畿内説、九州説、百花乱立の邪馬壹國の比定地 過去の考古学、民俗学の定説に囚われ過ぎているのか プロの歴史学者も、アマチュアの歴史愛好家も 迷宮を彷徨う 魏志倭人伝の呪縛の29文字 南至投馬國 水行二十曰 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 もし、二十日 十日 一月の記述が無かったならどうだろう 2015年、今、邪馬壹國の比定をGoogle Mapsから試みた


スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

00.初めに

2015年6月、ある本を読んだのが、きっかけでした。 
「邪馬台国は四国にあった」の章タイトルには、「とんでもない」と感じました。

ただ、気になって「邪馬台国はどこにあったのか」、定説本を購入して読んでみようとAmazon.co.jpで検索しました。しかしながら、カスタマーレビューを参考にしても、定説本と思える本に辿り着かず、それならば、独力で魏志倭人伝を調べて、自分なりに邪馬壹國を比定しようと思った次第です。

取り敢えずウキペディア魏志倭人伝を調べました。邪馬壹國への行程は僅か11文章、文字にして384字しかないのには、驚きました。これなら初心者でも解読できるのではと感じました。

諸先輩方の研究の見解も、何箇所かサイトで拝読させていただきました。方位読替説放射状説Or説云々、色々な見解があり決定的な定説が無いことが、あらためて分かりました。

でも僅か384字しかないのに、何故諸説が乱立しているのか。これは、本文の記述に辻褄が合わない部分があるに違いない。
それがどの部分か分かれば、解読の鍵になるのではと考えました。

帯方郡から邪馬壹國への行程は、距離(里)、方位、日数の3変数で記述されています。

また、経由地8箇所の簡略な情景の記述があり、これらを解読しながら最終到達地、邪馬壹國を特定していくことになります。

さらに魏志倭人伝には、邪馬壹國(女王國)の周辺地域を距離、方位、日数で示す文章が6箇所あり、これらも解読の重要な鍵になります。

初心者にとって情報量は十分過ぎると感じ、無謀ではありすが、邪馬壹國の比定の考察を始めることにしました。

(つづく)
不定期、週末更新予定
スポンサーサイト

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

01.魏志倭人伝の解釈の錯綜

邪馬壹國の位置に対する見解が、何故これほど錯綜しているのか。
諸説を解析した結果、魏志倭人伝の以下の記述に起因することが分かりました。

南至投馬國 水行二十曰
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月


平易に読むと、20日+10日+1月=2月となります。
1日の移動を20kmとだいぶ短く見積もっても、2月で1200km。
博多湾を起点とすると
盛岡、弘前、ウラジオストック、天津、南京、台北、石垣島、小笠原諸島が1200kmの範囲になります。

博多湾から12000km


全く辻褄が合わないのです。
筆者が意図した罠なのか、あるいは公知の虚偽なのか。
この記述を解読するには、仮説を提案し立証せざるを得ないのです。

諸研究者方が提案された仮説を分類すると、以下に集約されると思います。
  1.1日の移動距離を短くする。
  2.起点は不彌國ではなく、別の場所であったとする。
  3. 投馬國→邪馬壹國の連続ではなく、
    A地点→投馬國。A地点→邪馬壹國とする。
  4.水行10日あるいは陸行1月と、連続ではないとする。
  5.1-4の組み合わせ。
  6.その他
  7.20日、10日、1月を考慮しない。

初心者にとって取り組みやすいのは、7だと思いました。
1-4は多くの研究者方が、考察、検証をされましたが、まだ定説には至らないのです。

一方、7の仮説の立証は容易です。
20日、10日、1月を考慮せず、邪馬壹國の位置を比定し、
魏志倭人伝全体の記述と整合性が成り立つなら、
仮説が立証出来たことになるからです。
既に一部の研究者の方々は、7を立証されているようです。
諸先輩方の歩まれた道を、私も検証していきたいと思います。

