畿内説、九州説、百花乱立の邪馬壹國の比定地 過去の考古学、民俗学の定説に囚われ過ぎているのか プロの歴史学者も、アマチュアの歴史愛好家も 迷宮を彷徨う 魏志倭人伝の呪縛の29文字 南至投馬國 水行二十曰 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 もし、二十日 十日 一月の記述が無かったならどうだろう 2015年、今、邪馬壹國の比定をGoogle Mapsから試みた


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08.狗邪韓國

さて、準備万端整った梯儁ら使節団は、女王國に向けて出発します。
正史元年(240年)○月1日午前6時魏国屈指の帆船に乗り込み開城を船出したと設定してみます。

 從郡至倭 循海岸水行 歷韓國
 乍南乍東 到其北岸 狗邪韓國 七千餘里 


漢江から30kmほどで京畿湾に出て、そこからは、南に航路を合わせて進んだと推測します。
昼間は、海岸線、群島を目印に、夜間は、指南魚の方位、星空であれば、天体を頼りに航海したと憶測します。
昼間は時速6km、夜間は安全確保のため減速して時速4km程度、平均時速5km、1日の航海距離は120km程度と憶測します。
開城から、京畿湾徳積郡島外煙諸島鞍馬島を横切りながら、朝鮮半島の南岸の黒山群島珍島まで、航海400km。○月4日午後には、珍島を横切り、航路を徐々に東に変えたと憶測します。
珍島から東に200kmほど航海すると、○月6日午前には、進行方向に巨済島が見えてきます。
巨済島から、対馬まで約60km。釜山、金海へは約50km。

狗邪韓國10

狗邪韓國の次の経由地は、對馬國です。わざわざ、使節団が釜山金海方面へ行っただろうか。
狗邪韓國は、巨済島にあったと推測します。
開城から巨済島まで直線距離390km、1里=53.3mと設定すると7320里となります。

狗邪韓國11


240年○月1日午前6時 帯方郡(開城)発 
240年○月6日午後4時 狗邪韓國(巨済島)
 船行5泊6日。航海距離650km。

(つづく)
不定期、週末更新予定

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09.對馬國

6日ぶりに、陸に上がった使節団は、巨済島で一泊したと憶測します。陸上では、6日間の航海での帆船の不具合箇所の補修も行われたと憶測します。
翌7日、使節団は狗邪韓國から再び帆船に乗り込み、対馬海峡を横断することになります。日の入りまでに沿岸まで辿り着かないと方向を見失う恐れがあり、深夜の出発であったと憶測します。
240年○月7日午前0時、巨済島を出港したと憶測します。

 始度一海 千餘里 至對馬國 

使節団は、對馬國の国邑を目指したと推定します。對馬國は、長崎県対馬島であり、国邑は厳原港付近で、巨済島から厳原港へは南周りで航海したと憶測します。
巨済島から対馬島豆酘崎まで約90km。対馬海峡は障害物がないので速度を上げ、時速6km程度で航海したとし、午後3時頃に豆酘崎沖に達したと憶測します。豆酘崎から厳原港まで20km。ここは時速5kmで航海。使節団は午後7時頃、對馬國国邑(厳原港)に到着したと憶測します。

巨済島から対馬島の西北岸、棹崎から田里生崎の辺りが最短距離で56km。1里53.3mの設定ですので、1050里となります。

對馬國10


方可四百餘里

対馬市のホームページの観光情報によると、対馬は属島を含めて南北82km、東西18kmと記載されています。一方、Google Mapsで見てみると、南北(鉾崎の北の三ツ島~豆酘崎の南の小島)は76kmで、東西(郷崎~黒島)は20kmとなります。
對馬國の方可400里は、東西(郷崎~黒島)の20kmであったと推測します。1里53.3mの設定ですので、對馬國の一辺は375里となります。

對馬國11


240年○月1日午前6時 帯方郡(開城)発 
240年○月6日午後4時 狗邪韓國(巨済島)
 船行5泊6日。航海距離650km。

240年○月7日午前0時 狗邪韓國(巨済島)発 
240年○月7日午後7時 對馬國(厳原港)
 船行19時間。航海距離110km。

(つづく)
不定期、週末更新予定

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10.一大國

使節団は對馬國で一泊し、翌日、日の出ともに(午前6時に)次の経由地、一大國の国邑を目指したと憶測します。

 又南渡一海 千餘里
 名曰瀚海 至一大國


一大國は、長崎県壱岐島であると断定できます。一大國の国邑は、郷ノ浦あたりにあったと憶測します。対馬島厳原港から壱岐島郷ノ浦港まで、約65km。時速6kmで航海したとして、午後5時頃、一大國の国邑、郷ノ浦に到着したと憶測します。
対馬島虎崎から壱岐島勝本町本宮西触の辺りが最短距離で50km。1里53.3mの設定ですので、938里となります。

