畿内説、九州説、百花乱立の邪馬壹國の比定地 過去の考古学、民俗学の定説に囚われ過ぎているのか プロの歴史学者も、アマチュアの歴史愛好家も 迷宮を彷徨う 魏志倭人伝の呪縛の29文字 南至投馬國 水行二十曰 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 もし、二十日 十日 一月の記述が無かったならどうだろう 2015年、今、邪馬壹國の比定をGoogle Mapsから試みた


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44.倭國の都

扶桑國の比定地の考察を通典を元に行います。通典の修史は801年で、紀元前2500年頃からの時代の750年が編纂されています。桓武天皇が都を長岡京から平安京に遷都した時代に編纂されいます。エジプトではクフ王のピラミッドが建設され、日本では三内丸山遺跡が建設された紀元前2500年頃から、都が平城京にあった奈良時代の750年頃までのことが、中国の法令制度を中心に記述されています。また、周辺国に関する記述は、邊防の全16巻にまとめられています。

通典邊防の第一巻の序列に、扶桑國に関する下の記述があります。

倭國一名日本在 中國直東
扶桑國復在 倭國之東 約去中國三萬里 蓋近於日出處

倭國、もう一つの名、日本は、中國の真東にある。
扶桑國倭國の東にある。中國から約3万里である。日の出るところである天蓋(天と地の境界)に近い。

1.倭國はどこにあったか
2.去中國の中國の起点はどこか、
3.そして三萬里は何kmか

これらが分かれば、扶桑國の比定地を特定することが出来ます。これを考察していきます。

1.倭國はどこにあったのか

邊防第一巻にある倭伝の中の記述は以下です。

其王理邪馬臺國 或云邪摩堆 去遼東萬二千里 在百濟 新羅東南

其の倭國の王は、遼東を一萬二千里離れた邪馬臺國、ある者は邪摩堆と云う、をおさめる。邪馬臺國は、百濟・新羅東南に在る。

邪馬臺國は、百濟・新羅東南に在ると記述されています。
去遼東萬二千里は、あとで考察することにします。
百済の都は、時代ともに変遷し、の時代の475年までは漢城(ソウル)に、475年からの時代の538年までは熊津(忠清南道公州市)に、そして滅亡するの時代の660年までは、泗沘(忠清南道扶餘郡)にありました。
一方新羅の都は、慶州にありました。
地図で百濟・新羅東南を見てみましょう。

漢城1

熊津1

泗沘1

慶州1

東南の範囲を東南東から南南東とすると、福岡県、熊本県、大分県、宮崎県、山口県、愛媛県、高知県が該当することになります。広島県以東は該当しないことになります。

通典の記述によれば、750年頃まで倭國の王が理した邪馬臺國は、依然として九州にあった可能性が高いことが分かります。

三国志魏志倭人伝の記述より、邪馬壹國は、福岡県八女市にあったと比定しました。この邪馬壹國は、変遷したのかどうかを歴代の史書より考察してみます。

以下のサイトを参照し、歴代の史書の倭國に関する記述をまとめました。

中國哲學書電子化計劃
http://ctext.org/zh



歴代の史書が記述する倭國

歴史書
記述年
(編纂)
(修史年)
倭の所在地 倭の都に関する記述
前漢書
紀元前206年
ー23年
(班固、班昭)
( 89年)
樂浪海中有倭人


後漢書          
    6-189年
(范蔚宗 )
 (445年)
倭在韓東南大海中 其大倭王
居邪馬臺國

建武中元二年
(57年)
倭奴國奉貢朝賀 

倭國之極南界也

桓靈閒
(146-189年)
倭國大亂
更相攻伐歷年無主

有一女子名曰卑彌呼
於是共立為王
三国志
  184-265年
(陳寿)
 (280年)
倭人在帶方東南大海之中 邪馬壹國
女王之所都

景初二年六月
(238年)
倭女王遣大夫難升米等詣郡
晉書
 265ー420年
(房玄齢ほか)
 (648年)
倭人在帶方東南大海中
宋書  
 420-479年
(沈約)
  (487年)
倭國在高驪東南大海中
南斉書
  479-520年
(蕭子顕)
  (520-537年)
倭國在帶方東南大海島中 漢末以來立女王
梁書  
 520-557年
(姚思廉)
  (629年)
祁馬臺國
即倭王所居
北史            
  386ー618年
(李延壽)
  (659年)
倭國在百濟新羅東南