7の仮説を取りますので、記述は以下のように書き変えて、解読することにします。

「南水行 至投馬國」
「南水行陸行 至邪馬壹國 女王之所都」


また、以降の記事で見解を表現する言葉は、次のように定義します。
断定 = 魏志倭人伝、および三国志(魏志、呉誌、蜀誌)の記述に
    基づき、正しいと結論したこと。
推測 = 魏志倭人伝、および三国志の記述に基づき、可能性があると
    結論したこと。
憶測 = 仮説、もしくは他の文書に基づき、可能性があると
    結論したこと。

(つづく)
不定期、週末更新予定



テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

02.方位と距離の基準

(1) 東西南北は、どのように判断したのか

この時代は、指南魚(古代の羅針盤)が使用されていたと憶測 し、磁北を北として、東西南北を観測していたと憶測します。
魏志倭人伝の解読には、北極点を北としたGoogle Mapsの方位を用いることにします。
磁北点とは、ずれがありますので、解読の際には、偏角を常に念頭において進めることにします。
方向は、8方位で示されています。そこで、Google Mapsの 8方位 ± 22°30″を許容範囲として解読します。
例えば、東南であれば、南南東~東南東を範囲とします。

(2) 距離は、どのように測定したのか

歩測、目測、手用測定儀、天文測量、を駆使して、距離を測定していたのではと憶測します。
短距離は歩測、中距離は目測と手用測定儀、長距離は天文測量が用いられたのでしょう。
地図も精度の高いものが、作成されていたと憶測します。距離を示す場合は、地図を念頭においていたので、直線距離で示したと憶測します。

(3) 距離の単位、1里=何mか

1里を示す基準があり、魏志倭人伝を含めた三国志は、全篇同じ1里の基準で記述されたと推測します。
では、1里=何mなのか。
 
魏志倭人伝には、里で示されている箇所が、15箇所あります。
場所が比定されている以下の、一大國の記述をより推測することにします。

 又南渡一海千餘里 名曰瀚海 
 至一大國
 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 
 方可三百里


一大國壱岐島と断定します。

長崎県企画振興部のホームページ「長崎のしま」によると、壱岐島が、以下のように紹介されています。
 「福岡県対馬の中間地点の玄界灘に浮かぶなだらかな地形の島で、南北17km、東西15km

Google Mapsで見てみると、丸い形をした、標高100m以下の山しかない、なだらかな島であることが分かります。
この壱岐島の大きさは、船上から観測すれば、精度良く、目測できたと憶測します。

壱岐島概観

さて、方可300里の解釈ですが、300里平米とすると、√300=17.3  
正方形とすると、島の1辺は、17.3里となります。
17.3里=15-17km 1里=1kmで、少し長く思えます。
方可300里は、1辺が300里と推測します。
島の東西もしくは南北の距離15-17kmを目測して、300里と記述したと推測します。
15-17kmの中心値16kmを採用して、16km=300里(1里=53.3m)と計測したと推測します。
壱岐島の大きさの計測値を基準値として、1里=53.3mと設定することにします。

壱岐島平面


(つづく)
不定期、週末更新予定

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

03.1里=53.3mの考察

魏志倭人伝に記述されている1里=何mかを、一大國(壱岐島)の大きさの計測値、1辺=300里から推測しました。
壱岐島は、南北17km、東西15kmですから、15-17kmの中心値16kmを採用して、300里=16km。1里=53.3mを基準と設定しました。

この1里=53.3mを、三国志の記述から妥当かを考察してみます。考察には、以下のホームページを利用させていただきました。
責任者の方々には大変感謝いたします。
「三国志(原文)を全文検索」
  http://www.seisaku.bz/sangokushi.html 
「漢籍完訳プロジェクト IMAGINE」 
  http://www.project-imagine.org

三国志には、距離を里で記述した箇所が、随所に見られます。
武帝紀第一張樂于張徐傳第十七の2巻を考察しました。訳文に1里=53.3mと換算した数値を示しました。また参考値として1里=400mとした場合の換算値を示しました。