壱岐島11


ここで、魏志倭人伝の記述に問題が見られます。対馬島から見た壱岐島の位置は、北極点を北とするGoogle Mapsでは、南ではなく南南東~南東微南の位置にあり、東南の方位になります。ここでの記述では、西偏10度位の偏角が認められます。

壱岐島12


方可三百里

元々、長崎県企画振興部のホームページ「長崎のしま」に記載されている、壱岐島は南北17km、東西15kmの中心値16kmを採用して、300里=16kmから1里=53.3mと設定しました。
新ためて、Google Mapsで確認してみます。
南北、若宮島~海豚鼻まで18km。東西、長島~筒城崎が16km。
一大國の方可300里は、東西(長島~筒城崎)の16kmであったと推測します。1里53.3mの設定ですので、一大國の一辺は300里となります。

壱岐島13


240年○月1日午前6時 帯方郡(開城) 発 
240年○月6日午後4時 狗邪韓國(巨済島) 着
 船行5泊6日。航海距離650km。

240年○月7日午前0時 狗邪韓國(巨済島)発 
240年○月7日午後7時 對馬國(厳原港)
 船行19時間。航海距離110km。

240年○月8日午前6時 對馬國(厳原港)
240年○月8日午後5時 一大國(郷ノ浦港)
 船行11時間。航海距離 65km。


(つづく)
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11.末廬國

使節団は一大國でも一泊し、翌朝、午前6時に魏国の大型帆船に乗り込み、次の経由地、末廬國の繋留地を目指したと憶測します。

 又渡一海 千餘里 至 末廬國

Google Maps壱岐島から1000里(53.3km)を見てみます。

末廬國11

平戸、松浦、伊万里、唐津、糸島、福岡市西区がその範囲となります。
大型帆船の繋留に適したところは。

平戸10

平戸は、平戸瀬戸に多くの繋留地があったと憶測します。ただ、船行の寄港地であったが、陸行の繋留地ではなかったと憶測します。

松浦10

伊万里11

唐津12


現在の松浦、伊万里、唐津の市街地はいずれも士佐川、有田川、松浦川の堆積平地で、船舶の繋留地は、河口の砂州地から離れた海岸線の入り江であったと憶測します。
繋留地からは、いずれも川沿いを陸行することになります。使節団が行くルートとしては、無理があり(負担が大きく)、経済的でないと憶測します。

糸島半島12

糸島、福岡市西区糸島半島は、多くの繋留地があったと憶測します。また、陸行のルートも平坦です。安全、無理が無く、経済的であったと憶測します。
末廬國は、糸島半島にあり、国邑は、JR筑肥線加布里~今宿の間にあったと憶測します。ここでは、中間点の波多江と設定します。

壱岐島郷ノ浦港から糸島市波多江まで54km。1里53.3mの設定ですので、1013里となります。

末廬國13

さて、使節団が帆船を繋留したのは、糸島半島の西岸だったのか、東岸だったのか。
郷ノ浦港から西岸の筑前前原まで、航路55km、東岸の今宿は65km。
使節団は、その後の行程を考慮して、東岸の今津湾瑞梅川河口の入り江に帆船を繋留したと憶測します。郷ノ浦港から時速6kmで航海し、午後5時頃、使節団は福岡県西区田尻あたりに、到着したと憶測します。

末廬國12


240年○月1日午前6時 帯方郡 (開城) 発 
240年○月6日午後4時 狗邪韓國 (巨済島)
 船行5泊6日。航海距離650km。

240年○月7日午前0時 狗邪韓國 (巨済島) 発 
240年○月7日午後7時 對馬國 (厳原港)
 船行19時間。航海距離110km。

240年○月8日午前6時 對馬國 (厳原港)
240年○月8日午後5時 一大國 (郷ノ浦港)
 船行11時間。航海距離 65km。

240年○月9日午前6時 一大國 (郷ノ浦港)
240年○月9日午後5時 末廬國 (福岡市西区田尻)
 船行11時間。航海距離 65km。


(つづく)
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12.伊都國

魏国の使節団は、末廬國で一泊したと憶測します。

 東南陸行 五百里 到 伊都國
 郡使往來 常所駐


帯方郡の使節団は、倭国を訪れた際には伊都國に駐在したとあります。伊都國には、後世の筑紫館(鴻臚館)に相当する施設があった推測します。伊都館と仮称することにします。

