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畿内説、九州説、百花乱立の邪馬壹國の比定地 過去の考古学、民俗学の定説に囚われ過ぎているのか プロの歴史学者も、アマチュアの歴史愛好家も 迷宮を彷徨う 魏志倭人伝の呪縛の29文字 南至投馬國 水行二十曰 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 もし、二十日 十日 一月の記述が無かったならどうだろう 2015年、今、邪馬壹國の比定をGoogle Mapsから試みた


36.文身國

魏志倭人伝を考察し、邪馬壹國福岡県八女市と比定しました。比定は、以下の二つの仮定に基づきました。

1) 1里=53.3m
2) 水行20日、水行10日、陸行1月は、1日=11.3里

さて、これからは魏志倭人伝を離れて梁書を考察することにします。
梁書の時代の629年に修史され、南北朝時代江南に存在した(502ー557年)に関して記述されています。この梁書卷五十四 列傳第四十八 諸夷東夷諸戎中に、以下の國々の記述が在ります。

高句驪 百濟 新羅
倭 文身國 大漢國 扶桑國

まずはこの中の、文身國大漢國扶桑國を考察していこうと思います。考察にあたり原文は以下を参考とします。

https://zh.wikisource.org/wiki/梁書/卷54#.E6.9D.B1.E5.A4.B7.E8.AB.B8.E6.88.8E

まずは、文身國から始めます。文身國の記述は以下で始ります。

文身國在 倭國東北七千餘里

この文から二つのことを仮定する必要があります。
1)1里は何mか
2)倭國はどこか

まず1)の距離の仮定を行います。
梁書高句驪伝倭伝に、距離を里で記述している箇所がいくつか在ります。それらを精査してみると、その記述全て魏志倭人伝の記述を踏襲していることが分かります。

魏志高句麗伝
 高句麗在 遼東之東千里 
 都於丸都之下 方可二千里


梁書高句驪伝
 其國漢之玄菟郡也 在遼東之東,去遼東千里
 句驪地方可二千里

魏志倭人伝
 又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國
 又渡一海千餘里 至末盧國 
 東南陸行五百里 到伊都國 
 東南至奴國 百里 
 東行至不彌國 百里


梁書倭伝 
 海闊千餘里,名瀚海,至一支國
 又度一海千餘里 名未盧國 
 又東南陸行五百里 至伊都國 
 又東南行百里 至奴國 
 又東行百里 至不彌國


梁書東夷諸戎の1里は、魏志倭人伝の1里と同じ記述に基づいている推測できます。1里=53.3mと仮定します。

次に倭國はどこなのか。以下の記述を考察してみます。

魏志倭人伝
女王四千餘里 又有 裸國 黑齒國復在 其東南 船行一年可至

梁書倭伝
又南 黑齒國 裸國 去四千餘里 船行可一年至

この二つの文の意義は同じと推測します。魏志倭人伝では女王國=邪馬壹國と考察しました。梁書倭伝のここでのは、邪馬壹國であると推測します。
梁書において文身國伝では、倭國と記述され、黑齒國、裸國の記述では倭國ではなくですが、この倭國は同じ意義と推測します。
倭國は、邪馬壹國(比定地八女市)と仮定することにします。

文身國在 倭國東北七千餘里

文身國は、倭國(八女市)の東北7000里(7000x53.3m=373km)にある。

八女市から東北方向373kmの地点を見てみましょう。

7000里1

文身國の比定地の候補として以下の3つが考えられます。

1) 山陰地方
2) 岡山県南部
3) 徳島県東北部

1)山陰地方

出雲

鳥取県米子市を中心として、鳥取県倉吉市島根県松江市出雲市が候補地です。
この地方は、正に邪馬壹國八女市)から東北に位置します。
ただし出雲市八女市からの距離が315kmで、5900里に相当し7000里には少し短い地点となります。

2)岡山県東南部

吉備

 岡山県津山市備前市が距離でちょうど373km7000里)の地点となります。方向は、東北東55~65°の地点で、8方位の東北の範囲を16方位の北北東~東北東(22.5~67.5°)を許容範囲とすると、方位も一致します。

3)徳島県東北部

徳島

 徳島県徳島市阿南市がちょうど距離373km7000里)付近になります。ただし方位は東北東75°で東北の範囲から外れます。

3つの候補地、出雲吉備、そして徳島
いずれも興味深い古代の國です。
いったい文身國の比定地はどこなのでしょう

7000里2


(つづく)
不定期、週末更新予定





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37.文身國(2)-水銀ー

梁書東夷諸戎に記載されている文身國を比定するには、文身國に記述されている水銀に関して、掘り下げて考察する必要があります。原文は以下を参照としました。

中國哲學書電子化計劃
http://ctext.org/library.pl?if=gb&res=5879


繞屋爲壍 廣一丈 實以水銀 雨則流于水銀之上

家の周りに巾1丈の溝をめぐらせ、水銀で満たした。雨が降る度に水は水銀の上を流れた。

溝に入れた水銀の体積、重量を考察してみます。
家の大きさを10m四方、100m2(平方米)と仮定してみます。それほど広くは在りませんが、狭くない広さです。
丈は長さの単位で、1丈=10尺です。1尺の長さは時代によって異なるようで23-33cmと言われています。ここでは1尺=20cmとして、1丈=2mと仮定してみます。
溝の面積を計算してみます。

100m2

家の面積は、10mx10m=100m2(A)
溝を含めた四角形の面積は、14mx14m=196m2(B)
溝の面積は、(B)-(A)=96m2となります。
この溝に厚さ1cm水銀を敷き詰めたと仮定します。
溝の水銀の体積は、96m2x0.01m=0.96m3(立方米)となります。0.96m3に換算すると960ℓです。これは200ℓのドラム缶約5本分に相当します。
水銀の比重は13.5です。
重量は、0.96m3x13.5=12.96tとなります。
小型自動車(プリウスの車両重量は1.3-1.4t10台分の重量です。
桁違いの量です。文献によると奈良大仏建立時に使用した水銀の量は、約2.3tと記されています。金のメッキに使用すれば、奈良の大仏を6体作れる量なのです。