1. 國志卷一/魏書一/武帝紀第一

距離を里で記述した箇所は、7箇所ありました。
2つが同じ章で記述されている以下を考察してみます。

(本文)
「秋七月大水、傍海道不通、田疇請爲鄉導、公從之。引軍出盧龍塞、塞外道絕不通、乃塹山堙谷五百餘里、經白檀、歷平岡、涉鮮卑庭、東指柳城。未至二百里、虜乃知之。尚熙與蹋頓遼西單于樓班、右北平單于能臣抵之等將數萬騎逆軍。」
(訳文)
秋七月、洪水となり、海岸沿いの道は不通になった。田疇が郷導(道案内)したいと申し出たので、公はそれを聞き入れた。軍勢を率いて盧龍塞を出たが、塞外の道は断絶して不通であったため、山を壍って谷を堙ぐこと五百里(26.7km)余り、白檀を経過し、平岡を通過し、鮮卑の地を渉り、東へと柳城を目指した。二百里(10.7km)手前まで来て、虜どもはやっとそれに気付いた。袁尚・袁煕は蹋頓・遼西単于楼班・右北平単于能臣抵之らとともに数万騎を率いて迎え撃つ

(参考値 1里=400m)
   500里=200km
   200里= 80km

1里=53.3mは臨場感があり、無理が無いように思えます。
 1里=400mは長いと感じます。

2. 三國志卷十七/魏書十七/張樂于張徐傳第十七

距離を里で記述した箇所は、2箇所ありました。最初に記述されている以下を考察してみます。

(本文)
「灊中有天柱山、高峻二十餘里。道險狹、步徑裁通、蘭等壁其上。」
(訳文)
灊県には天柱山というのがあり、高く鋭く二十里(1066m)余りもあり、道は狭く険しく、歩道は僅かに通じている程度で、陳蘭らはその頂上に城壁を築いている 。

(参考値 1里=400m)
  20里=8000m 

安徽省旅行局のホームページより
天柱山。
「安徽省西南部の潜山県内に位置し、、(一部略)、奇峰が連なり、天柱、飛来、天獅、蓮花、天池など45の山峰があり、うち海抜1489.2m天柱峰は、一峰が天高く聳える。」

Google Mapsで、天柱峰を見てみました。

天柱山

(つづく)
不定期、週末更新予定

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

04.帯方郡の郡治

さて、2地点間の距離は直線距離で示し、1里=53.3mと設定しましたので、これを元に、帯方郡の郡治の位置を解読してみます。解読する鍵は、以下の文章です。

 從郡至倭 循海岸水行 歴韓國
 乍南乍東 到其北岸 狗邪韓國 七千餘里


狗邪韓國に位置が決まれば、帯方郡の郡治の位置は、ほぼ決まります。
狗邪韓國は、朝鮮半島南岸、対馬海峡に面したところにあったと推測します。
仮に、狗邪韓國釜山市に設定すると、釜山市から7000里に帯方郡の郡治があるわけです。
帯方郡の郡治は、朝鮮湾から京畿湾に至る、朝鮮半島西側にあり、海岸線か、海岸から少し内陸に入った河口にあったのではと推測します。
釜山市から7000里(373km)の朝鮮半島西岸の海岸線、もしくは内陸に入った河口は、開城市になります。ですので、帯方郡の郡治は、開城市にあったと憶測します。
1里=40mと設定するならば、帯方郡の郡治は、ソウル(漢城)の少し南、
1里=70mと設定するならば、帯方郡の郡治は、平壌の少し南になります。