水陸三千里於大海中
居於邪摩堆
則魏志所謂邪馬臺者也

邪馬臺國即俀王所都 
 
其王與世清
(608年)
來貢方物 此後遂絶
南史  
 439ー589年
(李延壽)
 (659年)
倭國 
其先所出及所在 
事詳北史
隋書  
 581-618年 
(魏徴)
 (656年)
倭國在百濟新羅東南

水陸三千里於大海之中
都於邪靡堆
則魏志所謂邪馬臺者也 

復令使者隨清來貢方物(608年)
此後遂絶
通典
 紀元前2500年-750年  
(杜佑)
(801年)

在百濟新羅東南
倭國一名日本
其王理邪馬臺國 
或云邪摩堆
旧唐書
 618ー907年
(劉昫)
 (945年)
倭國者古倭奴國也

在新羅東南大海中


日本國者佞國之種也
貞觀五年(631年)
遣使獻方物

至二十二年(648年)
又附新羅奉表 以通起居

或云日本舊小國併倭國之地


前漢書(89年修史)から旧唐書(945年修史)までを見てみると、倭人倭國は、半島の東南に在ったと記述されています。
興味深いのが後漢書(445年修史)に、建武中元二年(57年)に奉貢朝賀があり倭奴國倭國の南端の境界地にあったと記述されていることです。

魏志倭人伝(280年修史)に、以下の記述があります。
女王國からそれより北は、國々の家の数、距離、方向は容易に記述することが出来る。その他の國は遠く離れていて、詳しいことは分からない。

邪馬壹國は、女王國の極南界にあったのです。これは倭奴國と同じ位置です。邪馬壹國の前身が倭奴國ではと憶測します。

後漢書(445年修史)には以下の記述があります。
桓帝・霊帝の時代(146-189年)に倭國は大乱して王が不在であった。
その後、卑彌呼を王として共立した。
倭王の居住地は邪馬臺國である。

卑彌呼を王とした時に、倭奴國の名前を邪馬壹國に変えて、女王の都としたのではと憶測します。

後世の旧唐書(945年修史)に、
倭國の者は、過去は倭奴國の者也と記述されています。
この記述から、元々は、倭國の都の名前は、邪馬壹國、邪摩堆國ではなく、倭奴國だったのではと憶測します。

邪馬壹(臺)國は、後漢末期(189年頃)から魏・晋・宋・斉・梁(557年)まで、倭國王の都であったと歴代の史書に記述されています。この間邪馬壹(臺)國が変遷したことを示す記述は見当たらないのです。

の時代(557-618年)に 北史(659年修史)、随書(656年修史)に記述されているように、邪馬壹(臺)國の名前が邪摩堆國に変わったと推測されます。魏志(280年修史)に言う邪馬臺の所であると記述されているので、邪摩堆國は、邪馬壹(臺)國と同じ場所にあったことが分かります。
しかし、後漢末期(189年頃)からの時代(557年)まで約370年間続いていた都の名前がの時代(557-618年)に変わったのは、何か特別な事情があったのではと思われます。
依然としての時代は、北史(659年修史)、随書(656年修史)の記述から邪摩堆國倭國王の都であったことが窺えます。
の時代(618年~907年となると、史書通典(801年修史)の記述は以下に変わります。
邪馬臺國は、倭國の王の理するところ。
の時代(618年~907年に、邪馬臺國倭國の王の都ではなくなり、王の都は他の地に変遷したことが窺えます。

このことから考察すると、福岡県八女市は、後漢末期からの時代まで、倭奴國、邪馬壹(臺)國、邪摩堆國と名前を変えながらもずっと倭國の都として存在していたと憶測します。
の時代(618年~907年)となって、7世紀始め(618-648年頃)倭國の都は福岡県八女市から別の場所に変遷したと憶測します。