午前6時、梯儁ら使節団は伊都館を目指して末廬國を出発します。陸行500里。Google Mapsで、末廬國(糸島市波多江)から500里(26.7Km)の地点を見てみましょう。

伊都國11


500里の地点は、福岡県新宮町、久山町、篠栗町、恵美町、宇美町、太宰府市、大野城市、春日市、筑紫野市、那珂川町になります。伊都館は、福岡平野にあり、500里よりは少し手前の博多湾から程よい距離の福岡市南区、大野城市、春日市那珂川御笠川の間の堆積台地(春日丘陵)にあったと憶測します。ここでは春日市役所伊都館があったと設定することにします。

末廬國(糸島市波多江)から伊都國(春日市市役所)まで、直線距離で23km、432里となります。
梯儁ら使節団は、末廬國(糸島市波多江)から陸行します。Yahoo Japan 地図で末廬國(糸島市波多江)から伊都國(春日市役所)の徒歩ルートを検索してみると、距離25.6km(480里)、標高差30m。陸行は時速4kmとして午後1時頃に伊都館に到着したと憶測します。

一方、進貢を積んだ魏国の帆船は、同じく午前6時に末廬國(福岡県西区田尻)の繋留地から博多湾を目指して船行します。距離は15km、潮の干満の影響を考慮し時速5kmで進んだとして、午前9時頃到着したと憶測します。
博多湾からは、川を遡上することになります。伊都館(春日市役所)を目指すので、那珂川御笠川を遡上しますが、ここでは那珂川を遡上したと設定します。当時の福岡平野の湾岸地帯は砂州地帯で、那珂川は水深が浅く魏国の大型帆船は遡上出来なかった。進貢は、女王國の小型帆掛け船に積み替えて伊都館を目指し、運搬係と護衛係が、帆掛け船に同船したと憶測します。帆があるとはいえ、川では風速が弱く、推進力は船頭による櫓の漕ぎが頼りで、川の遡上は時速2kmくらいであったと憶測します。
進貢を積み変えた小型帆掛け船は、午前10時頃河口を出発し、那珂川を8kmくらい遡上し、午後2時頃那珂川の中流、福岡市南区警弥郷あたりに到着。そこから4kmほど陸行し、午後3時頃進貢が伊都館に到着したと憶測します。

伊都國12

博多湾の砂州には、帆船を繋留する場所は無く、進貢を降ろした魏国の帆船は、航海士と一部の護衛を乗せて、再び末廬國(福岡県西区田尻)の繋留地へと船行し、午後1時頃に戻ったと憶測します。

帯方郡から、魏国の帆船を先導した女王國の帆船は、博多湾へは先導せず、母港の末廬國(福岡県西区田尻)で次回の航海に備えて繋留されたと憶測します。

伊都館では、使節団が帯方郡の出発予定日は知らされていたとはいえ、使節団が無到着したことを受け、使者が女王との謁見のスケジュールの再確認ため、女王の都、邪馬壹國へ急行したと憶測します。

さてここで、魏志倭人伝の方位の記述に問題が見られます。末廬國(糸島市波多江)から見た伊都國(春日市役所)の位置は、北極点を北とするGoogle Mapsでは、東南ではなく、東~東微南の位置で東の方位になります。東南とするには、西偏15度位の偏角があることになります。