ドラム5本
プリウス10台
奈良大仏6体

仮定を変えてみます。
家の大きさを半分の5m四方、敷き詰める水銀の厚さも半分の5mmとして計算してみます。

45m2

体積は、(9mx9mー5mx5m)x0.005m=0.28m3(立方米)
重量は、0.28m3x13.5=3.78t
この量でも奈良大仏1体くらいは余裕で、全体に金メッキを付けることが出来る量なのです。

ドラム2本
プリウス3台
奈良大仏1体

文身國の王が権威を誇示するにしては、その量をはるかに超えているように思えます。この水銀は何の目的で溝に敷き詰めたのでしょうか。またどこから持ち運ばれたのでしょうか。

水銀の鉱石は以下です。

1) 辰砂
2) 自然水銀

1)  辰砂硫化水銀からなる鉱石です。硫化水銀は赤色の塊か、深紅色の透明感のある結晶です。

辰砂辰砂結晶

辰砂は産出量がそれほど多くなく、赤色顔料神仙薬(不老不死の薬)の成分として極めて貴重だったようです。同じ赤色顔料のベンガラは産出量が多いのですが、辰砂のほうが鮮やかな赤となります。辰砂自体、金、銀に匹敵するくらい価値があったのでは思われます。
文身國の家の溝に敷き詰めたのは辰砂ではないと推測します。辰砂は粉末、粒状の固体です。これを溝に敷き詰めても、雨水は辰砂の層に浸み込んで、その上を流れることはないのです。敷き詰めたのは金属の水銀だと考えます。

水銀は、辰砂を高温で熱することにより精製されます。

辰砂(硫化水銀 SHg)+ 空気(酸素 O2)
       → 水銀(Hg)+ 亜硫酸ガス(SO2)

硫化水銀は燃やすと、水銀二酸化硫黄(亜硫酸ガス)に分解します。水銀の沸点は約360℃で、それ以上に熱すると気化します。この蒸気を集めて冷却すると、二酸化硫黄は沸点がー10℃なので空気中に拡散してしまい、液状の水銀だけを取り出すことが出来ます。

2) 自然水銀は、液状の水銀が水のように溢れていたり、鉱石に閉じ込められています。採取すれば精製しなくても水銀を得ることが出来ます。

自然水銀

水銀の用途は何だったのでしょうか。

1) 鉱石から金、銀、銅などの精製(アマルガム法)
2) 銅鏡の研磨
3) 神仙薬の成分
4) 金メッキ(アマルガム法)


1) 古代より鉱石から金、銀、銅などを精製するのに、水銀が用いられていました。アマルガム法とよばれるものです。このアマルガム法で用いた水銀は、大部分は回収して再利用することが出来ます。金を1kg精製するのに水銀4-5kg使用したとしても、水銀の大部分は回収して再使用できるのです。また、金、銀を精製するには鉛を用いた灰吹法があります。産出量が多い鉛のほうが安価であり一般的だったのでとは憶測します。この用途での水銀の需要は多くなかったと思われます。

2) 銅鏡を磨いて表面を鏡状にするのに水銀が使用されました。これは水銀の代替品はなく、主用途の一つだったのではと思われます。ただ銅鏡100枚を作成するのに、水銀20-30kgで十分な量であったと思われます。

3) 水銀自体も辰砂と同様、神仙薬の成分としても利用されたと思われます。

4) アマルガム法を利用して銅の造形物に金をメッキする際にも、水銀が用いられました。特に仏教の伝来により、仏像が作られるようになると、銅製の仏像の表面をアマルガム法で金メッキして装飾を施すのに多くの水銀が使われ、需要が増えたと思われます。

金メッキの工程は以下です。

金を平たく延ばし、細かく刻む。
これを6倍量の水銀に加えて炭火で熱すると、金が水銀に溶けて水銀アマルガムが出来る。
これを皮に包んで絞ると水銀がろ過され、皮に金/水銀=1/2アマルガムが残る。
被メッキ物の銅製品の表面に、このアマルガムを塗布する。
塗布物を鉄板の上に置き、加熱すると水銀が蒸発して金メッキされる。
蒸気は一箇所に集めて煙突から飛散させる。
煙突の先を曲げてその下に受けを置くと、受けに水銀が溜まり回収することが出来る。

十分な回収装置があれば、金メッキに使用する水銀のほとんどは、回収して再利用できるのです。

最初の奈良大仏は、銅像の上に金メッキが装飾されました。文献では大仏建立に、金10、400両水銀58、600両が使用されたと記されています。1両40gで計算すると
金  10、400x0.04kg=416kg
水銀 58,600x0.04kg=2344kg=2.3t
となります。
金と水銀の比率は、金/水銀=1/5です。この比率は、金を水銀に溶かしたアマルガムをろ過せず銅製品に塗布し、さらに加熱して蒸発させた水銀も煙突で受けて回収せず、そのまま大気に飛散させていたことを意味します。製作場所の大気、土壌、水質の環境汚染は深刻だったと思われます。後年、水銀アマルガム法による金メッキは廃れ、金箔を表面に装飾する方法に変わっていきます。

さて、文身國の溝に敷き詰められた約13t水銀の考察に戻ります。

この水銀は、外部から運ばれてきたのではないと憶測します。水銀は、銅、錫、鉄などよりも産出量が少なく、金、銀ほどではないにしても高価であったと思われます。1度に13tを調達するのは困難です。少しずつ調達したなら、運搬容器の土器に入れたまま保管するのが自然です。わざわざ長年掛けて、少しずつ溝に敷き詰めたりはしないと思うからです。

この水銀は、文身國で産出されたものと憶測します。また水銀辰砂から精製されたものではなく、自然水銀から採取したものであると憶測します。

辰砂はそれ自体で、赤色顔料神仙薬としての需要があったのです。また、金銀の精製、金メッキに使う場合、その加工地域には辰砂から水銀を精製する高温加熱設備が備わっています。辰砂のままのほうが運搬も容易で、水銀よりは安価であったと思われるので、加工地域は水銀よりも辰砂を求めたと思います。水銀の需要量はそれほど多くなかったのです。辰砂から水銀13tも精製して、何年分もの在庫を抱えたりはしなかったと思います。需要分だけ精製するば良いはずです。