釜山


では、開城市から7000里(373km)をGoogle Mapsで見てみましょう。

帯方郡

(つづく)
不定期、週末更新予定


テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

05.東北アジアの諸国

ここで、魏志東夷の記述から、東北アジアを考察してみることにします。

高句麗

 在遼東之東千里 
 南與朝鮮濊貊 東與沃沮 北與夫餘接 
 都於丸都之下 方可二千里


遼東郡国境から、東1000里(53.3km)の丸都(吉林省集安市)に都があり、南は、東は沃沮と接する。一辺が2000里(107km)であった。と憶測します。

東沃沮

 在高句麗蓋馬大山之東 
 濱大海而居 其地形東北狹 西南長 可千里 
 北與挹婁夫餘 南與濊貊接


 高句麗との国境、蓋馬高原の東、日本海に面したところにある。東北が狭く西南が長い。一辺が1000里(53.3km)と憶測します。南はと接する。



 南與辰韓 北與高句麗沃沮接 
 東窮大海 今朝鮮之東 皆其地也


南は辰韓、北は高句麗沃沮と接する。東は、東朝鮮湾に接する。かつての朝鮮の東側は、今はほぼとなった。と推測します。



 在帶方之南 
 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里 
 有三種 一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁韓 


帯方郡の南にある。南はと接する。一辺4000里(南北に213km)。と憶測します。三国あり、馬韓、辰韓、弁韓からなる。

 馬韓在西
 辰韓在馬韓之東
 弁辰與辰韓雜居


馬韓は西側、辰韓馬韓の東にあり、弁辰(弁韓の誤り?)は辰韓と雑居している。

州胡

 又有州胡 在馬韓之西 海中大島上 

馬韓の西の海(黄海)あったと推測します。

以上の解読を元に、Google Mapsにこれらの国を示しました。国境は、出来るだけ山脈の尾根になるようにしました。

東北アジア


魏志東夷伝を解読して、弁辰の記述でとても気になるところがありました。

 國出鐵 韓 濊 倭 皆從取之 
 諸巿買皆用鐵 如中國用錢 
 又以供給二郡


弁辰は、鉄が出る。韓、濊、倭の人々がこれを取る。中国の銭のように皆が鉄を通貨のように売買に使用している。また、鉄は帯方郡、楽浪郡に供給されている。

鉄は、武器(刀など)、農耕器具(鍬、鎌など)など、重要な道具の原料であった訳です。それだけに、この記述には大変違和感を感じます。疑問点は以下です。

1. 戦略物質の源の鉄鉱山を弁辰の国が管理せず、
   国外の馬韓、濊、倭の人々が、何故自由に採掘していたのか。
2. 一体誰が、鉄鉱山の採掘権を掌握していたのか。
3. この地域で鉄の最大の消費国は何処であったか。

  高句麗 戶三萬
  東沃沮 戶五千
  濊    戶二萬
  馬韓  總十餘萬戶
  弁辰  總四五萬戶


(つづく)
不定期、週末更新予定


テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

06.邪馬壹國、女王之所都

女王の都、邪馬壹國の位置を解読するため、以下の3つの鍵を設定しました。

 1.方位は、指南魚(古代の磁石)の磁北(Google Mapsの北極点
   で代用)を基準とした8方位
 2.距離は、1里=53.3m。 2地点の距離は直線距離で示す。
 3.帯方郡の郡治は、開城

この3つの鍵で行程を解読しなくても、邪馬壹國のおおよその位置は分かります。魏志倭人伝の記述から解読してみます。

 在帶方東南大海之中
 自郡至女王國 萬二千餘里
 計其道里 當在 會稽東治之東


帯方郡(開城)の東南(南南東~東南東の範囲)の大海の島にある。
女王國まで、距離12000里(640km)。
その位置を地図で計ると女王國は、會稽の東側の海岸の東(東南東~東北東の範囲)になる。と憶測します。

會稽郡治は、維基百科(中国語版ウキペディア)によると、代に今の江蘇蘇州に設置したが、東漢中期に今の浙江紹興に移した。と記述されています。
會稽郡の郡治は、紹興にあったと憶測します。

では、開城の南南東~東南東の範囲、距離640km、紹興の東南東~東北東の範囲をGoogle Mapsで見てみます。

邪馬壹國女王の都1

長崎、佐賀、宇佐を結ぶ開城から640kmのラインの付近に邪馬壹國はあったと憶測されます。

もし、1里を75mに設定すると、帯方郡の郡治は、狗邪韓國(釜山)から7000里(525km)の平壌になり、平壌から12000里(900km)の薩摩川内、えびの、日向、延岡、宇和島、新居浜、高松、姫路を結ぶ平壌から900kmのラインの付近が邪馬壹國の位置になります。

