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畿内説、九州説、百花乱立の邪馬壹國の比定地 過去の考古学、民俗学の定説に囚われ過ぎているのか プロの歴史学者も、アマチュアの歴史愛好家も 迷宮を彷徨う 魏志倭人伝の呪縛の29文字 南至投馬國 水行二十曰 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 もし、二十日 十日 一月の記述が無かったならどうだろう 2015年、今、邪馬壹國の比定をGoogle Mapsから試みた


54.東西5月 南北3月

隋書倭國伝に以下の記述があります。

夷人不知里數 但計以日

これを意訳すると以下となると推測します。

夷人は、里を基準として距離を数えることを知らない。
しかし、日を距離の単位の基準として正確に距離を計測している。

http://katsi.blog.fc2.com/blog-entry-58.html

今回は、隋書倭國伝が記述されている、隋書東夷篇の中の距離に関する記述を考察します。
隋書東夷篇(巻八十一列傳第四十六)には、地点間を日、月で記述した箇所がヶ所あります。

百濟伝
 其南海行三月 有牟羅國
 百濟自西行三日 至貊國

流求國伝
 流求國 居海島之中 當建安郡東 水行五日而至
 至高華嶼 又東行二日郤鼊嶼 又一日便至流求

倭國伝
 其國境東西五月行 南北三月行 各至於海

これらは、日と基準とした距離の長さで記述されている可能性を考察する必要があります。

牟羅國
牟羅國は、済州島と比定されています。とするとこの三月は日を基準とした長さの単位で記述されていると推測します。三ヶ月の所要日数は長すぎると思うからです。

貊國
云は、「聞くところによるとそうゆうことだ」の意味です。過去の伝承の意味です。
百濟の都の西に三日行くと、いにしえの貊族の住む國(都)があった。
牟羅國三月が日を基準とした距離であると仮定すると、この三日も日を基準とした距離であると考えるのが自然です。
この考察は、いずれあらためて行いたいと思います。

流求國
流求國建安郡(郡都は現在の福州市)の東にあったと記述されています。
流求國は、沖縄本島なのか、台湾であるのか議論が分かれるところです。
私は、流求國台湾基隆市だったのではと憶測しています。
いずれにしても福州市からの距離は、百濟から牟羅國への距離よりも遥かに長いです。
距離の長さは、建安郡ー流求國 > 百濟ー牟羅國 です。
五日三月は無理があります。ここでの五日は、所要日数であったと推測します。
五日を所要日数と仮定したので、同じ流求國伝の記述の二日、一日も所要日数である考えるのが自然です。

さて、隋書には東夷篇の他に、南蠻篇西域篇北狄篇があります。この中にも地点間を日、月で記述した箇所が、南蠻篇ヶ所、西域篇ヶ所、北狄篇ヶ所、合計ヶ所あります。

南蠻篇

赤土國伝
 水行百餘日而達所都
 又行二三日 西望見狼牙須國之山

婆利國伝
 國界東西四月行 南北四十五日

真臘國伝
 真臘國 在林邑西南 本扶南之屬國也
 去日南郡舟行六十日

西域篇

高昌伝
 高昌國者 則漢車師前王庭也 去敦煌十三日行
 其境東西三百里,南北五百里,四面多大山

北狄篇

室韋伝
 南室韋北行十一日北室韋
 從缽室韋西南四日行 至深末怛室韋

これらのほとんどは、地点間の所要日数が記述されていると推測しますが、以下のヶ所は、日を基準とした長さの単位で記述されていた可能性があると憶測します。

婆利國伝
 國界東西四月行 南北四十五日

これも、あらためて考察することにします。


つづく

不定期、週末更新予定






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