文身國からは自然水銀が産出されたと憶測します。

鉱山の自然水銀を放置はしないはずです。水のように湧き出していたのであれば、採取は容易です。山から集められた水銀は王の元に届きます。しかし水銀の需要は多くないのです。集められた水銀は、家の周りに掘った溝に貯めて、保管したのだと憶測します。水銀を敷き詰めた溝は、水銀の製品倉庫であったと考えます。

つまり、文身國自然水銀の産地であったと憶測するに至りました。



(つづく)
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38.文身國(3)

梁書に記述されている文身國、岡山県東備地域(備前市、瀬戸内市、赤磐市、岡山市(御津、上道)、和気町、吉備中央町(加茂川))日笠川、もしくはその下流の吉井川沿いに在った、と憶測するに至りました。

文身國11

梁書文身國には以下の記述があります。

・文身國在 倭國東北七千餘里
 ・繞屋爲壍 廣一丈 實以水銀


 ・文身國は、倭國(邪馬台國)の東北7000里373km)に在る。
 ・家の周りに巾1丈の溝をめぐらせ、水銀で満たした。

文身國には自然水銀鉱山があったと憶測します。
1里53.3mと仮定しました。再び邪馬台國八女市)から東北7000里373km)地点を見てみます。

7000里

全国の水銀鉱山の分布図を見てみます。図は以下のサイトから拝借しました。

山口大学工学部 学術資料展示館
http://www.msoc.eng.yamaguchi-u.ac.jp

水銀鉱山

373km地点に該当する水銀鉱山は以下の2地点です。
 ・和気鉱山岡山県和気郡和気町藤野
 ・由岐鉱山水井鉱山)(徳島県阿南市水井町

由岐鉱山水井鉱山)は、倭國邪馬台國)からの方位は、東微北77°で東北ではなく東の方位となり、東北の記述に合致しません。
一方、和気鉱山の方位は、東北微東61°であり東北に合致します。
文身國にあった水銀鉱山は、和気鉱山であったと憶測します。

文身國12


そして、文身國は、和気鉱山の横を流れる日笠川の流域、もしくはその下流の吉井川流域にあったと憶測します。
和気鉱山から南側の俯瞰図を以下に示します。


和気鉱山


次回は、大漢國を比定します。


(つづく)
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39.大漢國

前回、梁書文身國伝に記述されている文身國は、岡山県東備地域であると比定しました。備前の国の東側です。

今回、梁書大漢國伝に記述されている大漢國の比定地を考察した結果、愛知県名古屋市を含む尾張地域であると憶測するに至りました。

大漢國伝の記述は以下です。

大漢國在 文身國東五千餘里

大漢國は、文身國の東5000里に在る。

文身國岡山県東備地域であると比定しましたが、代表地を瀬戸内市役所と仮定します。1里=53.3mと仮定します。瀬戸内市役所から東の方位、5000里=267kmを見てみます。

5000里

三重県志摩半島愛知県尾張地方が該当します。古代から文明は大きな河川の流域で発祥し、都市が発達してきました。濃尾平野がこの地域の最大の河川の流域です。従って大漢國の比定地は、木曽川流域名古屋市を含めた愛知県尾張地方と憶測するに至りました。

大漢國



邪馬壹國文身國大漢國を地図に示しました。

大漢國2

次回は難解な扶桑國を考察してみます。扶桑國大漢國の東側に在ったとのではと、憶測しています。



(つづく)
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40.仮説

捏造・改竄・誤謬である。古代文献を研究する専門家の中には、記述内容の理解が困難になると安易に、捏造、改竄、誤謬であると考察する方がいらっしゃいます。これはいかがなものかと思います。

合理的な解釈を継続して試みるべきです。記述の解釈に矛盾が生じた場合は、仮説を設定し検証すれば良いのです。
ある記述Aを解明するために、仮説Bを設定したとします。この検証には、他の記述、あるいは公知の事実(定理)から仮説Bが成立するか、しないかを考察するのが検証です。

仮説Bの検証のために、新たな仮説Cを設定する手法をとる研究者の方がいます。そして仮説Cの検証を行い、仮説Cは正しいと結論します。しかし飛躍して仮説Cが成り立つから、仮説Bも成り立つと考察しようとするのです。
これば誤魔化しであり詭弁です。仮説Cが正しくても仮説Bの検証には寄与しないからです。

例を示します。魏志倭人伝の以下の考察です。

* 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月

記述A 投馬國から邪馬壹國水行10日、陸行30日

仮説B 水行10日した後、陸行30日するのではなく、水行+陸行を繰り返し、全行程を合計すると水行10日+陸行30日である
仮説C 起点は投馬國ではなく、帯方郡
仮説D仮説E ....

全行程


* 南至 投馬國 水行二十日。
  南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月


記述A 不彌國からに行くと投馬國に至る。投馬國からに行くと邪馬壹國

仮説B この二つの記述のは、の誤り
仮説C 邪馬壹國にある一大率は、西の誤り
仮説D 陸行30日は。。。

  九州北の海岸から奈良県桜井市への船での最短経路は、関門海峡を南下し、瀬戸内海を東上して大阪湾に到達します。その後大和川を遡上して、大阪府柏原市に行くのが船での最短ルートです。水行20日+10日で30日。九州北の海岸から30日かけて水行します。次は柏原市から陸行して桜井市までいきます。しかし、柏原市から桜井市までは、直線距離で僅か20kmなのです。20kmを陸行30日で行くことを説明するには、新たな仮説が必要となります。

東


どちらの例も記述Aに対する仮説Bの証明が出来ていないのです。
仮説Bの検証を行うと多くの矛盾が発生します。本来は記述Aを説明するために仮説Bを設定したのですが、更なる矛盾に対して、次々に新たな仮説を設定していきます。残念なことに、新たな仮説は証明できないまま放置されているのです。いくら長々と知識を披露しても、仮説が正しいとの結論に至らないのであれば、その考察は一切仮説Bの証明にはなっていないのです。
中学校の数学の証明問題で、このような解答をしたならば、長文の回答であることに対して努力点はもらえるでしょうが、設問に対する解答としての評価は低いと思います。
どこが良くなかったのか。中学校の数学の先生であれば、間違いを指摘することが出来ます。
仮説を立てたことは正しく、検証の方法もそれほど悪くないのです。単に結論が誤っているだけなのです。いろいろ検証しても仮説Bの証明は出来なかったのです。従って結論は、「仮説Bは正しくなかった」とするのが正解なのです。

