か直線距離なのか。三国志全巻には、2地点間の距離を表す記述が200ヶ所程ありますが、A地点からB地点まで行程距離で何里であるとか、直線距離で何里であるとの記述はされていません。残念ながら2地点間の距離は、行程距離なのか直線距離なの、憶測するより手立てはありません。

前提として、「(二次元空間において) 2地点間の距離は、直線距離が最短距離である」とゆうことは、紀元前300年頃、ギリシャの数学者ユークリッドが公理として示しています。
の時代、政府の役人がこの公理を理解していたものと憶測します。

(1)行程距離の計測は、の時代は難しかった

A地点からB地点までの移動距離(行程距離)を、現代であればGoogle Mapsで調べることも出来ますし、車であれば距離メーターを読み取ることで簡単に調べることが出来ます。しかし、地図にも距離メーターにも頼らず計測することは簡単ではありません。特に移動中に行程距離を計測することは、当時はかなり難しかったと憶測します。
現代の地図でA地点からB地点への経路の総行程距離を調べて、○○km=△△里と仮定して立論するのは、無熟慮であると思います。

(2)移動中の行程距離の計測

 徒歩、乗馬、車輪のついた乗り物、船での移動距離の計測を、現代および当時の手法を吟味してみます。

 徒歩の場合
現代では歩数計を用いて歩数を計測し、一歩の歩幅を掛けて移動距離を計測するのが一般的です。歩幅を正確に一定にすることにより、かなりの精度で計測可能で、これはレンジャー部隊の基礎技術とされています。
 歩測の技量がない場合は、下図のようなホイール型距離計が使用されます。

距離計

 の時代には、歩数計のような携帯タイプのカウンター、あるいは、車輪にカウンターを取り付けた計測器は無かったと憶測します。歩数計ホイール型距離計の代わりに歩数を数えながら計測したと憶測します。忍耐の要る作業だったと憶測します。
 
 乗馬の場合
 移動距離をどのように計測するのでしょうか。常歩でずとっと歩行すれば、馬の歩数を数えることで、徒歩と同じように計測できると思われます。しかし、速歩駈歩が複合すると現代でも計測は難しいし、精度は低いと思われます。
 常歩の場合、時速6~7km
 速歩の場合、時速12-14km
 駈歩の場合、時速20kmくらい
 近年、犬用の歩数計が開発されました。しかし、乗馬用の歩数計はまだ実用化されていません。常足、速足、駈足、それぞれの馬の歩法の振動を正確に感知できる歩数計が開発されれば可能となるでしょうが、現時点では、地図を頼りにするしか手段はありません。の時代、乗馬で移動距離を計測することは困難だったと憶測します。

 車輪のついた乗り物の場合
 車輪の回転回数の総計から直接距離を測定することが出来ます。ただ、目視で回転回数を数えることは骨の折れる作業です。車輪にカウンターがついていれば計測は容易です。の時代、車輪にカウンターを付けた機器は無かったのではと憶測します。馬車、牛車などでの移動では、移動距離の計測は困難であったと憶測します。

 船での移動の場合
 現代でも、船の移動距離は、直接測定することは出来ず、移動速度x時間=移動距離の演算を行い、距離を計測します。モーターボードの距離計は、水圧から速度を計測し、その速度で移動した時間を積算することにより移動距離を計測しています。もちろん、GPSを利用して、位置を計測し、その移動距離を積算する方法も用いられています。
の時代、このような技術はなく、船で移動した場合、その移動距離を計測することは出来なかったと憶測します。

つまりの時代、移動距離は徒歩の場合、計測が可能であったと憶測します。

(3) 直線距離の計測

直線距離の計測はどのように行われるのでしょうか。
現代では、光波や電波を用いる電磁波測距儀で計測が行われています。少し前までは、三角測量で計測が行われていました。三角測量は、目視もしくは望遠鏡で確認可能な範囲であれば計測が可能です。歴史は古く、周髀算経にも記述されており、の時代も直線距離の計測に三角計量が用いられていたと憶測します。
また、目視出来ない2地点間の直線距離は、太陽を含めた天体を用いた天文測量を用いて計測することも、周髀算経に記述されており、の時代にも用いられたと憶測します。
直線距離は、下図のような象限儀を用いて、三角計量が行われたと思われます。象限儀