また、1里を45mに設定すると、帯方郡の郡治は、狗邪韓國(釜山)から7000里(315km)のソウル(漢城)となり、漢城から12000里(540km)の佐世保、唐津、福岡市、北九州を結ぶ漢城から540kmのラインの付近が邪馬壹國の位置になります。

邪馬壹國女王の都2
邪馬壹國女王の都3


さて、女王の國はどれくらいの版図であったのか。

周旋可五千餘里

周旋5000里を真円とすると、5000里÷3.14=1592里、1里=53.3mと設定しているので、直径1592里(84.9km)の範囲であったと憶測します。
周旋5000里を正方形とすると、5000里÷4=1250里。一辺1250里(66.6km)四方の範囲となります。

長崎、佐賀、宇佐を結ぶラインの中央の久留米を中心とした直径85kmの円をGoogle Mapsで見てみましょう。

邪馬壹國版図2



(つづく)
不定期、週末更新予定

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

07.帯方郡からの使節団

さて、これから、帯方郡から邪馬壹國への行程の記述を解読してきます。行程は、魏志倭人伝に記述されている、正始元年帯方郡の官吏梯儁らが、女王の都、邪馬壹國の女王を謁見をした時と想定することにします。大陸の国の官吏が公式に、日本列島を訪問するのは、この時が有史以来、初めてであったと憶測します。
斉王(曹芳)から指示を受けた、詔書・印綬および進貢を届けるために梯儁らは、帯方郡を出発します。

 今以汝爲 親魏倭王 假金印 紫綬 裝封 付帶方太守 假授汝
 其綏撫種人 勉爲孝順 
 汝來使 難升米 牛利、涉遠道路 勤勞 
 今以 難升米爲 率善中郎將 牛利爲 率善校尉 假銀印 青綬
 今以
  絳地交龍錦五匹 
  絳地縐粟ケイ 十張 
  茜絳五十匹 
  紺青五十匹
 答汝所獻貢 直又特賜汝
  紺地句文錦三匹
  細班華ケイ五張
  白絹五十匹
  金八兩
  五尺刀二口
  銅鏡百枚
  真珠 鉛丹 各五十斤


印綬は、卑弥呼への金印、難升米、年利への銀印。
進貢は相当の数量です。1張、1匹を1巻とすると反物170巻。これに金8両、刀二口、銅鏡100枚、真珠50斤、鉛丹50斤。封印された木箱の数は20個以上、1箱10kgとすると合計200kg以上であったと推測します。

使節団の団長は梯儁ですが、使節団は何人いたのか。
副団長2名。進貢運搬係7名。護衛係5名。航海操縦士4名。行程調査係1名。記録係1名。総勢20人以上と憶測します。
この時代、帯方郡から女王國への民間の定期船はなく、使節団は、魏国の専用船で出かけたと憶測します。主船は魏国のエース急の帆船、もしかしたら急遽造船した新船であったかも知れません。最新鋭の帆船は、全長は15-20mくらいあったと憶測します。万一主船が座礁もしくは難破した場合、進貢を届けることが出来ません。船団は1艘単独ではなく2艘以上で構成され、万一の時は、副船に人員、進貢を移し変える用意をしていた。副船もエース急の帆船であったと憶測します。

 とはいえ、初めての日本列島への航海ですから、水先案内人として、女王國の熟練の航海士が各船に同船し、さらに女王國の帆船が船団を先導したと憶測します。

 使節団が行く、帯方郡から邪馬壹國への行程は、すでに確立されていたルートであったと憶測します。安全、無理が無く、経済的なルートであったと想定して行程を解読していくことにします。

狗邪韓國へ


(つづく)
不定期、週末更新予定

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

KATS.I

Author:KATS.I
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
フリーエリア
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

カレンダー
06 | 2015/07 | 08
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。