魏志倭人伝邪馬壹國の比定地の考察にあたり、他の仮説はないのでしょうか。
以下の記述を考察します。

南至 投馬國 水行二十日
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月


記述A 不彌國から南に水行20日すると投馬國に到達する。
    投馬國から南に水行10日、陸行30日すると邪馬壹國に到達する。

仮説は既成概念に囚われることなく自由に設定できます。滑稽無類・荒唐無 稽・笑止千万であっても全く構わないのです。検証の結果、仮説に多くの矛盾が生じれば、仮説が間違っていると結論付ければ良いのです。

仮説B
 20日、10日、1月の記述は誤り。記述を無視する。
あるいは
 20日、10日、1月の記述は移動の日数ではない。1日の移動距離をと仮定し、20日、10日、1月をそれぞれ20X里、10X里、30X里と仮定する。

このような仮説Bを立てて、検証したらいかがでしょうか。

南至 投馬國 水行
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行 陸行


20日、10日、1月を無視した仮説Bを立てます。

日数を無視して魏志倭人伝全体の記述を検証し、矛盾なく邪馬壹國の位置が比定出来たとすれば、その比定地は、仮説Bの元、正しいことになります。「20日、10日、1月は、所要日数ではない」とした仮説Bは確からしいことになるのです。
もし魏志倭人伝の記述を検証してみて、X=A里とするのが最も矛盾がないとの考察に至れば、X=Aは確からしいことになるのです。

命題は、数学的な証明問題なのです。中学の数学の証明問題の解法を押さえず、自説を主張するのは、自らの不勉強を誇張しているように思えます。


一方で魏志倭人伝の記述に対して、の使節団は邪馬壹國を訪問していない。従って邪馬壹國の記述は現地人の伝聞によるもので、曖昧である。と明言する専門家の方がいらっしゃいます。論理に無理があると思います。

魏志倭人伝を含む三国志は、中国・西晋代陳寿により撰集された文書です。陳寿は、蜀漢西晋に仕えた官僚なのです。三国志は、公費を使って撰集された公式文書です。公式文書である以上、記述の一つひとつは、十分に吟味され精査されて記述されているのです。もし曖昧な部分があれば、撰者達は厳しい叱責を受け、懲罰を受けるのです。撰集にあたっては、記録書、報告書などの文書と、官僚、関係者からの伝聞を元にして撰集されたと思われます。つまり、多くの記述は伝聞を元に記述されているのです。どうしても曖昧な記述をせざるを得ない場合は、「曰」と断って記述をしているのです。

書曰  書曰く
評曰  世評曰く


邪馬壹國の記述には、書曰、評曰の注釈はないのです。三国志のなかで、邪馬壹國の記述だけが曖昧であり、正しくないと主張するのは無理筋と思われます。

さて、梁書に記述されている扶桑國の比定は、依然考察中です。
考察でき次第、ご紹介することにします。


(つづく)
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41.扶桑國

その後の考察の結果、記述が正しくないと考え訂正をさせていただきます。(2016.12.1)

amazon.co.jpで、「邪馬台国」で本の検索をすると4336件がヒットします。しかし「扶桑国」で検索すると251件しかヒットしません。しかもそのほとんどは、扶桑國とは関係ない本なのです。もう少し多くの研究者の方々が、梁書の考察にも精励されたらと思う次第です。

梁書卷第五十四列傳第四十八巻東夷伝に記述されている扶桑國を考察します。まずは諸先輩方々が注目すべきと指摘している通り、この東夷伝の序文の記述を考察します。

以下、序文全文を記述します。

東夷之國 朝鮮為大 得箕子之化 其器物猶有 禮藥云
魏時 朝鮮以東 馬韓辰韓之屬 世通中國 
自晉過江 泛海東使有 高句驪百濟
而宋齊閒 常通職貢 
梁興 又有加焉 扶桑國 在昔未聞也 普通中 
有道人 稱自彼而至 其言元本尤悉 故並錄焉

 
東夷の國で朝鮮は大なり。箕子が獲得したところが変化したところである。その器物(調度品)には(箕子が持ち込んだ)祭儀に使用したもの、調薬に使用したものが、今猶有ると云われている。
の時代、朝鮮より東の馬韓・辰韓に帰属(した地域)から、代々中国と通商があった。
もちろんの時代にも、長江を通過して来た、泛海(浮かぶ海?(渤海・黄海))の東からの使者が有った。高句麗・百済からである。
さらに宋・斉の時代の間も常に職貢が通っていた。
が興隆し、また加筆するところが有ります。扶桑國です。昔は未聞 (前代未聞の希代な國) であった。普く(あまねく=もれなく)中国の都と通商があった。 の時代の普通年間(520年から527年)の間に、彼の地から来たと称する道人(仙人の道を極めた人? 僧侶?) がいた。その人の言うことは、昔のことも今のことも悉く(ことごとく)尤(もっと)もである。それ故に(扶桑國も)合わせて記録をする。

扶桑國を記述するに際して、異例の但し書きが序文に記述されていることに注目すべきでしょう。この序文は時代を追って記述されています。以下、時代をまとめました。

  220-265年 
  265-420年 
  420-479年
  479-502年
  502-557年


この序文で気になるのは、の意義です。序文には以下の地域が記述されています。

東夷之國朝鮮馬韓辰韓中國高句麗百済扶桑國

が使われているのは、東夷之國中國扶桑國です。馬韓國辰韓國高句麗國百済國とは表現していないのです。また、にもは付いていないのです。

の時代、高句麗百済は100km四方以上の大きな版図です。それでも高句麗國百済國とは表現していないのです。

ウィキぺディア 高句麗
https://ja.wikipedia.org/wiki/高句麗

高句麗
版図が最大に達した476年頃の高句麗と周辺諸国

の意義は王が治める国家でもなく、あるいは領主が治める藩でもないのです。の意義は決まった境界のある区域、都市で、その範囲は概ね10km四方以下と考えます。10km四方は、東京山手線の内側よりやや広いので、決して狭い都市ではないのです。