の時代、直線距離の計測は、精度良く計測できたと憶測します。

では、2地点間の距離は、行程距離なのか、直線距離なのか。これは個別に吟味する必要があると思います。



(つづく)
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27.1里=53.3m

1里=53.3m?

1里=53.3mと仮定したのは、それほど大きな理由はありません。
魏志倭人伝一大國の記述の方可300里を一辺300里であると推測しました。
長崎県企画振興部のホームページ「長崎のしま」に、壱岐島は、南北17km、東西15kmと記述されていたので、中間値の16kmを採用して、300里=16km から 1里=53.3m と仮定したに過ぎません。
魏志倭人伝に記述されている距離を表す全ての記述と1里=53.3mとの相違を考察してみます。考察にはいくつかの仮定を設定する必要があります。

1.帯方郡治は、開城

帯方郡治を起点にしている記述があるので、これがどこにあったのかを仮定する必要があります。
帯方郡治漢城(現在のソウル)とする説を支持する研究者が多いのですが、私は開城帯方郡の郡治であったと仮定します。漢城は少し内陸過ぎる気がするからです。山東半島の対岸で、朝鮮半島南部の拠点としては、漢城よりは、黄海により近い開城がふさわしいのではと考えます。

2.海岸水行は朝鮮半島の西岸、南岸を船で水行した

循海岸水行、歴韓國乍南乍東は、文字通り、「海岸に沿って韓国を眺めながら、進路を南へ東へ舵を取り船で水行した」と推測しています。
Google Earth で見てみると、朝鮮半島京畿湾から半島西岸、さらに南西端の珍島から半島南岸の釜山までの海域は、水深が極めて浅いことが分かります。海岸から500m以内であれば、水深は5m以下のところがほとんどです。東京湾芝浦から横須賀へ航海するような水深の浅さです。帯方郡から狗邪韓國への海上の航海は、安全なルートであったと憶測します。

半島西岸南岸
 朝鮮半島の西岸、南岸の水深

3.到其北岸狗邪韓國は、狗邪韓國の北岸に到達した

其が何を指しているのか悩むところです。狗邪韓國朝鮮半島の南岸にあったとすると、北岸の記述と相反してしまうのです。最初は、其は倭人の國の代詞と解読しましたが、これでは意味をなしません。北岸は、あくまで大陸、半島、島の北の海岸であるはずです。ここでは島の北岸と考えると矛盾がなくなります。その島が狗邪韓國であると推測するに至りました。島は対馬に近い巨済島であり、「到其北岸狗邪韓國」は、巨済島の北岸に到達した、と推測します。

次の記事で、2点間の距離は、直線距離か行程距離かも含め、1里=53.3mを検証してみたいと思います。


(つづく)
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28.1里=53.3m(2)

魏志倭人伝に記述されている1里は、一大國の方可300里より、一辺300里、16km=300里と仮定して1里=53.3mと設定しました。これを検証してみます。距離は、Google Mapsから求めた数値を使用することにします。

(1) 帯方郡治から狗邪韓国

帯方郡治は、北朝鮮開城と仮定します。また狗邪韓國は、韓国巨済島とします。

到其北岸狗邪韓國七千餘里

さて、これは直線距離なのか、行程距離なのか。開城から船で朝鮮半島の西岸を南下し、珍島で東向きに方向を変え、巨済島の北岸に到着。
船での移動であるので、移動中に行程距離を計測することは出来ません。従って、この7000里は、直線距離であると推測します。
しかし既に、倭人あるいは韓国人が、開城から珍島珍島から巨済島の距離など、各地点間の距離を三角計量、天文計量などで計測済みで、距離は公知であったかもしれません。この場合、帯方郡の使節団がその公知の行程距離を報告した可能性もあります。
では開城から巨済島の距離をGoogle Mapsで見てみます。

