80.磅磄山(その2)
引き続き、扶桑國の周辺にあった磅磄山について考察を行います。
磅磄山に関する記述は、前回考察しました拾遺記巻三の他に、述異記
にもあります。
述異記については、中華民國教育部の重編國語辭典修訂本に以下の説明がありますで、それを引用し翻訳しました。
重編國語辭典修訂本

画像引用元:https://dict.revised.moe.edu.tw/search.jsp?md=1
舊題南朝梁任昉撰。二卷。
內容凌雜,間有任昉死後之事,
當為唐宋間人掇集類書所引《述異記》,
益以他書,雜記而成。崇文總目,《郡齋讀書志》等始載之。
翻訳は以下です。
南朝の梁(502-557年)に任昉(460-508年)が撰述した著書です。全二巻。
内容は非常に雑多で、任芳の死後の出来事も夾雑している。
この部分は唐宋(唐618-907年、宋960-1279年)の時代の人が収集した類書からの引用と考えられる。述異記。
崇文總目、郡齋讀書志の記述など他の書物で補った雑録である。
補足します。
崇文總目は、北宋の仁宗が1034年に編纂を命じた勅撰の解題目録で、1041年に完成しました。
郡齋讀書志は、南宋の晁公武(1101ー1180年)が編纂した私撰の解題目録です。
話を戻します。
述異記の磅磄山に関する記述を、中國哲學書電子化計劃の以下のところより、原文を引用し翻訳しました。
述異記

画像引用元:中國哲學書電子化計劃
磅磄山去扶桑五萬里
日所不及其地甚寒
有桃樹千圍萬年一實
一說日本國有金桃其實重一斤
翻訳は以下です。
磅磄山は扶桑國がら50、000里にある。
太陽の光がおよばない所があり、その地は甚だ寒い。
周囲千圍(300m)におよぶ桃の樹園がある。1万年に一度実をつける。
一説には日本國に金桃があり、その実の重さは1斤(600g)といわれている。
述異記を撰述した任芳の存命は、460-508年です。日本國が史書に記述されたのは、これより時代が後になります。
一例として、舊唐書(旧唐書)の最初の日本國に関する記述は、
巻六 本紀第六 則天皇后にある以下です。
舊唐書

画像引用元:中國哲學書電子化計劃
冬十月日本國遣使貢方物
天足2年(702年)冬10月に日本國の使者が方物を入貢した。
702年は任昉の存命中より後の時代ですので、述異記に記述されている以下の一文は、唐の時代以降に加筆されたと推測します。
一說日本國有金桃其實重一斤
金桃について補足します。金桃に関する記述は通典 邊防九 の康居伝にあります。
参考のため引用し翻訳します。
大唐貞觀二十一年 其國獻黃桃
大如鵝卵 其色如金 亦呼為金桃
唐の時代の貞觀21年(647年)、康居の國が黄桃を献上した。
鵞鳥(がちょう)の卵ほどの大きさで、金のような色をしている。このため金桃とも呼ばれた。
磅磄山の比定地の考察を行います。
拾遺記および述異記の記述はいづれも以下です。
磅磄山去扶桑五萬里
磅磄山は、扶桑國から50、000里にある。
扶桑國は、熊谷市と比定しています。
1里は、53.3mと仮定しています。
熊谷市から50,000里=2665kmの地点を見てみます。

画像:地理院地図より加工
北北東から北東の方位にカムチャツカ半島があります。
50,000里(2665km)の付近には、カムチャッカ半島の最高峰、標高4750mのクリュチェフスカヤ山があります。

画像:地理院地図より加工
磅磄山は、カムチャッカ半島のクリュチェフスカヤ山に比定することにします。
熊谷市からクリュチェフスカヤ山の距離は2734km(51、295里)で、扶桑國から50、000里の記述にによく一致します。