二つ目に気になることは扶桑國の存在時期です。序文の記述を見てみましょう。

普通中
 普く(あまねく=もれなく)中国の都と通商があった。


其言元本尤悉
 その人の言うことは、昔のことも今のことも悉く(ことごとく)尤(もっと)もである。

中国のどの時代から扶桑國はあったのでしょうか。

中国の文献を調べてみたところ、の時代、昭王三年(紀元前299年)、前漢の時代、元鼎五年(紀元前115年 )の記述に扶桑が地域として記述されています。

文献は以下のサイトを参照しました。

中國哲學書電子化計劃
http://ctext.org/library.pl?if=gb&res=5879

太平御覧 人事部一十六巻の皮膚伝の記述

王子年拾遺錄: 燕昭王三年 廣延之國 去七萬里 或云在扶桑之東

洞冥記 巻第二 元鼎五年伝の記述

長安東 過扶桑七萬里 有及雲山

これらの記述そのものは怪奇であり信憑性は低いと思われます。しかし紀元前299年、紀元前115年に、中国の東、遥か遠くに扶桑とゆう地域があったと記述されているのです。
この扶桑の地は、梁書に記述されている扶桑國と同じなのでしょうか。


(つづく)
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42.扶桑國(その2)

邪馬台国論の書籍は400冊を超える(1987年の調査)そうです。一方、扶桑國に関する本は、19世紀に1冊、20世紀に1冊しかないそうです。
1995年に出版された、いき一郎著「扶桑國は関西にあった」を拝読しました。
著者の見識の深さに感服致しました。以下著者の記述を拝借して要約しました。

日本の古典の研究は江戸時代中期に国学として体系化されました。国学の実証主義的思想は復古王道として大成し、尊王攘夷思想に影響を与えます。
明治時代となり復古王道は、国粋主義皇国史観へ発展します。日清戦争を経て、日本東アジアの盟主となろうとしていきます。日本国が最古、最高であり、中国鮮を従者とする思想が日本史学を支配していきます。古事記・日本書紀が重視され、中国の古代の書物は軽視されていきます。1903年に最初の国定歴史教科書「小学歴史教科書」が文部省から発行されます。この編集には、東京帝国大学国史学科が深くかかわりました。以降、日本史学の研究は、大日本帝国陸軍・海軍の精神教育の根幹となっていきます。皇国史観に反するものは退けられたのです。
大東亜戦争が終わり、戦時中は弾圧された津田左右吉氏が日本史学会に迎えられ、皇国史観を否定した津田史観が主流となり、日本史学の研究は、科学的研究手法をモデルとして再出発することになります。
しかしながら戦後50年が経過した今も、依然として日本史学の研究は古事記・日本書紀を重視し、中国正史などの文献を軽視する傾向が残っていると述べられています。

私も賛同します。中国正史の記述に対して、捏造・改竄・誤謬であると恣意的に主張する研究者の方が大勢いる理由が、著者の見解により理解することが出来ました。このような研究者の方々は、大東亜戦争以前の時代の心的傾向(中国の文献を軽視する)を継承しているためなのでしょう。

さて、扶桑國に関する書籍が20世紀にいき一郎氏以外に1冊もない理由に関して、著者は以下のように述べられています。

東京帝国大学文科大学史学科教授の白鳥庫吉氏が、1917-1918年に発表した論文で以下のように述べている。

梁書に記述されている扶桑國慧深大詐欺師である。

これは壮大な誤謬としてうえで、他国の記録に自国の人物の記述があるときに、自国の人物を大ペテン師と呼ぶ大国粋学者・帝国大学の大学者はなかろう。と手厳しいのです。
残念ながら東京帝国大学の史学の専門家が、扶桑國慧深大詐欺師と断罪しその記述を虚構としたことから、その後の研究者は扶桑國に対する研究を避けてきた。と説明します。
しかし停戦後自由の時代となり50年を経過してもなお、国立大学では日本国史学の研究の中心は古事記・日本書紀で、梁書扶桑國をまともな研究対象としていないとし、専門家の速やかな対応が望まれる。と述べられています。

扶桑国は関西にあった


私は、いき一郎氏とは、扶桑国の比定地の見解が異なります。
私なりに、扶桑国の比定地を、客観的、論理的、科学的に(私的には文献学的にと称していますが)考察したいと思います。


(つづく)
不定期、週末更新予定


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43.扶桑國(その3)

扶桑國の比定地の考察をはじめます。
梁書卷第五十四列傳東夷伝には、序文と列伝の2ヶ所に扶桑國の記述があります。序文の記述は、

扶桑國 在昔未聞也 
普通中 有道人 稱自彼而至 其言元本尤悉 故並錄焉

扶桑國。昔は未聞であった。
の時代の普通年間(520年から527年の間)に、彼の地(<扶桑國)から来たと称する道人がいた。その人の言うことは、昔のことも今のことも悉く(ことごとく)尤(もっと)もである。それ故に(扶桑國も)合わせて記録をする。

そして、扶桑國列伝の文頭の記述は以下です。

扶桑國者 
齊永元元年 其國有 沙門慧深 来至荊州
説云 扶桑在 大漢國東 二萬餘里


扶桑國の人 
の時代永元元年(499年) その国に慧深とゆう僧侶がいて 荊州にやって来た。
言うことによると 扶桑國大漢國の東 二万里(1066km)にある。

この扶桑國列伝の文頭は不自然に思えます。
史書は編纂者達が、過去の文書、記録および関係者からの伝聞などから編集します。ほとんどの記述には典拠がありますが、通常は典拠は記述しないのです。
荊州 説云」などと典拠を明記するのは特別な場合と考えられるのです。
しかもこの列伝の文頭では、道人ではなく慧深の説が典拠されているのです。序文の扶桑國の記録は、道人の言を元にしたとの説明と整合していないのです。
499年の慧深と520年代の道人は別人と考えるのが自然です。
道人の言は、尤悉とあるように信憑性が高いと判断しています。
一方慧深の説は、信憑性が低いと判断していると思えます。慧深道人と同一人物であれば、慧深の説も信憑性が高いわけで、「説云」でなく「」と記述したと推測するからです。