伊都國13

240年○月1日午前6時 帯方郡 (開城) 発 
240年○月6日午後4時 狗邪韓國 (巨済島)
 船行5泊6日。航海距離650km。

240年○月7日午前0時 狗邪韓國 (巨済島) 発 
240年○月7日午後7時 對馬國 (厳原港)
 船行19時間。航海距離110km。

240年○月8日午前6時 對馬國 (厳原港)
240年○月8日午後5時 一大國 (郷ノ浦港)
 船行11時間。航海距離 65km。

240年○月9日午前6時 一大國 (郷ノ浦港)
240年○月9日午後5時 末廬國 (福岡市西区田尻)
 船行11時間。航海距離 65km。

240年○月10日午前6時 末廬國 (糸島市波多江)
240年○月10日午後1時 伊都國 (春日市役所)
 陸行7時間。陸行距離 26km。


(つづく)
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13.奴國

魏国の使節団は、慣例に従って伊都國で一泊したと憶測します。夜を徹して陸行して来た女王の都、邪馬壹國の使者は、朝には伊都館に到着し、梯儁らに歓迎の意を伝えたと憶測します。
使節団は、午前8時に伊都國を出発したと憶測します。伊都國から女王の都、邪馬壹國への交通路はかなり整備されていたと憶測します。

 東南至 奴國 百里

伊都國(春日市役所)から東南100里(5.33km)が奴國になります。那珂川、御笠川、宝満川に囲まれた大野城、太宰府、筑紫野筑紫平野奴國はあったと憶測します。ここでは奴國の国邑は筑紫野市役所と設定します。
ほぼ平坦な直線路で、伊都國(春日市役所)から奴國(筑紫野市役所)まで距離5.8km、109里になります。時速4kmで陸行したとして、午前9時30分頃、奴國(筑紫野市役所)に到着したと憶測します。

奴國11


240年○月1日午前6時 帯方郡 (開城) 発 
240年○月6日午後4時 狗邪韓國 (巨済島)
 船行5泊6日。航海距離650km。

240年○月7日午前0時 狗邪韓國 (巨済島) 発 
240年○月7日午後7時 對馬國 (厳原港)
 船行19時間。航海距離110km。

240年○月8日午前6時 對馬國 (厳原港)
240年○月8日午後5時 一大國 (郷ノ浦港)
 船行11時間。航海距離 65km。

240年○月9日午前6時 一大國 (郷ノ浦港)
240年○月9日午後5時 末廬國 (福岡市西区田尻)
 船行11時間。航海距離 65km。

240年○月10日午前6時 末廬國 (糸島市波多江)
240年○月10日午後1時 伊都國 (春日市役所)
 陸行7時間。陸行距離 26km。

240年○月11日午前8時 伊都國 (春日市役所)
240年○月11日午前9時30分 奴國 (筑紫野市役所)
 陸行1.5時間。陸行距離 5.8km。



(つづく)
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14.不彌國

奴國(筑紫野市役所)に到着した使節団は、国邑での挨拶もそこそこに、次の経由地不彌國を目指して午前10時に奴國を出発したと憶測します。

 東行至 不彌國 百里

奴國(筑紫野市役所)からは、進路を90度変え東に向かって陸行します。筑紫野市役所から東は宮地岳の方向になります。

不彌國11

不彌國は、宮地岳の麓と憶測します。ここでは不彌國の国邑は筑紫野市阿志岐荒船神社あたりの宝満川の川岸と設定します。
ほぼ平坦な直線路で、伊都國(春日市役所)から不彌國(筑紫野市 荒船神社)まで距離3.6km、68里になります。時速4kmで陸行したとして、午前11時頃、不彌國(筑紫野市 荒船神社)に到着したと憶測します。