どこに変遷したのでしょうか。
半島から見た倭國の位置は、前漢(紀元前206年)・後漢・三国・晋・宋・斉・梁・隋(~618年)の間、起点の地名は時代により、楽浪・韓・帯方郡・高驪・百濟新羅と推移していますが、一貫して東南の海中にある、と記述されています。
そして、の時代(618年~907年)の史書、通典(801年修史)、旧唐書(945年修史)の記述も、百濟新羅の東南、および新羅の東南と記述されています。倭國の位置は変化していないのです。変遷した倭國の王の都は、依然として倭國のある北部九州の中にあったと憶測します。

通典(845年修史)に記述されている倭國邪摩堆國福岡県八女市)を含む、北部九州地方であったと考察するに至りました。

日本書紀(720年完成)によると神武天皇(在位紀元前660年ー紀元前581年)は45歳の時に、日向国高千穂宮から大和州を目指してに移動を始めました。(神武東征。紀元前615年)

神武東征の672年後、57年、倭奴國に奉貢朝賀します。
倭國の王の都は倭奴國にあり、それは現在の福岡県八女市であった。

2世紀末に、倭國に大亂があり、しばらく王は不在であった。
やがて卑彌呼を王として共立し、倭奴國邪馬壹國と改名された。
238年、卑彌呼難升米を派遣し帯方郡を訪問させた。
邪馬壹(臺)國は、以降の時代(557年)まで、倭國の王の都であった。の時代(581年~618年)に、名前を邪摩堆國と変えたが、引き続き倭國の王の都であった。
の時代(618年~907年)となり倭國の王の都は別の場所に変遷した。
そして旧唐書(945年修史)の648年の記述を最後に倭國の訪中、訪半島の記録は、史書に記述されなくなるのです。
北史(659年修史)、隋書(656年修史)には、608年を最後として、以後途絶えたと記述されています。

別の見方をすれば、7世紀初め(飛鳥時代の初期)までは、倭國は、日本國とは別の國として、北部九州に存在していたのです。

旧唐書(945年修史)に以下の記述があります。

或云 日本舊小國 併倭國之地
ある者が云うことによると、日本は古くは小さな國だったが、
倭國の地を併合した。

併合したのは、(581-618年)の末期~(618-907年)の初期の608年から648年頃だったと憶測します。
これは、飛鳥時代(592-710年)の前半、日本書紀が完成する720年の少し前の頃となります。


次回は、通典に述されている以下の文章を考察します。

中國中國の起点はどこか、
三萬里は何kmか



(つづく)
不定期、週末更新予定

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45.去中國

その後の考察より、以下を訂正しました。
1)穆國の比定地をパキスタンムルターンではなくトルクメニスタンテジェンTejen)に変更
2)中國は、中國の国境からの距離であることの考察を追加
    (2017.3.20)
**********************************

通典
の以下の文章を考察してみます。

扶桑國復在 倭國之東 約去中國三萬里 蓋近於日出處

2.中國の起点はどこか
3.三萬里何km

通典邊防典は全16巻からなり、全部で196の國々が記述されています。日本列島にあったとされる國々は、以下の7カ國です。
倭、蝦夷、扶桑、女國、文身、大漢、流求

それぞれの地点の記述を見てみることにします。
文献は以下を参照いたしました。

中國哲學書電子化計劃
http://ctext.org/tongdian/zh


日本列島1 


倭國一名日本 在中國直東(邊防第1巻 邊防序伝)
其王理邪馬臺國 或云邪摩堆 去遼東萬二千里(邊防第1巻東夷上 倭伝)
大較在會稽 閩川之東(邊防第1巻東夷上 倭伝)

倭國、もう一つの名、日本は、中國長安、現在の陝西省西安市)の真東(東87°)にある。
其の倭國の王は、遼東魏志倭人伝に記述されているところの帯方郡)を一萬二千里離れた、ある者は邪摩堆と云う、邪馬臺國福岡県八女市)をおさめる。
大まかに例えると會稽(現在の浙江省紹興市)の東(東北東67°)、閩川(現在の福建省福州市)の東(東北51°)にある。