荊州 説云は、以降の文のどこまでを修飾しているのでしょうか。それは、大漢國 東二萬餘里までと推測します。文章の句読点、段落は、以下となります。

扶桑國者。 
齊永元元年、其國有沙門慧深、来至荊州。説云、扶桑在、大漢國 東二萬餘里。 
地在、中國之東。其土多扶桑木、故以爲名。


説云は、地在中國之東を修飾していないと推測します。もし修飾しているのであれば、扶桑國を指す名詞の「」は不要で、以下の文にするのが自然です。

説云、扶桑在、大漢國 東二萬餘里、中國之東。

あるいは、

説云、扶桑在中國之東、去大漢國 東二萬餘里。

もしくは、動詞の「」を省略して

説云、扶桑在、大漢國 東二萬餘里、其地中國之東。


地在中國之東の文は独立しています。

扶桑國者。 
地在、中國之東。其土多扶桑木、故以爲名。


上のように齊永元・・・二萬餘里。の文を削除しても、文書へ支障が無いことが分かります。慧深説云は、扶桑在 大漢國東二萬餘里だけで、以降の文、地在、中國之東。其土多扶桑木、故以爲名。からは、慧深説云ではなく、道人を典拠していると推測します。

また、
説云、扶桑在、大漢國東二萬餘里。
であり、
、扶桑在、大漢國東二萬餘里。
ではないのです。

慧深の説の信憑性は低いのです。
何故、信憑性の低い慧深の説を敢えて典拠したのでしょうか。

梁書東夷伝では、文身國大漢國の文頭は以下で始ります。

文身國 在倭國 東北七千餘里
大漢國 在文身國 東五千餘里

文章の調律を合わせるために

扶桑 在大漢國 東二萬餘里

の一文を入れたのだと推測します。
では、大漢國名古屋市)の東20,000里の地点を見てみましょう。1里=53.3mと仮定しました。20,000里=1066kmとなります。

二万里

名古屋市から東1066kmの地点は、太平洋の中となり、陸地は無いのです。

編纂者達は、東二万里は錯誤であると周知していたと思われます。にも拘らず、文章の調律を合わせるために、あえて慧深の説を典拠として扶桑 在大漢國東 二萬餘里の一文を記述したのです。
そして錯誤であることを明確にするために、慧深が云うには、と但し書きを入れたのでしょう。さらに序文に、道人の言は悉く尤もであると補足して、以降の地在、中國之東からの文は、信憑性があると説明しているのです。
編纂者達は丁寧に資料調査を行い、典拠に基づいて律儀に編集したのでしょう。典拠に錯誤があっても、そのまま引用して、加筆はしなかったのだと憶測します。

大漢國の東二万里は錯誤であると憶測します。距離の二万里だけでなく、方位の東も怪しいのです。
一方

地在、中國之東

扶桑國中國の東にあった。

これは道人の言であり、信憑性が高いと考えてよいと思います。
の都は建康南京市)にありました。
では、南京市から東の方位を見てみます。

中國東1

東の範囲は、東南東~東北東と考えます。
日本列島の石川県新潟県福島県以南が該当します。北海道と大部分の東北地方は、東の方位ではなく、東北の方位となるので扶桑國の比定地には該当しないことになります。しかし梁書からは、扶桑國の比定地を考察することは困難です。

扶桑國の記述は、通典にもあります。梁書通典はいづれもの時代に修史されました。

梁書 修史629年。梁の502年ー557年を編纂。
通典 修史801年。紀元前2500年頃ー唐の750年を編纂。

通典邊防第一巻序列に以下の記述があります。

倭國一名日本在 中國直東
扶桑國復在 倭國之 約去中國三萬里 蓋近於日出處


倭國、一名日本は、中國の真東にある。
扶桑國倭國の東にある。中國から約3万里である。日の出るところである天蓋(天と地の境界)に近い。



次回は、通典を元に、扶桑國の比定地を考察します。



(つづく)
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50.扶桑國(その5)

扶桑國の比定をする前に、扶桑について中國の書物から考察することにします。
中國の古代書物を検索するには「中國哲學書電子化計劃」が重宝します。各書物の原本・写本がデジタル化されています。
扶桑」と入力して検索すると、扶桑と記述されている文献の箇所を検索してくれます。

中国哲学電子化計画1


検索だけでなく、書物によってはクリックするとその箇所の写本を閲覧することが出来ます。

中国哲学電子化計画2


また各書物の相違も比較しています。

中国哲学電子化計画3


在宅の研究家にとっては、とてもありがたいサイトです。


1. 論衡 後漢時代 王充 著 80年成立 說日篇

まず最初に論衡の記述を考察します。論衡は、後漢の時代に王充が紀元80年に著した思想書です。この中の說日篇扶桑に関する以下の記述があります。

儒者論 日旦出扶桑 暮入細柳
扶桑 東方地 
細柳、西方野也
桑柳天地之際 日月常所出入之處

儒者が論じるには、朝日は扶桑から出て、夕方細柳に沈む。
扶桑は東の方角の陸地で、細柳は西の方角の原野である。
桑と柳は天地の境界となるところにあり、ここは常に太陽、月が昇り沈むところである。

ここで記述されている扶桑は、土地の名前であることが分かります。その地名は、樹木の桑があることに由来している推測されます。

同じ論衡說日篇には以下の記述があります。

禹貢 山海經言 日有十在海外
東方有湯谷 上有扶桑
十日浴沐
水中有大木 九日居下枝 一日居上枝

禹が献上した山海経が言うには、太陽は海の外に10個ある。
東の方角に湯谷があり、そのところには扶桑がある。
10個の太陽は沐浴している。
水中に大木があり、9個の太陽は下の枝に居て、1個の太陽は上の枝に居る。