不彌國12

240年○月1日午前6時 帯方郡 (開城) 発 
240年○月6日午後4時 狗邪韓國 (巨済島)
 船行5泊6日。航海距離650km。

240年○月7日午前0時 狗邪韓國 (巨済島) 発 
240年○月7日午後7時 對馬國 (厳原港)
 船行19時間。航海距離110km。

240年○月8日午前6時 對馬國 (厳原港)
240年○月8日午後5時 一大國 (郷ノ浦港)
 船行11時間。航海距離 65km。

240年○月9日午前6時 一大國 (郷ノ浦港)
240年○月9日午後5時 末廬國 (福岡市西区田尻)
 船行11時間。航海距離 65km。

240年○月10日午前6時 末廬國 (糸島市波多江)
240年○月10日午後1時 伊都國 (春日市役所)
 陸行7時間。陸行距離 26km。

240年○月11日午前8時 伊都國 (春日市役所)
240年○月11日午前9時30分 奴國 (筑紫野市役所)
 陸行1.5時間。陸行距離 5.8km。

240年○月11日午前10時 奴國 (筑紫野市役所)
240年○月11日午前11時 不彌國(筑紫野市 荒船神社)
 陸行1時間。陸行距離 3.6km。



(つづく)
不定期、週末更新予定

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15.投馬國

いよいよ呪縛の水行、陸行、20日、10日、1月の箇所になります。
まずは20日、10日、1月を考慮せず行程を解読していくことにします。

不彌國(筑紫野市 荒船神社)に到着した使節団は、前日予め手配された女王國の小型帆掛け船に乗り込みます。帆船の航海士、一部の護衛係は帆船と共に末廬國に待機したままですが、残りの使節団15名ほどは、女王の都、邪馬壹國を目指したと憶測します。進貢は木箱20個以上です。帆掛け船は5艘くらい準備されたと憶測します。使節団は帆掛け船に乗り込み、午前12時頃次の経由地、投馬國に向かったと憶測します。

魏志倭人伝の記述は以下です。

南至 投馬國 水行二十日

20日を考慮しないので、以下に読み替えて解読します。

南水行 至 投馬國

不彌國(筑紫野市 荒船神社)から宝満川を下った河岸に投馬國があったと憶測します。

投馬國11


ここでは投馬國の国邑は、小郡市役所にあったと設定します。不彌國(筑紫野市 荒船神社)から投馬國(小郡市役所)まで、直線距離で11kmになります。

投馬國12

宝満川筑紫平野を蛇行しながら、筑後川に合流していたと憶測します。直線距離は11kmでも、水行距離は12kmくらいはあったと憶測します。
博多湾から那珂川を遡上した場合と違い、荒船神社から小郡市役所へは、宝満川の下りですが、それでも船頭による櫓漕ぎに変わりは無く、時速3kmくらいで水行し午後4時頃投馬國(小郡市役所)に到着したと憶測します。

240年○月1日午前6時 帯方郡 (開城) 発 
240年○月6日午後4時 狗邪韓國 (巨済島)
 船行5泊6日。航海距離650km。

240年○月7日午前0時 狗邪韓國 (巨済島) 発 
240年○月7日午後7時 對馬國 (厳原港)
 船行19時間。航海距離110km。

240年○月8日午前6時 對馬國 (厳原港)
240年○月8日午後5時 一大國 (郷ノ浦港)
 船行11時間。航海距離 65km。

240年○月9日午前6時 一大國 (郷ノ浦港)
240年○月9日午後5時 末廬國 (福岡市西区田尻)
 船行11時間。航海距離 65km。

240年○月10日午前6時 末廬國 (糸島市波多江)
240年○月10日午後1時 伊都國 (春日市役所)
 陸行7時間。陸行距離 26km。

240年○月11日午前8時 伊都國 (春日市役所)
240年○月11日午前9時30分 奴國 (筑紫野市役所)
 陸行1.5時間。陸行距離 5.8km。

240年○月11日午前10時 奴國 (筑紫野市役所)
240年○月11日午前11時 不彌國(筑紫野市 荒船神社)
 陸行1時間。陸行距離 3.8km。

240年○月11日午前12時 不彌國(筑紫野市 荒船神社)
240年○月11日午後4時 投馬國(小郡市役所)
 水行4時間。水行距離 12km。




(つづく)
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16.邪馬壹國

魏国の使節団は、投馬國で一泊したと憶測します。
帯方郡から女王の都、邪馬壹國への長期に及んだ遠征もいよいよ最終日です。午前6時に使節団は、再び女王國の小型帆掛け船に乗り込んだと憶測します。

魏志倭人伝の記述は以下です。

南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月

日数を考慮しないので、以下に読み替えて解読します。

南水行陸行 至 邪馬壹國 女王之所都

投馬國(小郡市役所)から再び南に宝満川を下ると、筑後川に合流します。ここから筑後川有明海に西南方向に流れています。宝満川筑後川の合流地点の南側の河岸で、帆掛け船を下船し、そこから南に陸行したと憶測します。
ここでは、筑後川に架かる国道3号線久留米大橋の南側(久留米市櫛原)で下船したと設定することにします。
投馬國(小郡市役所)から水行終了地点(久留米市櫛原)まで直線距離9km。水行距離もほぼ同じの9kmと憶測します。時速3kmで水行し午前9時、水行の終了地点(久留米市櫛原)に到着したと憶測します。

邪馬壹國11

久留米市櫛原からは、南に陸行し女王の都、邪馬壹國に到達します。筑紫平野筑後川より南側の耳納連山八女山地筑肥山地の西北の筑後地域久留米、福岡県広川町、筑後、八女、みやまに、女王の都、邪馬壹國があったと憶測します。使節団一行と先導を務める女王の國の官吏たちは、ようやく遠征を終え、女王國の都の邪馬壹國に到達します。