蝦夷
蝦夷國 海島中小國也(邊防第1巻東夷上 蝦夷伝)

蝦夷國は、海に浮かぶ島で規模が小さい國である。

扶桑
扶桑國復在倭國之東 約中國三萬里 蓋近於日出處(邊防第1巻 邊防序伝)
說云 扶桑在 大漢國東二萬餘里 地在中國之東(邊防第2巻東夷下 扶桑伝)

扶桑國倭國の東にある。中國から約3万里である。日の出るところである天蓋(天と地の境界)に近い。
ある説では、扶桑國大漢國の東2万里(この2万里の距離数は正しくないと推測します。)にある。その場所は中國の東に位置する。

女國
女國 慧深云 在扶桑東千餘里(邊防第2巻東夷下 女國伝)

女國は、慧深が云うには扶桑國の東1000里(この1000里の距離数も正しくないと推測します。)にある。

文身
文身 時聞焉 在倭國東北七千餘里(邊防第2巻東夷下 文身伝)

文身國は、の時代の伝え聞いたことによると、倭國の東北7000里にある。

大漢 
大漢 時聞焉 在文身國東五千餘里(邊防第2巻東夷下 大漢伝)

大漢國は、の時代の伝え聞いたことによると、文身國の東5000里にある。

流求
流求 自隋聞焉 居海島之中 當建安郡東 閩川之東 水行五日而至(邊防第2巻東夷下 流求伝)

流求國は、の時代からの伝え聞いたところによると、海に浮かぶ島の中にあり、建安郡(現在の福建省建甌市)の東(東93°)、閩川(現在の福建省福州市)の東(東87°)にあたる。水行5日で至ることが出来る。


さて、中國を考察してみます。

邊防典には、それぞれの國の位置を示すのに「XX△△里」の表現が使われています。
長安が最も多く28ヶ所。日南が4ヶ所、廣州が2ヶ所です。その他、成都洛陽敦煌遼東などがあります。ほとんどの場合、長安あるいは特定の場所が起点として記述されています。
が2ヶ所あります(小月氏大夏)。また、京師の記述も見られます(突厥、駮馬、骨利幹國)。
後魏史云う、などの記述があり、漢代の伝聞から記述されていることが分かり、は、前漢の都長安、あるいは後漢の都洛陽であると推測できます。
京師長安と同意義で使われていると推測します。
一方、中國と記述されているのは2ヶ所だけです。これは長安とは、異なる意義で使用されていると推測します。

中國
1.扶桑國 復在倭國之東 約中國三萬里
2.波斯 東中國萬餘里

長安  
 1.樓蘭 東長安六千一百里
 2.且末國 長安六千八百里
 3.杅彌 長安九千三百里
 4.車師 長安八千九百里
 5.龜茲 東長安七千五百里
 6.焉耆 長安七千三百里
 7.于闐 長安九千七百里
 8.疏勒 長安九千三百里
 9.烏孫 長安八千九百里
10.姑墨 長安八千一百里
11.溫宿 長安八千三百餘里
12.烏秅 長安萬里
13.難兜 長安萬一百里
14.大宛 長安萬二千五百里
15.莎車 長安九千九百里
16.罽賓 長安萬二千二百里
17.烏弋山離 長安萬二千二百里
18.安息國 長安萬一千六百里
19.大月氏 長安萬一千六百里
20.康居國 長安萬二千三百里
21.缁噠國 東長安一萬一百里
22.捐毒國 長安九千八百里
23.大秦 長安蓋四萬里
24.劫國 長安萬二千里
25.匈奴 長安近者七百里
26.薛延陀 長安萬四千餘里
27.同羅 長安萬七千五百里
28.迴紇 長安萬六千九百里