こちらに記述されている扶桑は、10個の太陽が宿る水中の大木の固有名詞なのか、扶桑という土地の名前であるのか不明です。
ここで論衡に引用されている山海經を考察してみます。

2. 山海経 戰國 - 漢 (紀元前475年 - 220年) 
   作者不詳 海外東経篇

山海經は、中國戦國時代からの時代に、少しづつ編纂されたと考えられている地理書です。この山海經の中の海外東經篇に、論衡に引用された元の記述があります。

黑齒國在其北
為人黑 食稻啖蛇 一赤一青在其旁
一曰在豎亥
為人黑手 食稻使蛇 其一蛇赤。

黑齒國がその北にある。
人々は黒く、稲を食べ、蛇をむさぼる。赤い蛇や青い蛇がその近傍にいる。
ある説では、豎亥が居住していたところの北にあると云う。
人々の手は黒い。稲を食べるとき蛇を使う。その蛇は赤い。

下有湯谷 湯谷上有扶桑
十日所浴 在黑齒
居水中 有大木
九日居下枝 一日居上枝

下に湯谷があり、湯谷の上に扶桑がある。
10個の太陽が沐浴するところで、黒歯國の北にある。
太陽が居住する水中に大木がある。
9個の太陽は枝の下に居て、1個の太陽は枝の上に居る。

山海經海外東經篇では、海の外の東南から東北の國々の地理が記述されています。
黑齒國の記述に続いて、湯谷、扶桑の記述があります。
湯には入浴、温泉の意味があります。湯谷の意味は、入浴する温かいお湯の谷と推測されます。
湯谷は温泉のある谷とも考えられますし、土地の名前を表すとも推測できます。
扶桑は、その湯谷にある10個の太陽が居する大木の名前であると推測されます。
しかしながら、扶桑の樹は、どこにでもあるわけではなく、
10個の太陽が居する場所にあり、それは一箇所しかないと考えられるので、扶桑のある土地の名前を扶桑と考えても差し支えないと推測します。
この山海經でも論衡でも、扶桑という樹木も、湯谷の場所もお伽噺、伝説の域を超えていないように憶測します。
しかしながら黒歯國とそれほど離れていない場所にあると考えられていたと推測されます。

扶桑に関して、より具体的に記述されている書物が、金樓子十洲記です。次はこれらを考察します。

3. 金樓子 南北朝時代(554年)  蕭繹 著 志怪篇

金樓子は、の時代の554年に蕭繹により執筆された集書です。

秦王徐福 求桑椹 
於碧海之中 海中止有扶桑樹
長數千丈 樹兩根同生 更相依倚 是名扶桑
仙人食其椹 而體作金光 飛騰天宮也

秦王は、徐福を派遣して桑の実を探させた。
青色の美しい海のなかに、海中に踏み止まっている扶桑の樹を見つけた。
樹林は長さ数千丈(数km)に渡り、樹と根の両方が同じに生えていて、それぞれが寄りかかっている。このことより、名を扶桑という。
仙人はこの桑の実を食べる。すると体が金色に光る。天空に登り詰めることができる。

徐福始皇帝に探検の上申をしたのが、史記始皇帝28年(紀元前219年)と記述されています。
しかしこの年に実際に海を越え探検に出たのかは定かではありません。
それはともかく、徐福が、探検に出た頃には山海経は編纂されていたと憶測します。
お伽噺・伝説であった扶桑の樹が、徐福の探検により具体的になります。
水面に生え、根が地表に出ている様は、マングローブの林のような光景が思い浮かびます。

マングローブ

この記述は、実際に徐福が視察した状況を描写しているのか、あるいは伝説を元に想像で描写したのか明らかではありません。
もっとも、金樓子徐福が探検に出た頃から700年くらい後に執筆されたので、ある書物を元に集書されたと思われます。

時代は遡りますが、十洲記金樓子の記述とよく似た記述があります。続いてこれを考察してみます。


4. 十洲記 紀元前154年 - 紀元前92年  東方朔 著

十洲記は、東方朔が執筆した地理書で、前漢の時代、紀元前100年頃に編纂されたとされています。徐福が探索に出てから100年後くらいの書物です。この中に扶桑に関して詳しい記述があります。

扶桑在東海之東岸 岸直 陸行登岸一萬里 東複有碧海
海廣狹浩汗 與東海等
水既不咸苦 正作碧色 甘香味美

扶桑は、東の海の東岸に上陸し、東に陸行1万里したところにあり、またそこには青い海がある。
東の海などと比べると海の広さは狭く、干潟が広大である。
水は今では塩辛くも苦くもなく、正しく緑碧玉色をしていて、甘い匂いがして味は美味しい。

扶桑在碧海之中 地方萬里
上有太帝宮 太真東王父所治處。

扶桑は青緑の海の中にあり、面積が1万里。
そのところに太帝宮があり、太真東王父が統治したところである。
中國の西方には、太真西王母がいたと謂われています。)

地多林木 葉皆如桑 又有椹
樹長者數千丈 大二千餘圍。
樹兩兩同根偶生 更相依倚 是以名為扶桑
仙人 食其椹 而一體皆作金光色 飛翔空玄
其樹雖大 其葉椹 故如中夏之桑也
但椹稀而色赤 九千歲一生實耳 味絕甘香美
地生紫金丸玉 如中夏之瓦石狀
真仙靈官 変化萬端 蓋無常形 
亦有能分形 為百身 為十丈者也

その地に樹林が多く、葉は全て桑のようである。また桑の実を持ったものもある。
樹林の長いものは数千丈(数km)、大木が千余りで周りを囲んでいる。
樹は二つの樹が同じ根から対になって生えていて、更にそれぞれ寄りかかっている。このことから扶桑の名となった。
仙人はその桑の実を食べる。するとみんな、体全体が金色に光り、天空を飛び回る。
その樹は大きいが、その葉と実は中國の桑のようである。
ただし、実はまれに赤く色づく。9、000年に一回実がなるだけである。味はとても甘く香りがよい。
その地では、中國で瓦石を採るが如く、紫磨黄金の丸玉が採れる。
真官仙霊は、全てのものに変化できる。定まった形がないからだ。
また分身する能力があり、100身になることも、背丈30mになることもできた。