邪馬壹國12


魏志倭人伝帯方郡から邪馬壹國への行程の記述を、以下の基準を設定して、解読してきました。

1.水行20日、水行10日、陸行1月の日数を考慮しない。
2.方位はGoogle Mapsの北極点を北としながら磁北との偏角を考慮する。
3.2地点間の距離は直線距離で示されている。
4.1里=53.3mと設定する。
5.移動は、船行4-6km/時、陸行4km/時、水行、川の上り2km/時、下り3km/時。

解読した結果、12日間の行程で、女王国の都、邪馬壹國に辿り着くことが出来ました。

ここでは、中心点の広川町役場邪馬壹國の女王の都があったと仮比定することにします。
久留米市櫛原から広川町役場まで、直線距離10km。Yahoo Japan 地図久留米市櫛原から邪馬壹國の仮比定地である、広川町役場への徒歩ルートを検索してみると、距離10.4km、標高差39m。陸行を時速4kmとして午前12時頃に邪馬壹國に到着したと憶測します。

邪馬壹國13


240年○月1日午前6時 帯方郡 (開城) 発 
240年○月6日午後4時 狗邪韓國 (巨済島)
 船行5泊6日。航海距離650km。

240年○月7日午前0時 狗邪韓國 (巨済島) 発 
240年○月7日午後7時 對馬國 (厳原港)
 船行19時間。航海距離110km。

240年○月8日午前6時 對馬國 (厳原港)
240年○月8日午後5時 一大國 (郷ノ浦港)
 船行11時間。航海距離 65km。

240年○月9日午前6時 一大國 (郷ノ浦港)
240年○月9日午後5時 末廬國 (福岡市西区田尻)
 船行11時間。航海距離 65km。

240年○月10日午前6時 末廬國 (糸島市波多江)
240年○月10日午後1時 伊都國 (春日市役所)
 陸行7時間。陸行距離 26km。

240年○月11日午前8時 伊都國 (春日市役所)
240年○月11日午前9時30分 奴國 (筑紫野市役所)
 陸行1.5時間。陸行距離 5.8km。

240年○月11日午前10時 奴國 (筑紫野市役所)
240年○月11日午前11時 不彌國(筑紫野市 荒船神社)
 陸行1時間。陸行距離 3.8km。

240年○月11日午前12時 不彌國(筑紫野市 荒船神社)
240年○月11日午後4時 投馬國(小郡市役所)
 水行4時間。水行距離 12km。

240年○月12日午前6時 投馬國(小郡市役所)
240年○月12日午前9時 水行終了地点(久留米市櫛原)着
 水行3時間。水行距離 9km。

240年○月12日午前9時 陸行開始地点(久留米市櫛原)発
240年○月12日午前12時 女王の都、邪馬壹國(広川町役場、仮比定地)
 陸行3時間。陸行距離 10.4km。

次回は、水行20日、水行10日、陸行1月を考察することにします。


(つづく)
不定期、週末更新予定

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

17.水行、陸行、船行、1日=11里(586m)

水行20日、水行10日、陸行1月を考慮せず魏志倭人伝を解読して、邪馬壹國は、福岡県筑後地方にあったことが分かりました。
では、水行20日、水行10日、陸行1月は、何里だったのでしょう。

三国志が書かれた時代、では、距離の長さ示す単位には「里」が用いられていて、1里=53.3m程度であったと推測します。
一方、邪馬壹國を都とする女王國では、距離の長さを示す単位には、「日」が用いられていたと推測します。時間の長さを示す単位「日」と同じですが、1日=24時間の時間の長さを示すのではなく、1日=○mの基準に基づく距離の長さも「日」を単位として示したと推測します。
では、1日は何mだったのでしょう。

魏志倭人伝に以下の記述があります。

女王國東 渡海 千餘里 復有國 皆倭種
又有侏儒國 在其南 人長 三四尺
去女王 四千餘里 又有 裸國 黒齒國 復在其東南 船行一年可至參


ここは明確に、侏儒國および裸國 黒齒國女王國との位置関係を
女王國を起点として放射的に記述していると推測します。
帯方郡から邪馬台國への経路は、ここの文章とは異なりますから、
連続的に記述されていると憶測します。