日南
1.扶南國 日南可七千里
2.真臘國 日南郡舟行六十日而至
3.嶺南蠻獠 日南九千餘里
4.林邑國 日南界四百餘里

廣州
1.迢シ迚呵┼ 廣州二萬四千里
2.婆利國 廣州二月日行


1.小月氏 後魏史云,萬六千六百里
2.大夏 萬二千里


1.突厥 其地京師萬里
2.駮馬 萬四千里
3.骨利幹國 其國在 京師西北二萬餘里

その他のxx△△里
1.吐谷渾 成都千餘里
2.哀牢 西南洛陽七千里
3.拔悉彌 燉煌九千餘里
4.邪馬臺國 或云邪摩堆 遼東萬二千里
など。


邊防典で、中國の記述は2ヶ所でした。
1.波斯 東中國萬餘里
2.扶桑國 復在倭國之東 約中國三萬里

波斯
ペルシアの記述を考察します。

波斯 後魏時通焉 在達曷水之西 都宿利城
(中略)
王姓波斯 戶十餘萬 
中國萬餘里 西海數百里
東南穆國四千餘里 西北拂菻四千五百里

波斯ペルシア王国)は、後魏時代に通商があった。達曷水チグリス川)の西に在り、都は宿利城クテシフォン)にあった。
(中略)
王の姓は波斯で、戸数10万。
東は中國から10,000里。
西は海(地中海)から数100里。
東南は穆國から4,000里。
西北は拂菻東ローマ帝国)から4,500里。

拂菻東ローマ帝国)の都は、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)に比定します。

隋書卷八十三列傳第四十八西域伝に、以下の波斯國に関する記述があります。

波斯國 
西去海數百里 穆國四千餘里 
西北拂菻四千五百里 瓜州
萬一千七百里


隋書通典波斯國の記述は良く似ています。通典の記述は、隋書を元にしていると推測します。
波斯國の位置を示す起点の海、穆國拂菻の場所、距離が同じです。
穆國は、通典では東南ですが、隋書では去で異なります。これを考察します。
隋書穆國の以下の記述があります。

穆國 都烏滸河之西
穆國の都は烏滸河(おこが)の西にある

烏滸河ウズベキスタントルクメニスタンの国境を流れるアムダリア川で、当時はアラル海に流れていたと推測します。この川の西側のトルクメニスタン穆國があることになります。
穆國トルクメニスタンテジェンTejen)を比定地と憶測しました。
テジェンは、波斯國クテシフォン)の東北東67°(東~東北)の位置になります。通典の「東南穆國」は、方位の記述が間違っていると推測します。


隋書波斯國は、瓜州から11,700里と記述されています。瓜州の比定地は敦煌と推測します。
一方、通典の記述では、波斯國中國から10,000里です。通典の起点となる中國の場所は敦煌より西となり、中國の起点は、敦煌より東にある長安西安)ではないことが分かります。
大陸では自らの国土のことは。常に中國と表現しています。唐國などと時の王朝の名では、表現していないのです。中國は、中國の国境からの意義と推測します。

唐朝の行政区画では、西域隴右道西州(現在の新彊ウイグル地区トルファン市)に安西都護府を置いていました。これより西は支配はしても唐朝の範図ではなかったと推測します。通典中國の起点は、安西都護府の置かれた西州トルファン市)であったと推測するに至りました。

波斯


各史誌から波斯國の位置を示す記述を抜き出してみました。

史誌
(記述年)
記述起点→波斯國
記述(里)

距離(km)

換算(m/1里)
魏書
386-534年
二萬四千二百二十八里
 代=山西省大同市
24,228里6、040km249.3m
北史
439-538年
二萬四千二百二十八里
 代=山西省大同市
24,228里6,040km249.3m
周書
535-581年
東去長安一萬五千三百里
 長安=陝西省西安市
15,300里5,856km382.7m
隋書
581-618年
東去瓜州萬一千七百里
 瓜州=甘粛省敦煌市
11,700里4,483km383.2m
通典
紀元前ー750年
東去中國萬餘里
中國=西州(トルファン市)
10,000里4、011km401.1m
旧唐書
618-907年
京師西一萬五千三百里
 京師=長安(陝西省西安市)
15,300里5,856km382.7m