帯方_狗邪韓國

帯方郡から狗邪韓國開城から巨済島の北岸までの7000里は、直線距離の場合375km(1里=53.6m)、三角計量に基づく行程距離の場合684km(1里=97.7m)となります。

(2)狗邪韓國から對海國
(以前の記事では對馬國と記述しましたが、以後對海國を使用します。)

船での移動なので、移動距離(行程距離)の計測は出来なかった、直線距離が記述されたと憶測します。

始度一海千餘里至對海國 

では、起点と終点はどこなのでしょうか。
海を100里渡ると記述されているので、2島間の最短距離を以って示すのが自然であるように思えます。しかしながら、連続性を重視すれば、実際に移動した2地点の直線距離を記述した可能性も考えられます。
Goole Mapsを見てみると、最短距離は、巨済島東岸の臥峴里から対馬の北西岸棹崎から田里生崎あたりが最短で、56km(1里=56m)となります。
移動した2地点の距離を示したとすると、起点を巨済島の北岸の旧永里、終点を対馬比田勝港とすると82km(1里=82m)、終点を厳原港とすると106km(1里=106m)となります。

狗邪韓國_對海國


(3)對海國方可四百餘里

方可四百餘里は、一辺が400里と推測します。
Google Mapsで見てみると対馬の南北は、南の神崎から北の久の木崎までの73km、
東西は、東の黒島から西の郷崎の20kmとなります。
一辺400里を南北とすると73km(1里=183m)、東西とすると20km(1里=50m)となります。

對海國


(4)對海國から一大國

ここも、Google Mapsで、最短距離と、2地点間の距離を見てみます。
最短距離は、対馬竜の崎から壱岐島勝本町本宮西触48km(1里=48m)
起点を対馬厳原港、終点を壱岐島郷の浦港とすると、62km(1里=62m)、起点を対馬比田勝港、終点を壱岐島郷の浦港とすると102km(1里=102m)となります。

對海國_一大國

(5)一大國方可300里

方可300里は、一辺が300里と推測します。Google Maps壱岐島を見てみます。

壱岐島


南北は海豚岬から勝本町東触17km(1里=56.7m) 東西は筒城岬から牧崎15km(1里=50m)となります。


(6)末盧國以降

   比定地が定まらないため、距離を検証することは出来ません。

(7)まとめ

   さて、以上検証した結果を以下にまとめてみました。

まとめ


棒グラフの青く示した、帯方郡から狗邪韓國の直線距離、渡一海千餘里を島間の最短距離。方可を対馬、壱岐島の東西のそれぞれの距離とすると、mに換算すると48-57mの範囲であることが分かります。1里は48-57mと仮定することが可能であることが分かります。
帯方郡→狗邪韓國→對海國→一大國の距離は、直線距離が記述されたと推測します。狗邪韓國→對海國一大國の距離は、それぞれ2島間の最短距離が記述されたと推測します。
また、1里=53.3mとの仮定は妥当であると憶測します。


(つづく)
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29.東西南北は地軸の南北極点に基づく

1.方位の基準

東西南北は何を基準に決められているのでしょうか。 
地軸を中心として地球は自転運動をしていますが、この地軸は、南極点北極点とを結ぶ直線です。南極点北極点を基準として、東西南北が決められているのは、現代も古代も同じと考えます。

2.定点での方位の計測

古代は、どのようにして南極北極の位置を知ることが出来たのでしょうか。
太陽を観測することにより、容易に方位を知ることが出来ます。太陽は、朝、昼、夕方で高度が変わります。このため、地面に棒を立てると、影の長さが時刻によって異なります。正午頃、太陽の高度が最も高くなり、棒の影の長さが最も短くなります。南中です。
季節によって周期的に南中時の太陽の高度は変化します。また、南中の時刻も、正午を中心に周期的に変化します。しかし、1日の中で棒の影が最も短くなる南中時の太陽の方位は季節に関係なく一定で、常に南極の方向を示すのです。このように南中時の太陽の方位をと規定して、東西南北の方位は容易に計測することができます。