核心は、最後の文章の記述です。

裸國、黒齒國女王國(邪馬壹國)から4000里、東南に船行1年のところにある。と解釈できます。
4000里=1年(365日)であると「里」と「日」の換算値が記述されていたのです。
4000里÷365日=10.96里。1日=11里。1里=53.3mと設定していますので、水行、陸行、船行の1日は、53.3mx11里=586m。1日=586mだったと推測できます。

1日=586mを基準として、魏志倭人伝不彌國から投馬國、邪馬壹國への行程を見直してみます。

南至 投馬國 水行二十日
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月


不彌國から投馬國を経由して邪馬壹國までの水行は合計30日です。1日586mと設定しましたので、586mx30日=17.6km。不彌國の国邑と設定した筑紫野市荒船神社から17.6kmの地点をGoogle Mapsで見てみます。ほぼ筑後川流域にあたります。
水行終了点を久留米市櫛原としましたので、筑紫野市荒船神社からの距離19km。水行は32.4日となります。1日=586mの設定で問題なさそうです。

1日11里11

投馬國を見直してみます。不彌國(荒船神社)から水行20日(1日586mの設定ですので、11.7km)の地点をGoogle Mapsで見てみます。小郡市役所は、11km地点なので、少し南に再設定することにします。少し南の宝満川沿いの小郡市大崎媛社神社(七夕神社)があります。ここを投馬國の国邑と再設定することにします。Google Maps荒船神社から直線距離11.8km、水行20.1日(11.8km÷586m)になります。

1日11里12

さて、投馬國から邪馬壹國への行程を見直し、邪馬壹國を最終比定してみます。
投馬國の国邑(小郡市媛社神社)から水行終了点(久留米市櫛原)まで、直線距離で7.8km、水行13.3日(7.8km÷586m)になります。
水行終了点から南に陸行1月(30日)。1日=586mなので、陸行は17.6km(586m x 30日)。水行終了地点、久留米市櫛原から17.6kmの地点をGoogle Mapsで見てみます。
邪馬壹國は、矢部川流域にあったことが分かります。

1日11里13

邪馬壹國矢部川流域のどこであるかの比定は、魏志倭人伝からの解読では困難です。
久留米市櫛原から南に15kmのところの矢部川の北の堆積平野を邪馬壹國と比定することにします。、陸行25.6日(15km÷586m)になります。

以降の記事で邪馬壹國の位置を考察する基点は、八女市役所にすることにします。

1日11里14


240年○月1日午前6時 帯方郡 (開城) 発 
240年○月6日午後4時 狗邪韓國 (巨済島) 着
 船行5泊6日。航海距離650km。

240年○月7日午前0時 狗邪韓國 (巨済島) 発 
240年○月7日午後7時 對馬國 (厳原港) 着
 船行19時間。航海距離110km。

240年○月8日午前6時 對馬國 (厳原港) 発
240年○月8日午後5時 一大國 (郷ノ浦港) 着
 船行11時間。航海距離 65km。

240年○月9日午前6時 一大國 (郷ノ浦港) 発
240年○月9日午後5時 末廬國 (福岡市西区田尻) 着
 船行11時間。航海距離 65km。

240年○月10日午前6時 末廬國 (糸島市波多江)発
240年○月10日午後1時 伊都國 (春日市役所) 着
 陸行7時間。陸行距離 26km。

240年○月11日午前8時 伊都國 (春日市役所)発
240年○月11日午前9時30分 奴國 (筑紫野市役所) 着
 陸行1.5時間。陸行距離 5.8km。

240年○月11日午前10時 奴國 (筑紫野市役所)発
240年○月11日午前11時 不彌國(筑紫野市 荒船神社)着
 陸行1時間。陸行距離 3.8km。

240年○月11日午前12時 不彌國(筑紫野市 荒船神社)発
240年○月11日午後4時30分 投馬國(小郡市媛社神社)着
 水行4.5時間。水行距離 13km。

240年○月12日午前6時 投馬國(小郡市媛社神社)発
240年○月12日午前9時 水行終了地点(久留米市櫛原)着
 水行3時間。水行距離 7.8km。

240年○月12日午前9時 陸行開始地点(久留米市櫛原)発
240年○月12日午後1時 女王の都、邪馬壹國(矢部川流域の堆積平野)着
 陸行4時間。陸行距離 15km。

(つづく)
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