以降の周書隋書通典は、起点地は長安瓜州西州と異なりますが、1里=380-400m程度で、それぞれ波斯國までの距離が記述されていることが分かります。

通典の波斯國の記述の、周辺地点の距離の記述を考察します。

東、中國 10,000里
(クテシフォン→トルファン市 4011km) 1里=401.1m
西、海    数100里 
(クテシフォン→ベイルート 847km) ?
東南(東北)、穆國 4,000里 
(クテシフォン→テジェン 1522km) 1里=380.5m
西北、拂菻  4,500里
(クテシフォン→イスタンブール 1639km) 1里=364.2m

通典の西戒の記述は、1里=360-400m程度で記述されていることが分かります。


唐朝の行政区割の図を以下から拝借致しました。

https://zh.wikipedia.org/wiki/唐朝行政区划

唐朝範図



中國三萬里 

中國は、中國の国境を起点としていると推測します。
扶桑國の記述の中國の起点となる国境はどこなのでしょうか。

唐代初期、遼東半島を含めた朝鮮半島北部は安東都護府の管轄下にありましたが、安東都護府は、773年頃に廃止されました。通典が修史されたのが801年なので、このとき遼東半島、つまり朝鮮半島には中國の範図はなかったと推測します。朝鮮半島、さらに日本列島への中國の国境は山東半島であったと推測します。
唐代河南道登州東牟郡蓬莱県(現在の山東省蓬莱市)に州治所が置かれていました。そして唐代にこの蓬莱と同様に繁栄していたのが文登です。
唐代高句麗遠征の起点は蓬莱であったの対し、百済遠征の起点は文登だったとされています。(これは以下から借用させていただきました。)

http://www.iobtg.com/C.Weihai.htm

文登 

通典扶桑國の記述にある、中國の起点は、
山東省威海市文登区であると考察するに至りました。

去中國


次回は、通典に記述されている約去中國三萬里の、
30,000里何kmかを考察します。




(つづく)
不定期、週末更新予定



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47.扶桑國(その4)

さて、再び扶桑國の比定地の考察に戻ります。

通典の以下の記述を考察します。

扶桑國復在 倭國之東 約去中國三萬里

3.三萬里何km

約去中國三萬里の一文は、通典邊防第一巻の序伝の冒頭に記述されています。
冒頭を最初から抜粋しました。
通典邊防第一巻は、以下を参照しました。

中國哲學書電子化計劃
http://ctext.org/tongdian/185/zh

覆載之內 日月所臨 華夏居土中 生物受氣正
李淳風云 談天者八家 其七家 甘氏 石氏 渾天之類 
以度數推之 則華夏居天地之中也 
又歷代史 倭國一名日本 在中國直東
扶桑國 復在倭國之東 約去中國三萬里 蓋近於日出處 
貞觀中 骨利幹國獻馬 使云 其國在京師西北二萬餘里 
夜短晝長 從天色暝時煮羊胛 纔熟而東方已曙 蓋近於日入處

天が覆い地が載せる万物の内で 太陽と月が臨むところの 
華夏(中國)が居す(支配する)大地の中で 生物は精気を正しく受ける
李淳風が云うには 天文を談ずる者は8流派あり 
その7流派は 甘氏 石氏 など渾天説の類である
度数(目盛)を以って推し測ると 華夏(中國)は天地の中心にある
また歴代史によると 倭國 もう一つの名 日本は 中國の真東にある
また扶桑國倭國の東にある 中國から約3万里である 
日の出るところの天蓋(天と地の境界)に近い
貞觀の時代(648年)に 骨利幹國が馬を献上した 
使者が云うには その國は 京師(長安)の西北2万里にある
夜が短く昼が長い 羊の肩肉を暗くなってから煮込むと 熟した頃にはもう東の方が曙になる
日の入るところの天蓋(天と地の境界)に近い