東西南北

また、周髀算経には、同様に棒を使って太陽の影を観察し、東西の直線を算出する手法(インディアン・サークル法)が記述されています。このような手法も方位を計測する際に、用いられたと憶測します。

インディアンサークル

3.日の出の方位は、東の基準になるのか

太陽は東から昇り西に沈みますが、地軸は黄道に対して傾いているため、日の出時、日の入り時の方位は季節によって変動します。従って、日の出、日の入りの方向は、東西の方位の基準にはならないのです。

魏志倭人伝の記述を以下のように仮定して、解読する研究者の方がいらっしゃいます。
*方位は、日の出の方向をとしたと仮定する。
魏志倭人伝の方位の記述は夏至の頃と仮定する。
九州北部では夏至の日の出時の太陽の方位は、30°くらい東から北方向にずれた、北東微東あたりになります。これを東北、45°のずれと仮定する。

これらの仮定より、魏志倭人伝の方位の記述は、45°のずれがあると提案して解読するのですが、私は賛同しません。
日の出の方位は、季節により大きく異なるので、の基準にはならないからです。

日の出の方向

4.移動中の方位の計測

移動中はどのように方位を計測したのでしょうか。時刻が分かれば、太陽の方向から方位を計測することが出来ます。原理を、アナログ時計を分度器代わりに使用した方法で説明します。短針を太陽の方向に合わせると、時計の12の方向との中間点が、南の方位になるのです。この手法は、時刻が分かれば、アナログ時計がなくても計測可能です。

アナログ時計

このような計測方法も、当時、移動中の方位の計測に用いられていたと憶測します。

また、夜間であれば、天体観測が出来ます。北極星を観測すれば、その位置が北の方位と計測することが出来ます。

当時、方位の計測は、色々な手段があったと憶測します。しかし、天候が悪く、太陽も北極星も観測できない時は、方位は計測できなかったのでしょうか。

5.指南魚による計測

現在は、方位の計測は天候に左右されない手法がも用いられます。GPSでによる、方位の計測です。GPSがなかった数十年前は、方位磁石を用いる方法が一般的でした。
方位磁石は、磁北を基準とするので、地軸の北極とはずれがありmす。しかし、このことは当時の人も熟知していたと憶測します。しかし、そのずれは、10-20°くらいでずれを把握していれば、移動中の方位を計測するには、十分であったと憶測します。古代はGPSの技術はなかったでしょうが、方位磁石は、実用化されていたと憶測します。古代中国の方位磁石は、指南魚と呼ばれていました。下はの時代の指南魚ですが、の時代はこの原型のようなものが、実用化されていたと憶測します。

指南魚

棒状の鉄を高温で焼いた後、棒を南北方向に置いて冷却すると、南に置いたほうがS極に、北に置いたほうがN極に磁化された磁石が出来ます。これを木製の造形物に埋め込みます。古代中国では、造形物に魚が使われ、N極に磁化されたほうを頭に、S極を尾のほうにして埋め込まれました。この木製の魚を器に入れ、水を注いで浮かべると、方位磁石の針の役割をし、頭が磁極を示します。
船での移動の際など、方位の計測には、指南魚のような方位磁石が使われたと憶測します。


6.魏志倭人伝の方位

さて魏志倭人伝に記述された方位は、何を基準にしたのでしょうか。以前は、方位磁石の方位に基づいて記述されたと考えていました。
しかし、今は、地軸に基づく南極点北極点を南北とする、東西南北を基準として記述されたと考えるようになりました。

次の記事で、魏志倭人伝に記述された方位を、地軸に基づく東西南北として検証してみます。





(つづく)
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