画像:地理院地図より加工
クリュチェフスカヤ山

画像引用元:ウィキペディア(Wikipedia)クリュチェフスカヤ山
磅磄山

画像:地理院地図Globeより加工
次回は、扶桑國の朝貢について考察する予定です。
つづく
不定期更新予定

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磅磄山に関する記述は、前回考察しました拾遺記巻三の他に、述異記
にもあります。
述異記については、中華民國教育部の重編國語辭典修訂本に以下の説明がありますで、それを引用し翻訳しました。
重編國語辭典修訂本

画像引用元:https://dict.revised.moe.edu.tw/search.jsp?md=1
舊題南朝梁任昉撰。二卷。
內容凌雜,間有任昉死後之事,
當為唐宋間人掇集類書所引《述異記》,
益以他書,雜記而成。崇文總目,《郡齋讀書志》等始載之。
翻訳は以下です。
南朝の梁(502-557年)に任昉(460-508年)が撰述した著書です。全二巻。
内容は非常に雑多で、任芳の死後の出来事も夾雑している。
この部分は唐宋(唐618-907年、宋960-1279年)の時代の人が収集した類書からの引用と考えられる。述異記。
崇文總目、郡齋讀書志の記述など他の書物で補った雑録である。
補足します。
崇文總目は、北宋の仁宗が1034年に編纂を命じた勅撰の解題目録で、1041年に完成しました。
郡齋讀書志は、南宋の晁公武(1101ー1180年)が編纂した私撰の解題目録です。
話を戻します。
述異記の磅磄山に関する記述を、中國哲學書電子化計劃の以下のところより、原文を引用し翻訳しました。
述異記

画像引用元:中國哲學書電子化計劃
磅磄山去扶桑五萬里
日所不及其地甚寒
有桃樹千圍萬年一實
一說日本國有金桃其實重一斤
翻訳は以下です。
磅磄山は扶桑國がら50、000里にある。
太陽の光がおよばない所があり、その地は甚だ寒い。
周囲千圍(300m)におよぶ桃の樹園がある。1万年に一度実をつける。
一説には日本國に金桃があり、その実の重さは1斤(600g)といわれている。
述異記を撰述した任芳の存命は、460-508年です。日本國が史書に記述されたのは、これより時代が後になります。
一例として、舊唐書(旧唐書)の最初の日本國に関する記述は、
巻六 本紀第六 則天皇后にある以下です。
舊唐書

画像引用元:中國哲學書電子化計劃
冬十月日本國遣使貢方物
天足2年(702年)冬10月に日本國の使者が方物を入貢した。
702年は任昉の存命中より後の時代ですので、述異記に記述されている以下の一文は、唐の時代以降に加筆されたと推測します。
一說日本國有金桃其實重一斤
金桃について補足します。金桃に関する記述は通典 邊防九 の康居伝にあります。
参考のため引用し翻訳します。
大唐貞觀二十一年 其國獻黃桃
大如鵝卵 其色如金 亦呼為金桃
唐の時代の貞觀21年(647年)、康居の國が黄桃を献上した。
鵞鳥(がちょう)の卵ほどの大きさで、金のような色をしている。このため金桃とも呼ばれた。
磅磄山の比定地の考察を行います。
拾遺記および述異記の記述はいづれも以下です。
磅磄山去扶桑五萬里
磅磄山は、扶桑國から50、000里にある。
扶桑國は、熊谷市と比定しています。
1里は、53.3mと仮定しています。
熊谷市から50,000里=2665kmの地点を見てみます。

画像:地理院地図より加工
北北東から北東の方位にカムチャツカ半島があります。
50,000里(2665km)の付近には、カムチャッカ半島の最高峰、標高4750mのクリュチェフスカヤ山があります。

画像:地理院地図より加工
磅磄山は、カムチャッカ半島のクリュチェフスカヤ山に比定することにします。
熊谷市からクリュチェフスカヤ山の距離は2734km(51、295里)で、扶桑國から50、000里の記述にによく一致します。

画像:地理院地図より加工
クリュチェフスカヤ山

画像引用元:ウィキペディア(Wikipedia)クリュチェフスカヤ山
磅磄山

画像:地理院地図Globeより加工
次回は、扶桑國の朝貢について考察する予定です。
つづく
不定期更新予定

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