通典邊防の序列には以下のことが記述されています。

天体は渾天説で成り立っている。
推測すると華夏中國)は真ん中に位置する。
日の昇る天蓋の近くに扶桑國があり、中國の国境から3万里にある。
日の沈む天蓋の近くに骨利幹國があり、京師(長安)から2万里にある。
中國の真東に倭國があり、その倭國の東に扶桑國がある。

扶桑國は、倭國から3万里以内1-2万里?にあると記述されているのです。
扶桑國倭國からそれほど遠くないところ、つまり日本列島にあったと考えられるのです。


ここでの、3万里2万里は、同じ1里=△△kmの基準で記述されているでしょうか。

骨利幹國およびその周辺國が記述されている、通典の邊防第十五巻北狄六伝、および邊防第十六巻北狄七伝を考察することにより、京師(長安)の西北にある骨利幹國の記述の2万里は、里=何kmの基準を元にしているのか推定することが可能なのです。

詳細は、次回に記述させていただきます。



(つづく)
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48.邊防の1里の基準

通典邊防序条から始まり、第一巻東夷上条から第十六巻北狄七条まで、16巻、頁数で900頁に及びます。
この中で距離を「」で記述した箇所は440箇所程あります。これらが全て同じ1里=△△kmの基準で記述されているを考察しようと思います。
以前の記事に大部分抜粋しましたが、起点がはっきりしている以下の記述を考察します。

45.去中国
 http://katsi.blog.fc2.com/blog-entry-51.html



邊防第巻 南蠻上条 
 1.扶南國 去日南可七千里
 2.哀牢 西南去洛陽七千里

邊防第巻 南蠻下条
 3.嶺南蠻獠 去日南九千餘里
 4.林邑國 去日南界四百餘里
 5.迢シ迚呵┼ 去廣州二萬四千里
 6.婆利國 去廣州二月日行

邊防第巻 西戒二条
 7.吐谷渾 去成都千餘里

邊防第巻 西戒三条
  8.樓蘭 東去長安六千一百里 
  9.且末國 去長安六千八百里 
 10.杅彌 去長安九千三百里 
 11.車師 去長安八千九百里 
 12.龜茲 東去長安七千五百里 

邊防第巻 西戒四条
 13.焉耆 去長安七千三百里 
 14.于闐 去長安九千七百里 
 15.疏勒 去長安九千三百里 
 16.烏孫 去長安八千九百里
 17.姑墨 去長安八千一百里
 18.溫宿 去長安八千三百餘里
 19.烏秅 去長安萬里
 20.難兜 去長安萬一百里
 21.大宛 去長安萬二千五百里
 22.莎車 去長安九千九百里
 23.罽賓 去長安萬二千二百里
 24.烏弋山離 去長安萬二千二百里
 25.安息國 去長安萬一千六百里
 26.大月氏 去長安萬一千六百里
 27.小月氏 後魏史云 去萬六千六百里
 28.大夏 去二千里
 29.罽賓 東北去瓜州六千六百里
 30.條支 去陽關二萬二千一百里


邊防第巻 西戒五条
31.康居國 去長安萬二千三百里
32.缁噠國 東去長安一萬一百里
33.捐毒國 去長安九千八百里
34.大秦 去長安蓋四萬里
35.劫國 去長安萬二千里
36.石國 東南去瓜州六千里
37.吐火羅 東去瓜州六千七百里
38.曹國 東去瓜州六千六百里
39.何國 東去瓜州六千七百五十里
40.史國 東去瓜州六千里
41.奄蔡 去陽關八千餘里
42.波斯 東去中國萬餘里

邊防第十二巻 北狄四条
43.蠕蠕 去平城三千七百餘里


邊防第十五巻 北狄六条
44.薛延陀 去長安萬四千餘里
45.同羅 去長安萬七千五百里
46.駮馬 去萬四千里
47.拔悉彌 去燉煌九千餘里

邊防第十六巻 北狄七条
48.迴紇 去長安萬六千九百里

南蠻が6ヶ國、西戒が最も多く36ヶ國、が6ヶ國です。

順序を前後させて、次回は西戒の36ヶ國の記述から、1里は何mを基準としたのかを考察することにします。




(つづく)

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