扶桑に関して、かなり具体的に記述されています。
また金樓子十洲記の記述はよく似ています。相違は、金樓子は、徐福扶桑を探検したように記述されていますが、
十洲記には、扶桑徐福の関連はありません。
金樓子十洲記の記述は、一方にしかない記述が双方にあるので、それぞれに共通する元になる書物があったのではと推測されます。

徐福は探検にでて、中國には戻らなかったといわれています。
とすると元になる書物は、徐福の探検に同行した数千人のなかの人が、中國に戻り報告した内容を記述した書物があったのではと憶測します。

十州記の記述を考察してみます。

中國の東の海を渡り大地に上陸します。
そこから東に陸行万里のところに扶桑があると記述されています。
十州記には、20万里とか30万里のところに○○國がある、のような記述があります。
東の海から上陸して万里というのは、扶桑は、かなり近いところにあると認識されていたと推測します。

魏志倭人伝に記述されている帯方郡から邪馬壹國までの距離は、1万2000里です。もちろん距離の基準は同じではないでしょうが、1万里というのはもちろん遠いですが、到達可能な距離なのです。
ただ、陸行1万里というとそれなりに大きな陸地です。台湾九州北海道は、陸行1万里には小さいと推測します。該当するとすれば、日本列島本州です。

東の海と比べるとその海は狭く、広大な干潟がある。その水は塩辛くない。
ここでの東の海は、東シナ海、日本海を指していると推測します。

本州で大きな干潟があったと考えられるのはどこなのか。

紀元前200年頃は、河川も海岸も十分な護岸工事はされていなかっただろうし、干潟の埋め立てもされず、天然のままであったと憶測します。
標高の低い現在の平野は、古代は海もしくは干潟であったと憶測します。
これを推測するためにFlood Map+9mに設定して本州を眺めてみます。
+9mで広大な干潟となるのは、西から広島平野岡山平野大阪平野濃尾平野新潟平野関東平野庄内平野秋田県八郎潟津軽平野仙台平野です。

干潟


ただし、東の海から陸行1万里の距離にあることより、日本海側は該当しなくなります。
干潟の水が塩辛くないとすると、干潟には水量の豊富な河川が流れ込み、河口には大きな湾が必要です。
これらから、大阪平野、濃尾平野、関東平野が考えられます。
しかし、扶桑は日が昇るところです。
干潟の東側に標高の高い山が無い、関東平野扶桑に一番合致します。

大阪平野

濃尾平野

関東平野


扶桑の樹については、神異經により詳しく記述されています。

5. 神異經 紀元前154年 - 紀元前92年  東方朔 著

神異經は、古代の神話を編纂したもので十洲記と同じく、東方朔が執筆しました。
これを検討します。

東方有桑樹焉 高八十丈 敷張自輔 
其葉長一丈 廣六七尺 
其上自有蠶 作繭長三尺 繰一繭 得絲一斤
有椹焉,長三尺五寸,圍如長。

東方に桑樹がある。高さ200m。敷地に自分で支えを張りめぐらす。
葉の長さは250cm、幅は150-175cm。
その上には蚕がいる。長さ75cmの繭を作る。一つの繭を手繰ると225gの絹糸を得ることが出来る。
桑の実がなり、長さは88cm、両手を伸ばして抱えるくらい長い。

桑樹の高さは200m。200mといえば45階建ての高層ビルの高さです。
まるで新宿の高層ビル群のように、高さ200mの桑樹が林立していて、畳2枚分より大きい葉を付け、抱き枕くらいの長さの実を付けるというのは、少し誇張していると憶測します。
10分のないし、20分のくらいが現実的な長さです。
高さ20m。葉の長さ25cm幅15-17cm。繭の大きさ7.5cm。この桑の実の長さcm。
これでもびっくりするくらい大きな桑樹です。

徐福が探検に出たのは紀元前219年頃です。この徐福の探検を記述している古い書物は史記です。史記が編纂されたのは紀元前91年頃で、徐福が探検に出た100年後です。

扶桑に関して記述している古い書物は、山海経楚辞です。いずれも戦国時代(紀元前403年~紀元前223年)に編纂されたといわれています。こちらは徐福が探検に出る前です。

徐福は、海の外に蓬萊、方丈、瀛洲の3つの神山があり、ここに不老不死の薬である神薬があると上申して探検に出ます。伝説の蓬萊山の印象を元に探検したのでしょう。
徐福は、扶桑に仙人が住み、そこに神薬があるとは考えていなかったと推測します。
ところがあるところに到達したとき、伝説の扶桑の記述に酷似しているところを見つけたと憶測します。

日が昇るところに近い場所に、広大な干潟があり、ここにマングローブ状に生息する大きな桑の樹林があった。
まさに扶桑の記述に一致します。
干潟の水は湯谷のように熱くはなかったでしょうが、二つの樹が寄り添うように生えていることから、扶桑と呼ぶに相応しい。大そう感激したと憶測します。

そして、この地を扶桑と指定し、伝説の大真東王父の都と決定したのでしょう。
求めていた神薬は、この桑の樹の実であると嘯いたと憶測します。
桑の実は、はじめ白く、だんだん赤くなり熟すると黒くなります。もちろん毎年実がなります。
これでは、桑の実を神薬として持参して、始皇帝の元に帰らなければならないし、その実が神薬としての効能がないことも露見してしまいます。
そこで神薬である桑の実は9000年に一度しか実がならないと、お伽噺を作ったのでしょう。
さらに、扶桑と命名した桑の樹の大きさを極端に誇張することも忘れなかったのです。

扶桑に関する内容は、極めて疑わしいことから史記をはじめとする正史には、長い間記述されませんでした。
しかし、の時代の520-527年に、扶桑國から来た道人の云うことが、現在のことも、昔のことも悉く、尤もであるとして、その100年後の629年に修史された梁書に記述されることになります。
実に、徐福扶桑に辿り着いてから800年以上後に、ようやく扶桑國が認知されるのです。

さて、徐福が辿り着いた扶桑國は、関東平野の可能性があると憶測するのですが、次回、これを考察します。


つづく

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